公立志津川病院は、もうどこにもなかった。
地図で探すと、組合病院前という交差点の表示があった。
これが公立志津川病院でした。
組合病院ってなんだろうかと調べてみると、「 1町3カ村国保直営組合病院」という開院時の名前が交差点名に残っていることがわかった。
町村合併もあっていよいよわからなくなった。
この地図にはまだ病院の建物が残っているけど今は何も無くなっている
東日本大震災では4階まで津波に襲われ、必死の救助活動がなされたが、80名近い方が命を落とされた。
以下は、WIKIより転載させていただきました。
2011年(平成23年)3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)では当院4階部分まで津波に襲われ、屋上に避難誘導中の看護師ら4人の病院スタッフと、屋上に避難し切れなかった入院患者109人中67人が津波に飲み込まれた。また、津波から逃れたものの約150人が当院に取り残され、3月12日からの自衛隊ヘリコプターなどによる救出に間に合わなかった患者7人が低体温症や低酸素症で死亡した。なお、救出されるまでの2昼夜医療行為を続けた当院医師の菅野武が、同年4月21日に発表された2011年度のタイム誌「世界で最も影響力のある100人」に、福島県南相馬市長の桜井勝延と共に選ばれた。
3月27日に成田国際空港に着き、外国の医療団として初めて被災地に入ったイスラエル軍の災害派遣医療チームが、「イスラエル医療センター」と称したプレハブ施設で3月29日から4月10日まで医療活動を実施した。同プレハブは、イスラエルの要請で栗原市が発注し、志津川ベイサイドアリーナ(町総合体育館)の駐車場に設置したもので、医療スタッフ等約50人と医療器具等はイスラエル軍が用意した。プレハブは3年リースで、賃借料約2100万円を南三陸町が負担するが、災害救助法の適用で大部分が国庫負担の見通しとなっている。
南三陸町志津川の中心部で撮影しました。
復興商店街にて、大震災以前の写真を見ました。美しい街だったのですね。
右側に映っている大きな白い建物が公立志津川病院です。地域の中核病院だったことがわかります。