稚内が地元のことを学ぶ"稚内学"。 今日は特別講座として間宮林蔵と共に樺太を探検した松田伝十郎に関する講演会を聞きました。
場所は市立図書館で、講師は立正大学名誉教授の仁木勝治先生です。
松田伝十郎(1769~1842)は、幕府の探検隊の上司として1808年に間宮林蔵(1780~1844)と共に樺太へ渡りましたが、松田は島の西側を、間宮林蔵は島の東側を探検しました。
その結果、松田は西側の大陸側を巡って島の半分ほどのところまで行きましたが、このときはそれ以上北上することができなかったため、松田の探検はそこまででした。
間宮林蔵は、西側の探索を命令されて樺太中間の大きなタライカ湾を巡るところまで行きましたが、それ以上先へ進むことができなかったため一度戻って、松田伝十郎と合流し、二人で再び北上。前回よりもさらに北上することで、北側で樺太は大陸とは繋がっていないことをほぼ確信しましたが、それ以上実際に確認することができないままこのときの樺太探検は終了しました。
間宮林蔵は一度戻って報告をしたのちすぐに単独での再探検を願い出てこれが許されると、単身で樺太へ向かいます。そして今回の探検では間宮はさらにはるか北へと北上し、ついにナニオーという土地で樺太が島であることを確認したのでした。
さらに間宮は、その旅の中で、樺太北部に居住するギリヤーク人から『大陸にはデレンという町に清国の役所が存在する』ということを聞き、さらにはロシア帝国の動向を確認したいという衝動にかられました。
当時の国法は鎖国ですから、それを破って他国へ渡ることは死罪にあたることを知りながらも、ギリヤーク人らと共に海峡を渡ってアムール川の下流部を調査しました。
このときの旅で得た知識や情報を彼は帰国したのちに『東韃地方紀行』として残していますが、当時としては初めて日本が知った北東アジアの情勢でした。
そしてこのとき間宮が確認した大陸と島が離れている海峡の最狭部を後にシーボルトが「Mamianoseto=間宮の瀬戸」と命名しました。(海峡全体はタタール海峡とされています)
間宮はその後伊能忠敬に測量術を学んで、伊能忠敬が測量しきれなかった北部北海道の海岸線を測量して伊能の「大日本沿海與地図」の不足分を補って完成させたり、後半生は幕府の隠密として各藩の調査を行う役目を仰せつかりました。
今では間宮林蔵は名のある探検家として認知され、宗谷岬には記念の銅像が立てられたり、稚内百年記念館の博物コーナーでは彼の事績が詳しく紹介され、さらには稚内市のゆるキャラ「りんぞう君」として市内観光の盛り上げに一役買っています。
【稚内市観光協会ホームページより】
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このように間宮林蔵は随分と名が売れているのですが、同じときに探検をした松田伝十郎はほとんど知られていません。
彼の生まれ故郷である新潟県柏崎市を訪ねた方も、「現地で松田伝十郎のことを聞いたけれど、誰も知りませんでした」とのこと。
しかし実は松田伝十郎には心優しい役人としての大きな功績があります。それは樺太アイヌたちが、大陸の山丹人(さんたんじん)達との間で、交換レートが著しく不公平な交易をしていて、その借金のために人身売買までしていたということを知り、その負債の多くを幕府が肩代わりしたということ。
間宮林蔵は、北方四島で幕府に捕えられて松前で囚われの身となっていたゴローニン(ゴローニン事件)を訪ねて、ロシア事情を聞きだそうとしたり自分のロシア語がどうかと尋ねたりしたというエピソードが、ゴローニンが後に書いた日本幽囚記という書物の中にあったり、何としても自分が樺太が島であることを確認したいという強い思いがあるなど、非常に個性的な性格を持っているように思います。
それに対して功名に興味がなく、臣民のことを真剣に考えて対策を講じた心優しき役人としての松田伝十郎はあまりに知られなさすぎているのではないか、と残念に思っているファンも多いはず。
今日の講演会の後半のパネルディスカッションでは仁木先生以上の情報提供がありました。
質問のコーナーがあったので私は、上記の問題意識から「心優しい松田と功名心に燃える間宮、という印象を持つのですが、人となりとしてどうお考えでしょうか」と質問してみました。
仁木先生からは「彼は生涯七度、24年にわたって蝦夷地経営に携わりながらずっと後になって『北夷談』しか著さなかった彼は口下手な印象をもちますねえ」というお話。
また地元の間宮林蔵顕彰会の会長で前市長の横田さんからは、「僕は間宮の功績を宣伝する立場なんだけど(笑)」と笑いつつ、「しかし最初の探検の時に、自分は大陸に近い西側を回り、間宮には東へ行くように指示をしたあたりは、自分が島の証をみつけたい、という思いが少しはあったのではないでしょうか」という示唆に富むお話がありました。
最後に松田伝十郎のエピソードを一つ。彼が最後となった七回目の勤務を終えて江戸へと帰るときには、地元のアイヌたちが宗谷からかなり距離のある稚咲内というところまで名残惜しげに見送りに来たという話があるそうです。
地元から慕われた松田伝十郎。地域の偉人としてもっと資料を集めて顕彰してあげたいものです。
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