K RAUM  お料理を主に日々のことを書いています。

釈迦最後の旅

2006年10月1日昼から降り出す、本降りとなる

毎月第一日曜日の午後は勉強会があります。

内容が難しいのでいつもは頭の中を通りぬけてしまいますが、今日は

さほど重要な部分でなかったので、とても面白く、頭に残っているので

書き留めておきます。

大般涅槃経の一節をローマ字化したパーリー語で読みました。パーリー

語を読めるわけありません。パラフレーズしたものの日本語の部分を読

みました。大般涅槃経は釈迦の最後の1年間の旅の様子を書いてあり

す。釈迦が35歳で悟りをひらいてからの詳しい活動の場所は分かってお

りませんが、ガンジス川流域で活動していたということは確かだと思い

ます。ところが、死の1年前になると生まれ故郷のネパールに向かって

歩き出しました。今日読んだところはヴェーサーリーというところに釈迦

と比丘らが到着した話でした。この時は釈迦の死の約半年前でした。

この土地の高級接客婦人のアンバパーリーが立派な馬車に乗って、

釈迦を訪ねてきて、法話を聞ききました。感動したアンバパーリーは釈

迦と比丘らを明日のお食事に招待しました。釈迦は同意しましたが、

言葉を発することはありませんでした。同じ時に、高貴なリッチャヴィ人

も釈迦を招待しようと、立派な馬車に乗り、ある者はお供ともども青い

装いで、ある者はお供ともども赤い装いで、ある者はお供ともども黄色

い装いで、ある者はお供ともども白い装いで、釈迦のところに出発しま

した。ところが途中で、アンバパーリーの馬車とぶつかってしまいまし

た。リッチャヴィ人はなんてことだと怒りましたが、アンバパーリーは私

は釈迦を明日お招きしてますので、関わっていられませんと、先を急ご

うとすると、リッチャヴィ人は釈迦のご招待を譲れと迫りました。アンバ

パーリーはどんなにたくさんお金をもらっても譲れませんとお断りしまし

た。

リッチャヴィ人は釈迦のところに向かいました。釈迦はリッチャヴィたちの

馬車の行列を遥かに眺めて、比丘たちに、33の天を見たことがなかったら、

リッチャヴィたちをそれと見るがいいといいました。

リッチャヴィ人は釈迦のところに到着すると、明日の食事を招待しました。

すると釈迦は明日はアンバパーリーのところにいきますと、答えました。

アンバパーリーのマンゴ園で釈迦と比丘らは気持ちよくお食事をして、

宿泊しました。アンバパーリーは釈迦と比丘らにマンゴ園を寄進したいと

申し上げると、釈迦は受け取りました。



私たちにとって祇園精舎の寄進はよく知られていますが、このマンゴー園も

それに劣らないほどの立派なもののようです。

青・赤・黄色・白の衣装のいでたちのリッチャヴィ人と33の天とは何のことだ

ろうと思われるでしょう。インドの世界観は須弥山の周りに4つの峰があり、

それぞれに8人の天が住んでいると思われていました。そこで、8×4で

32天、そして一番中心の天、すなわちインドラ=梵天で33天となります。
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