尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

子規のいた町ー根岸散歩②

2019年07月31日 21時00分20秒 | 東京関東散歩
 台東区根岸という場所は、明治の俳人正岡子規が住んでいて、そして死去した町である。子規が住んでいた家が「子規庵」として公開されている。えっ、そんなものが残っているのかと思うと、関東大震災では家屋が傾きながらも何とか残ったが、1945年4月に空襲で焼失してしまった。しかし、外観、間取りなどを同様に、1950年に同じ場所に再建された。1954年には東京都の史跡に指定された。再建からもう70年近く経ち、今では歴史的ムードに浸れる場所になっていると思う。
   
 外観は上の最初の写真のように、昔風の小さな一軒家。それよりそこへ行くまでが大変だ。山手線鶯谷駅下車徒歩5分だが、この鶯谷という駅の東口はいわゆる「ラブホテル街」なのである。そういう場所の中でも、こんなに駅前に乱立しているのは珍しい。線路に沿って日暮里方向へホテル街を抜けて、すぐの場所に「子規庵」がある。いや、こんな場所にという感じなのである。そして、公開時間は10時半から16時、12時から13時はお休みだから、案外入りにくい。最初に行ったときはお昼休みだった。真ん前に旧中村不折邸という書道博物館が建っている。こっちはまだ入ってない。
   
(2枚目は子規庵の外壁にある庭の説明写真。3枚目は書道博物館。)
 正岡子規と言ったら、近代の写生俳句の創始者で、愛媛県松山生まれ。東京で夏目漱石と友人となり、「野球」という言葉の名付け親である。しかし、長いこと結核で病臥したあげく若くして死んだ。ということをいま何も見ずに書いたけど、実はちゃんと読んだことがないのである。調べてみると、1867年に生まれて、1902年に亡くなった。1894年(明治27年)に、旧前田藩下屋敷の長屋に母と妹を呼び寄せて住んだ。それがこの根岸の家である。翌年からたびたび句会歌会が行われた。根岸短歌会には伊藤左千夫、長塚節らが集い、「アララギ」に発展する。
   
 500円払って子規庵に入ると、一番最初の写真のように畳敷きの部屋がある。一間に「子規終焉の間」と木札がある。子規の文机などが再現されている。隣の間で簡単な子規紹介のビデオを見られる。他に子規を解説する展示室もある。まあ小さい家なのは初めから判ってるけど、やはり小さいなあ。と思うと、案外庭が大きい。靴を持って上がり、庭から外出するようになっている。ヘチマ(糸瓜)の棚があって、子規の頃と同じだという。9月19日が「糸瓜忌」である。正岡家が使った井戸の跡もある。
 
 根岸界隈を歩いていると、よく子規の句碑にぶつかる。俳句募集などの貼紙も多い。そんな中で、有名な「豆富料理」(豆腐じゃなくて豆富と書いている)の店「笹の雪」の前にも、子規の碑があった。正岡子規は一高、東大(当時はただの帝国大学)を出て、国民主義的なジャーナリスト、陸羯南(くが・かつなん)が編集長を務める日本新聞社に勤めた。日清戦争では従軍記者として遼東半島まで赴き、その帰りに喀血した。日本の詩歌史において、古今和歌集を否定して万葉集を評価した。そのような思想的な全体像を僕はよく知らない。でも、まあ「子規庵」は一度行ってもいい場所かなと思った。
コメント
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