フランコ・ゼッフィレッリ(Franco Zeffirelli)の訃報が伝えられた。1923年2月12日~2019年6月15日、96歳。イタリアの映画監督、演劇・オペラの演出家である。若い頃に見て大きな影響を受けた「ロミオとジュリエット」(1968)や「ブラザー・サン シスター・ムーン」(1972)を思い出した人も多いんじゃないだろうか。僕らの世代ならテーマ曲を口ずさめるだろう。そう言えば、僕は「ゼッフィレッリ自伝」(創元ライブラリ)を持ってるんだった。1986年に原著が出て、1989年に翻訳された。1998年に文庫化され、2003年に再版されたのが、僕の持ってる本。600頁もある長大な本で、今まで存在も忘れていた。
(フランコ・ゼッフィレッリ)
この機会を逃せば読まずに終わりそうだから、読んでしまうことにした。ずいぶん掛かったけれど、これはものすごく面白い本だった。20世紀後半の有名人が綺羅星のようにたくさん出てくる。ビックリしてしまうぐらい。またイタリアのパルチザン運動の実情がよく判る。今では「創元ライブラリ」という文庫自体がなくなって、新本では入手できない。Amazonを見たら、文庫版の古書が1万3千円もしていた。
まず驚いたのが「出生の秘密」。自伝の表記に従いゼッフィレッリと書くが、当然のことだけど僕はゼッフィレッリ家に生まれたんだと思ってた。それが違ってた。彼は「私生児」だったのだ。でも父も母も判っている。フィレンツェに住んでいた仕立屋の父は、足のケガで第一次大戦に出征しなかった。その間に父は多くの人妻に子どもを産ませていた。そして戦争後に39歳のデザイナーと愛し合い、生まれたのがフランコ。父方は母親が激怒し、母方は夫が結核で死の床にあり、どっちも子どもの届け出に反対した。「名無し」になってしまった子どもは市役所がAからZまで順番に名を付ける慣習になっていた。そして、フランコはZで始まる姓を付ける番だった。マジか、この話。
いろいろあって、結局は父の妹のリーデ叔母さんがフランコを育ててくれた。父とのつながりもあり、英語の家庭教師を付けられた。フィレンツェには長く住み着いた高齢の英国夫人がたくさんいた。それは後に自身で監督した「ムッソリーニとお茶を」(1998)という映画に描かれた。またモームの小説「女ごころ」にも出てくる。この英語体験が彼の人生を決めた。パルチザンを生き抜き、英軍に助けられ通訳となった。後には舞台や映画でシェークスピアを何度も取り上げた。これすべて、英語を通したイギリスとの関係が生きた。もっとも、戦時中に助けられた軍隊は、フランコが「English?」と聞くと沈黙した。そして俺たちは「サイテーのイングランドやろうじゃないよ。」彼らはスコットランド人だったのだ。
フランコは建築の勉強をしていたが、戦争末期にパルチザンに参加した。1943年にイタリアは降伏し、ムッソリーニも解任されたが、ドイツ軍がムッソリーニを救出して北イタリアを支配した。ファシズム軍に徴兵される前に、多くの若者が山に逃げた。戦時中にフランコはファシズム勢力にも殺されかかるが、教条的な共産党系パルチザンにも殺されかかった。彼は生涯に何度か、死の危機に見舞われたが、生き延びたフランコは信心深くなった。自伝以後になるが、フランコはベルルスコーニ派から出馬して国会議員を務めたという。それは知らなかったが、政治意識は右派的だったらしい。パルチザン側も多くの住民を殺害したのを見て、反共的になったのだと思う。
戦後になって、フランコはフィレンツェに公演に来たルキーノ・ヴィスコンティに気に入られる。照明助手の仕事に潜り込んでいただけの若者が、どうして有名人に近づけたのか。ヴィスコンティはミラノ公爵家の跡継ぎで、誰もが知る人物だった。その生活ぶりは興味深い。戦時中に作った映画「郵便配達は二度ベルを鳴らす」が「ネオ・レアリズモ」のさきがけとして評価されていた。しかし、シチリアで撮影した大作映画「揺れる大地」は興行的に失敗した。その内情の批判も出てくるが、「赤い貴族」ヴィスコンティは本気で革命を支持していた。映画を作る資金がなくなり、ヴィスコンティはシェークスピアの「お気に召すまま」を演出する。しかし新味を出すため舞台美術をサルバドール・ダリに依頼した。
そのため美術や衣装がてんてこ舞いになるが、ある日彼らの衣装が後回しにされていた。直さないと今日の公演で歌わないと言い張る歌手がいるのだという。それは一体誰だとヴィスコンティはチケット取りを命じる。舞台美術に忙殺されていたフランコは、寝るだろうと思いつつ聴きに行くと、圧倒的な歌唱力に寝る間もなかった。それが彼の人生を大きく変えるマリア・カラスとの出会い。そしてテネシー・ウィリアムズの舞台を手がけた後、ヴィスコンティは再び映画を作ろうとする。今度はフランスで作ろうと企画し、フランコは準備でパリを初めて訪れる。ヴィスコンティが書いてくれた紹介状は3通。ジャン・マレー、ジャン・コクトー、ココ・シャネル。シャネルとは生涯の付き合いとなる。
こんな調子で書いてると永遠に終わらない。やがてヴィスコンティと決別し、そのため演劇、映画ではなく、オペラ演出が中心となった。マリア・カラスの絶頂期はフランコの演出。そしてオナシスとの出会いと別れ、揺れるカラスを見続ける。そこら辺の人間関係は複雑だ。アンナ・マニャーニ、ローレンス・オリヴィエなどの他、ちょっとの出会いだけど、マリリン・モンローやビートルズと仕事をする可能性さえあった。そして、映画「ロミオとジュリエット」で世界的に知られた。主演はレナード・ホワイティングとオリヴィア・ハッセー。すぐに言える。忘れられない。ニーノ・ロータの音楽も素晴らしい。
僕はアッシジの聖フランチェスコを描いた「ブラザー・サン シスター・ムーン」がものすごく好きで何度も見た。これはヴェトナム戦争に傷ついた若者の映画だなと思ったけど、実際監督はそういう意識で作っていた。「ロミオとジュリエット」がアカデミー作品、監督賞にノミネートされた時期に、フランコはジーナ・ロロブリジーダが運転した車の事故で死にかけていた。それが彼を信心深くしたが、同時にフランコの深層意識にはかつてヴェネツィア映画祭で見た市川崑の「ビルマの竪琴」があった!エッと驚くが、そう書かれている。世界的にはあまり評価されなかったが、日本での高評価が嬉しかったとある。
(ブラザー・サン シスター・ムーン)
まだまだ映画でもオペラでも面白い話が満載だが、もう終わりにしたい。仕事の話もすごいが、家族や友人との関わりも感動的だ。書かれていないことも多いが、20世紀後半のヨーロッパ文化界の貴重な証言。ウィキペディアには彼が同性愛を公言していたと出ているが、セクシャリティに関する記述は少ない。若い頃に女性を妊娠させた体験がちょっと出てくるだけ。(田舎で出会って、都会で多忙なフランコに妊娠を知らせられず、結局流産したとある。)イタリア映画界でもフェデリコ・フェリーニは一言も出てない。まあ1986年で出た本だから、まだ書けなかったことも多いだろう。でも素晴らしく面白く、心に刻まれる本だ。この本を読んで、フランコ・ゼッフィレッリは天国に召されたのだと実感した。
(フランコ・ゼッフィレッリ)
この機会を逃せば読まずに終わりそうだから、読んでしまうことにした。ずいぶん掛かったけれど、これはものすごく面白い本だった。20世紀後半の有名人が綺羅星のようにたくさん出てくる。ビックリしてしまうぐらい。またイタリアのパルチザン運動の実情がよく判る。今では「創元ライブラリ」という文庫自体がなくなって、新本では入手できない。Amazonを見たら、文庫版の古書が1万3千円もしていた。
まず驚いたのが「出生の秘密」。自伝の表記に従いゼッフィレッリと書くが、当然のことだけど僕はゼッフィレッリ家に生まれたんだと思ってた。それが違ってた。彼は「私生児」だったのだ。でも父も母も判っている。フィレンツェに住んでいた仕立屋の父は、足のケガで第一次大戦に出征しなかった。その間に父は多くの人妻に子どもを産ませていた。そして戦争後に39歳のデザイナーと愛し合い、生まれたのがフランコ。父方は母親が激怒し、母方は夫が結核で死の床にあり、どっちも子どもの届け出に反対した。「名無し」になってしまった子どもは市役所がAからZまで順番に名を付ける慣習になっていた。そして、フランコはZで始まる姓を付ける番だった。マジか、この話。
いろいろあって、結局は父の妹のリーデ叔母さんがフランコを育ててくれた。父とのつながりもあり、英語の家庭教師を付けられた。フィレンツェには長く住み着いた高齢の英国夫人がたくさんいた。それは後に自身で監督した「ムッソリーニとお茶を」(1998)という映画に描かれた。またモームの小説「女ごころ」にも出てくる。この英語体験が彼の人生を決めた。パルチザンを生き抜き、英軍に助けられ通訳となった。後には舞台や映画でシェークスピアを何度も取り上げた。これすべて、英語を通したイギリスとの関係が生きた。もっとも、戦時中に助けられた軍隊は、フランコが「English?」と聞くと沈黙した。そして俺たちは「サイテーのイングランドやろうじゃないよ。」彼らはスコットランド人だったのだ。
フランコは建築の勉強をしていたが、戦争末期にパルチザンに参加した。1943年にイタリアは降伏し、ムッソリーニも解任されたが、ドイツ軍がムッソリーニを救出して北イタリアを支配した。ファシズム軍に徴兵される前に、多くの若者が山に逃げた。戦時中にフランコはファシズム勢力にも殺されかかるが、教条的な共産党系パルチザンにも殺されかかった。彼は生涯に何度か、死の危機に見舞われたが、生き延びたフランコは信心深くなった。自伝以後になるが、フランコはベルルスコーニ派から出馬して国会議員を務めたという。それは知らなかったが、政治意識は右派的だったらしい。パルチザン側も多くの住民を殺害したのを見て、反共的になったのだと思う。
戦後になって、フランコはフィレンツェに公演に来たルキーノ・ヴィスコンティに気に入られる。照明助手の仕事に潜り込んでいただけの若者が、どうして有名人に近づけたのか。ヴィスコンティはミラノ公爵家の跡継ぎで、誰もが知る人物だった。その生活ぶりは興味深い。戦時中に作った映画「郵便配達は二度ベルを鳴らす」が「ネオ・レアリズモ」のさきがけとして評価されていた。しかし、シチリアで撮影した大作映画「揺れる大地」は興行的に失敗した。その内情の批判も出てくるが、「赤い貴族」ヴィスコンティは本気で革命を支持していた。映画を作る資金がなくなり、ヴィスコンティはシェークスピアの「お気に召すまま」を演出する。しかし新味を出すため舞台美術をサルバドール・ダリに依頼した。
そのため美術や衣装がてんてこ舞いになるが、ある日彼らの衣装が後回しにされていた。直さないと今日の公演で歌わないと言い張る歌手がいるのだという。それは一体誰だとヴィスコンティはチケット取りを命じる。舞台美術に忙殺されていたフランコは、寝るだろうと思いつつ聴きに行くと、圧倒的な歌唱力に寝る間もなかった。それが彼の人生を大きく変えるマリア・カラスとの出会い。そしてテネシー・ウィリアムズの舞台を手がけた後、ヴィスコンティは再び映画を作ろうとする。今度はフランスで作ろうと企画し、フランコは準備でパリを初めて訪れる。ヴィスコンティが書いてくれた紹介状は3通。ジャン・マレー、ジャン・コクトー、ココ・シャネル。シャネルとは生涯の付き合いとなる。
こんな調子で書いてると永遠に終わらない。やがてヴィスコンティと決別し、そのため演劇、映画ではなく、オペラ演出が中心となった。マリア・カラスの絶頂期はフランコの演出。そしてオナシスとの出会いと別れ、揺れるカラスを見続ける。そこら辺の人間関係は複雑だ。アンナ・マニャーニ、ローレンス・オリヴィエなどの他、ちょっとの出会いだけど、マリリン・モンローやビートルズと仕事をする可能性さえあった。そして、映画「ロミオとジュリエット」で世界的に知られた。主演はレナード・ホワイティングとオリヴィア・ハッセー。すぐに言える。忘れられない。ニーノ・ロータの音楽も素晴らしい。
僕はアッシジの聖フランチェスコを描いた「ブラザー・サン シスター・ムーン」がものすごく好きで何度も見た。これはヴェトナム戦争に傷ついた若者の映画だなと思ったけど、実際監督はそういう意識で作っていた。「ロミオとジュリエット」がアカデミー作品、監督賞にノミネートされた時期に、フランコはジーナ・ロロブリジーダが運転した車の事故で死にかけていた。それが彼を信心深くしたが、同時にフランコの深層意識にはかつてヴェネツィア映画祭で見た市川崑の「ビルマの竪琴」があった!エッと驚くが、そう書かれている。世界的にはあまり評価されなかったが、日本での高評価が嬉しかったとある。
(ブラザー・サン シスター・ムーン)
まだまだ映画でもオペラでも面白い話が満載だが、もう終わりにしたい。仕事の話もすごいが、家族や友人との関わりも感動的だ。書かれていないことも多いが、20世紀後半のヨーロッパ文化界の貴重な証言。ウィキペディアには彼が同性愛を公言していたと出ているが、セクシャリティに関する記述は少ない。若い頃に女性を妊娠させた体験がちょっと出てくるだけ。(田舎で出会って、都会で多忙なフランコに妊娠を知らせられず、結局流産したとある。)イタリア映画界でもフェデリコ・フェリーニは一言も出てない。まあ1986年で出た本だから、まだ書けなかったことも多いだろう。でも素晴らしく面白く、心に刻まれる本だ。この本を読んで、フランコ・ゼッフィレッリは天国に召されたのだと実感した。