尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

選挙運動の抜本的改革

2019年07月18日 23時09分19秒 |  〃  (選挙)
 7月21日の参議院選挙が近づいたけれど、なんだか選挙期間が短いなと思う。この前の日曜日は「ラスト・サンデー」だとニュースで報道していたけど、その前の日曜は「公示後初めての日曜日」と報じていた。選挙期間中に2回しか日曜がない。「日曜」を特に報じるのは、多くの人が休日だから繁華街で各党の党首が大々的な街頭演説をするからだろう。それなら、そういうニュースがある日がもう少し欲しいと思う。いや選挙運動は迷惑だから、早く終わって欲しいという人もいるだろう。それに候補者の方も、これ以上運動期間が延びると体力も財力も持たないという場合も多いだろう。でも、発想を変えれば選挙運動はガラッと変えられる。前にも書いたけど、改めてここで考えてみたい。
(白石聖を起用した神奈川県の啓発ポスター)
 選挙期間が短いとどういう問題があるだろうか。それはまず「新人に不利」ということだ。現職候補は少なくとも一回は有権者に名前を書いてもらっている。その知名度の差は、よほどのタレント候補じゃない限り短期には埋められない。もう一つは「選挙運動に接する機会が少ない」、だから「有権者が議論する時間が少ない」ということである。僕も毎日のように都心方面に出かけているが、一度も出会ってない。自分で調べて行くか、あるいは動員されない限り、選挙演説にはなかなか出会わない。有権者からすれば、一番候補者を理解できる機会なんだけど、特に参院選は選挙区が広すぎるのである。

 今の選挙では公費でまかなう部分が多い。だから、ただ選挙期間を延ばすと選挙カー料金など公費負担が多くなってしまう。僕が考えるのは、そういう風に単純に選挙期間を長くするんじゃなくて、お金のかからない選挙運動を「早める」ということだ。例えば選挙ポスター掲示板である。掲示板で「こういう候補が出てるのか」と知ることが多い。特に東京の参院選や知事選は多くの人が立候補するので、ポスター掲示板の意味は大きい。だけど、主要政党の候補はもっと早く決まっている。支持団体回りなど事実上の選挙運動はとっくに始まっている。公示段階は「終盤戦」だと言われたりする。組織に縁のない無党派層、新聞を読まない人などが知らないうちに「終盤戦」になっているのだ。

 だったらもっと早期に立候補届け出を始めて、さっさとポスターを貼れるようにすればいいじゃないか。だけど、その段階ではポスターを貼ったり、街頭演説をしたり、インターネットを使った運動しか認めない。それが一ヶ月前で、2週間前頃から選挙カーによる連呼などを認めればいい。そして一番迷惑な「電話」を禁止して、「文書」「戸別訪問」を解禁する。戸別訪問も迷惑だけど、選挙にはある程度の迷惑はやむを得ない。顔の見ない電話戦術より、候補者や運動員と直接話せる戸別訪問の方がいいと思う。一番迷惑な電話がよくて、他のことが認められないのは理解できない。

 もう一つ思うのは、「期日前投票」の問題。期日前投票は理由がないと認められない。別に「旅行」に○をして、どこへ行くかなど確認されるわけでもない。だから適当に理由を付けて投票すればいいとも言える。でも、それじゃ期日前投票がやりにくいという意見を投書する人もいる。それも判るけど、公示翌日から期日前投票が出来るというのも早過ぎないか。翌日に早くも投票に行くということは、選挙公報や政見放送は見ませんということだ。もういつも投票するとこは決まってるんだと言うんだろう。でもせっかく税金で作るんだから、広報ぐらい見てからにしては? そう思ったりするわけである。 

 この問題は、先に書いた二段階方式なら解決する。前半はポスターとネット選挙。後半で選挙カーと戸別訪問。そして後半になったら期日前投票も開始。それでいいじゃないか。僕が思うに、選挙戦最終日に運動は一番盛り上がる。そしてマスコミには情勢予測記事が載る。(それは善し悪しだが。)本来はそれを見て、最終的に誰にしようと判断するべきなのではないか。僕は大体そうである。自分が真に全面的に支持し、納得できる候補は今までほとんどいない。だから「まあやむを得ないか」と思って、情勢を見て入れたり入れなかったりするわけだ。それは「揺れ動く」ということだが、逆に考えて期日前にすぐ行く人は揺れてないことになる。「選挙の秘密投票」という意味でも、出来れば期日前じゃない方がいいんじゃないかと思う。

 僕は選挙はやっぱり、必ず行くべきだと思っている。選挙で何かがすぐに良く変わるとは思ってない。でも何かがもっと悪くなるのを少し遠ざけることは出来るかもしれない。新聞に若い世代は「友人と政治の話が出来る人は2割しかいない」と出ていた。でも、実はいつの時代もそんなもんだろう。僕だって、だれかれとなく政治の話なんかしない。でもそれは「友人」ではなく、「知人」である。政治の話が出来ることと「誰に入れるか」は別である。誰かに頼まれたって、投票は秘密なんだから好きに入れればいい。そして長い人生には、政治の話をちゃんと出来る「友人」が何人かは出来る「政治」は「生き方」と深く関わるから、どこかでちゃんと話せる人じゃないと共に生きていくことは出来ないから。
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