「台湾」の李登輝元総統が7月30日に死去した。97歳。日本でも訃報は大きく報道された。台湾では「民主先生」と呼ばれているらしい。「台湾」の直接選挙で選ばれた最初の総統である。いま「台湾」と書いたが、日本は「中華民国」を未承認なので、「地域」とみなすことになる。(1972年に中華人民共和国を承認したことにより、「中華民国」の国家承認は取り消された。)本来のタテマエとしては、李登輝は中国全土を支配するべき「中華民国」の最高責任者だったわけだ。
(李登輝)
1945年に大日本帝国がポツダム宣言を受諾したことにより、日本の植民地だった地域は「解放」された。日清戦争以来、50年間日本の植民地だった台湾は中華民国に返還された。しかし、やってきた中国の国民党は独裁政治を行う。1947年には「2・28事件」と呼ばれる大規模な弾圧事件が起きた。その後、国共内戦に敗れた国民党と蔣介石が台湾に逃れて、一党独裁の支配を続けた。1975年に蔣介石が死亡し、蔣経国が後継となった。農業経済学者だった李登輝は、何度か危ない目に合いつつも、逆に国民党に入党して政界に進出していった。
1978年に台北市長、1981年に台湾省主席、1984年には副総統に指名されるなど、順調に「出世」しているが、蒋経国が後継として考えていたのかは判らない。結局、1988年に蒋経国が死去した後に、規約に基づいて総統代行に就任した。そして、1990年に正式に総統に選任され、任期中に総統の直接選挙制を取り入れた。1996年に実施された直接選挙で、李登輝が得票率54%で当選し初代民選総統になったわけである。晩年の評価を含めて、この民主化プロセスをどう評価するべきだろうか。それは一端置いて、他の人を先に。
アメリカの下院議員、ジョン・ルイスが7月17日に死去、80歳。ジョージア州選出で、1987年年から2020年まで下院議員を17期務めた。この人の名前は知らなかったけれど、公民権運動を中心的に担った一人で、非常に尊敬される黒人政治家だったという。1963年の「ワシントン大行進」を主導した「Big Six」の一人で、1965年には投票権を求める行進中にアラバマ州で警官から頭蓋骨を折る重傷を負ったこともある。こういう人は国内的な知名度は高くても、外国では知らないことが多い。訃報で初めて知った人物だ。
(ジョン・ルイス)
ところで昨日報道されたときに気付かなかったのだが、英文学者、評論家の外山滋比古(とやま・しげひこ)が7月30日に死去していた。96歳。お茶の水女子大名誉教授。近代読者論やエディター論、シェークスピア論などで知られるが、それ以上に1983年に書かれた「思考の整理学」(ちくま文庫)が大ベストセラーになって知られることになった。確かに若い時に一度読んでもいいと思うけど、割合と当たり前の本だと思った。ものすごく多数の一般向けのエッセイを出しているが、それも一定の「常識」を説く感じかなと思う。
(外山滋比古)
さて、李登輝に戻って、多くの国が「民主化」された80年代以後の世界において、「比較民主化学」を考えると李登輝と台湾はどう位置づけられるのだろうか。ラテンアメリカの多くの国で起こった軍事独裁の崩壊、ソ連のゴルバチョフ書記長登場と「ペレストロイカ」、「冷戦崩壊」と東欧諸国の民主化、スペインとポルトガルの一党独裁の崩壊、韓国、フィリピン、インドネシアなどのアジア諸国の民主化、南アフリカのアパルトヘイトの終焉など、実に様々な諸国で様々な「民主化」がほぼ同時的に起こっていたのである。
台湾でも勇敢な民主化運動が存在し、その在野の勢力との相互関係の中で民主化が進んでいった。しかし、韓国やフィリピンで「体制打倒」が民主化だったのに対し、台湾では李登輝のリーダシップの下で「上からの民主化」性が強かったのは確かだろう。スペインの民主化やソ連のゴルバチョフに近かったかもしれない。では李登輝自身はどのように考えていたのだろうか。戦後の台湾社会では、戦後に大陸から移住した「外省人」の支配が続いたが、李登輝はもともと台湾に生まれた「本省人」として初めて最高権力者となった。
もともと内心では「台湾独立派」であって、「体制内改革」を目論んで国民党で出世する道を選んだという解釈は成り立つのだろうか。どうも僕には判らないけれど、独裁政権では「テクノクラート」(技術官僚)が出世することが多い。経済運営には彼らの存在が必要だし、政権には「副」として「長」を支える人物も必要だ。根っからの政党政治家ではない学者出身者は「副」に選ばれやすい。例えばインドネシアのスハルト体制で副大統領になったハビビは、スハルト退陣後に憲法に従って昇格し東ティモールの独立を認めることになる。
李登輝が何を考えていたのかは、確定的な史料はまだないと思う。ただ総統退陣後に「台湾団結連盟」の事実上のリーダーとなり、国民党とも民進党とも別の小グループを作った。政界的には影響力は小さくなったうえ、台湾社会を大きく揺るがした反原発運動や同性婚問題では、明らかに保守派の立場にたった。台湾独立を超えて、「親日」的な姿勢を見せることも多く、単に「民主化のリーダー」としてのみとらえることは出来ないと思う。1993年に司馬遼太郎が台湾を訪れ親交を結んだ。自民党の森元首相が弔問に行くらしいが、実は日本なら「保守」になるのである。
東欧でも自由獲得後30年も経って、今ではポーランドやハンガリーなど極右政治家が権力を握るようになった。チェコでも2018年の「チェコ事件30年」に対して親ロシア派の大統領はメッセージを発しなかった。「自由な選挙」をすれば、自国の運命を自ら決められるはずだが、実際はそう簡単ではなかった。グローバリズムの中で、自国民が自国をあり方を決められないと考え、むしろかつての時代の方がよかったと「旧宗主国」を懐かしむ。そういう例を見ると、「中国」という強大な存在を前にして、生まれ育った時代の「旧宗主国」に近づいた政治家だったと言うべきか。
僕は2001年に亡くなった戴国煇先生の遺著「愛憎李登輝」(邦訳名「李登輝・その虚像と実像」、草風館)の、李登輝への訣別宣言が忘れられない。なお、李登輝が司馬遼太郎に1993年に語った「台湾人である悲しみ」を、世界の人々に知らしめたのは1989年の映画、ホウ・シャオシェンの「悲情城市」だろう。この映画の衝撃と感動は永遠に忘れられない。
(李登輝)
1945年に大日本帝国がポツダム宣言を受諾したことにより、日本の植民地だった地域は「解放」された。日清戦争以来、50年間日本の植民地だった台湾は中華民国に返還された。しかし、やってきた中国の国民党は独裁政治を行う。1947年には「2・28事件」と呼ばれる大規模な弾圧事件が起きた。その後、国共内戦に敗れた国民党と蔣介石が台湾に逃れて、一党独裁の支配を続けた。1975年に蔣介石が死亡し、蔣経国が後継となった。農業経済学者だった李登輝は、何度か危ない目に合いつつも、逆に国民党に入党して政界に進出していった。
1978年に台北市長、1981年に台湾省主席、1984年には副総統に指名されるなど、順調に「出世」しているが、蒋経国が後継として考えていたのかは判らない。結局、1988年に蒋経国が死去した後に、規約に基づいて総統代行に就任した。そして、1990年に正式に総統に選任され、任期中に総統の直接選挙制を取り入れた。1996年に実施された直接選挙で、李登輝が得票率54%で当選し初代民選総統になったわけである。晩年の評価を含めて、この民主化プロセスをどう評価するべきだろうか。それは一端置いて、他の人を先に。
アメリカの下院議員、ジョン・ルイスが7月17日に死去、80歳。ジョージア州選出で、1987年年から2020年まで下院議員を17期務めた。この人の名前は知らなかったけれど、公民権運動を中心的に担った一人で、非常に尊敬される黒人政治家だったという。1963年の「ワシントン大行進」を主導した「Big Six」の一人で、1965年には投票権を求める行進中にアラバマ州で警官から頭蓋骨を折る重傷を負ったこともある。こういう人は国内的な知名度は高くても、外国では知らないことが多い。訃報で初めて知った人物だ。
(ジョン・ルイス)
ところで昨日報道されたときに気付かなかったのだが、英文学者、評論家の外山滋比古(とやま・しげひこ)が7月30日に死去していた。96歳。お茶の水女子大名誉教授。近代読者論やエディター論、シェークスピア論などで知られるが、それ以上に1983年に書かれた「思考の整理学」(ちくま文庫)が大ベストセラーになって知られることになった。確かに若い時に一度読んでもいいと思うけど、割合と当たり前の本だと思った。ものすごく多数の一般向けのエッセイを出しているが、それも一定の「常識」を説く感じかなと思う。
(外山滋比古)
さて、李登輝に戻って、多くの国が「民主化」された80年代以後の世界において、「比較民主化学」を考えると李登輝と台湾はどう位置づけられるのだろうか。ラテンアメリカの多くの国で起こった軍事独裁の崩壊、ソ連のゴルバチョフ書記長登場と「ペレストロイカ」、「冷戦崩壊」と東欧諸国の民主化、スペインとポルトガルの一党独裁の崩壊、韓国、フィリピン、インドネシアなどのアジア諸国の民主化、南アフリカのアパルトヘイトの終焉など、実に様々な諸国で様々な「民主化」がほぼ同時的に起こっていたのである。
台湾でも勇敢な民主化運動が存在し、その在野の勢力との相互関係の中で民主化が進んでいった。しかし、韓国やフィリピンで「体制打倒」が民主化だったのに対し、台湾では李登輝のリーダシップの下で「上からの民主化」性が強かったのは確かだろう。スペインの民主化やソ連のゴルバチョフに近かったかもしれない。では李登輝自身はどのように考えていたのだろうか。戦後の台湾社会では、戦後に大陸から移住した「外省人」の支配が続いたが、李登輝はもともと台湾に生まれた「本省人」として初めて最高権力者となった。
もともと内心では「台湾独立派」であって、「体制内改革」を目論んで国民党で出世する道を選んだという解釈は成り立つのだろうか。どうも僕には判らないけれど、独裁政権では「テクノクラート」(技術官僚)が出世することが多い。経済運営には彼らの存在が必要だし、政権には「副」として「長」を支える人物も必要だ。根っからの政党政治家ではない学者出身者は「副」に選ばれやすい。例えばインドネシアのスハルト体制で副大統領になったハビビは、スハルト退陣後に憲法に従って昇格し東ティモールの独立を認めることになる。
李登輝が何を考えていたのかは、確定的な史料はまだないと思う。ただ総統退陣後に「台湾団結連盟」の事実上のリーダーとなり、国民党とも民進党とも別の小グループを作った。政界的には影響力は小さくなったうえ、台湾社会を大きく揺るがした反原発運動や同性婚問題では、明らかに保守派の立場にたった。台湾独立を超えて、「親日」的な姿勢を見せることも多く、単に「民主化のリーダー」としてのみとらえることは出来ないと思う。1993年に司馬遼太郎が台湾を訪れ親交を結んだ。自民党の森元首相が弔問に行くらしいが、実は日本なら「保守」になるのである。
東欧でも自由獲得後30年も経って、今ではポーランドやハンガリーなど極右政治家が権力を握るようになった。チェコでも2018年の「チェコ事件30年」に対して親ロシア派の大統領はメッセージを発しなかった。「自由な選挙」をすれば、自国の運命を自ら決められるはずだが、実際はそう簡単ではなかった。グローバリズムの中で、自国民が自国をあり方を決められないと考え、むしろかつての時代の方がよかったと「旧宗主国」を懐かしむ。そういう例を見ると、「中国」という強大な存在を前にして、生まれ育った時代の「旧宗主国」に近づいた政治家だったと言うべきか。
僕は2001年に亡くなった戴国煇先生の遺著「愛憎李登輝」(邦訳名「李登輝・その虚像と実像」、草風館)の、李登輝への訣別宣言が忘れられない。なお、李登輝が司馬遼太郎に1993年に語った「台湾人である悲しみ」を、世界の人々に知らしめたのは1989年の映画、ホウ・シャオシェンの「悲情城市」だろう。この映画の衝撃と感動は永遠に忘れられない。