大林宣彦監督の遺作「海辺の映画館ーキネマの玉手箱」がようやく公開された。これは「8月6日」より前に公開しないといけない映画だった。しかし、東京ではわずか2館の上映で、上映時間が179分にも及ぶ長大な映画である。よほどの映画ファン以外は見るのも大変だ。日本映画史に残る「大問題作」だと思ったのだが、どう評価するべきだろうか。
山田洋次監督の「母べえ」の中で、戦局悪化の時節柄、檀れいが故郷の広島に帰るというシーンがある。見ている観客としては「広島に帰っちゃダメだ」と言いたくなるが、当時を生きる人々に先々のことは判らない。ウッディ・アレンの「カイロの紫のバラ」のように、スクリーンの中に飛び込めるんだったら止められるんだけど。それをやってるのが「海辺の映画館」である。ここでは移動演劇隊として広島で被ばくした「さくら隊」を救えるか。タランティーノだったら、いくらでも歴史を改変して救うんだろうが、大林監督の映画では起こった事実は変えられない。
尾道の映画館、「瀬戸内キネマ」が閉館することになり、最後に戦争映画のオールナイト上映が行われる。そこに現れた3人の若い男たちが映画の中に入り込む。それはいいんだけど、何しろ幕末の新選組や戊辰戦争から始まるので、どうしても長くなる。そこで「希子」(のりこ)という名前の少女を守るというミッションが与えられる。時間を超えていくつもの場面が描かれるが、希子は満州では中国人になり、遊郭に売られたり、沖縄戦や広島にも現れる。しかし、ここまでエピソードが多いと、一つ一つは短くなってしまうし説明過多になるのは避けられない。
大林監督が最後に作った4本の映画(「この空の花ー長岡花火物語」「野のなななのか」「花筐/HANAGATAMI」「海辺の映画館-キネマの玉手箱」)は、どれもシネマ・エッセイ的な構成になっている。中では「HOUSE」以前にシナリオが作られていた「花筺」が一番「物語」的な作品だが、それでも自由な構成で物語を再構築している。そういう映画もあってもいいと思うけれど、やはり映画はドキュメンタリーであっても、「物語」としての構成が求められると思う。
闘病を続けながら作られたのだろうが、どうも各エピソードが羅列的、説明的で僕は今ひとつ納得できなかった。後半になって「沖縄戦」「広島」が中心テーマになってくると、さすがに緊迫感が違ってくる。それはやはり日本人にとって、非常に特別なテーマだということがあると思う。それにしても、3人の若者や希子(吉田玲)のセリフが棒読みだから、どうもエピソード羅列的だなという印象を強める。希子がもう少し魅力的だったらと思うんだけど、いくら何でも幼い感じがした。映画はずっとナレーションで進行し、折々に字幕で説明されるがそこにも間違いや誤解がある。
(吉田玲演じる希子)
例えば、山口淑子が後に「代議士」になったと出るが、代議士は衆議院議員の別称で参議院議員はそう言わない。「八路軍」が「中国の人民解放軍」というのも、微妙かもしれないが「後の」とか「現在の」がないとおかしいだろう。「八路軍」とは、国共合作中なんだからタテマエ上は国民政府の下にある「中国国民革命軍」の第八路軍のことである。事実上は華北にあった中国共産党軍の総称として使われたが。それ以上に問題なのは「西郷隆盛が長州に裏切られて」とか「坂本竜馬殺害犯の問題」(諸説あるといえばあるけれど、京都見廻組が定説であるのは疑えない)など、どうも安易に書き飛ばしている感じがした。
そのような問題もあるけれど、一番大きいと思うのは「日清戦争」「日露戦争」が出て来ないために、「植民地」の問題に触れられないこと。近代日本の戦争はすべて植民地争奪の侵略戦争なんだから、そこを描かないと「戦争」を理解出来ない。そして帝国陸海軍は天皇が直接率いるとされたため、国民が自由に批判することが不可能だった。やはり「植民地」と「天皇制」は直接的には商業映画の枠内では描きにくいのだろうか。
この映画では、観客がスクリーンに飛び込んでも過去は変えられない。変えられるのは未来だけだ。当たり前のことなんだけど、そこで映画では観客に向けて、未来を変えるのは観客の役目だと訴える。それが映画のメッセージとすると、かつてない「問題作」と言えるかもしれない。ただ、そういうテーマ性を重視して3時間近いエッセイ的映画を作ると観客が少なくなる。全国の大スクリーンは他の映画に占められている。テーマ性より物語性を重視しないと、観客が多くならない。この背理をどう考えるべきか、僕にはよく判らない。
山田洋次監督の「母べえ」の中で、戦局悪化の時節柄、檀れいが故郷の広島に帰るというシーンがある。見ている観客としては「広島に帰っちゃダメだ」と言いたくなるが、当時を生きる人々に先々のことは判らない。ウッディ・アレンの「カイロの紫のバラ」のように、スクリーンの中に飛び込めるんだったら止められるんだけど。それをやってるのが「海辺の映画館」である。ここでは移動演劇隊として広島で被ばくした「さくら隊」を救えるか。タランティーノだったら、いくらでも歴史を改変して救うんだろうが、大林監督の映画では起こった事実は変えられない。
尾道の映画館、「瀬戸内キネマ」が閉館することになり、最後に戦争映画のオールナイト上映が行われる。そこに現れた3人の若い男たちが映画の中に入り込む。それはいいんだけど、何しろ幕末の新選組や戊辰戦争から始まるので、どうしても長くなる。そこで「希子」(のりこ)という名前の少女を守るというミッションが与えられる。時間を超えていくつもの場面が描かれるが、希子は満州では中国人になり、遊郭に売られたり、沖縄戦や広島にも現れる。しかし、ここまでエピソードが多いと、一つ一つは短くなってしまうし説明過多になるのは避けられない。
大林監督が最後に作った4本の映画(「この空の花ー長岡花火物語」「野のなななのか」「花筐/HANAGATAMI」「海辺の映画館-キネマの玉手箱」)は、どれもシネマ・エッセイ的な構成になっている。中では「HOUSE」以前にシナリオが作られていた「花筺」が一番「物語」的な作品だが、それでも自由な構成で物語を再構築している。そういう映画もあってもいいと思うけれど、やはり映画はドキュメンタリーであっても、「物語」としての構成が求められると思う。
闘病を続けながら作られたのだろうが、どうも各エピソードが羅列的、説明的で僕は今ひとつ納得できなかった。後半になって「沖縄戦」「広島」が中心テーマになってくると、さすがに緊迫感が違ってくる。それはやはり日本人にとって、非常に特別なテーマだということがあると思う。それにしても、3人の若者や希子(吉田玲)のセリフが棒読みだから、どうもエピソード羅列的だなという印象を強める。希子がもう少し魅力的だったらと思うんだけど、いくら何でも幼い感じがした。映画はずっとナレーションで進行し、折々に字幕で説明されるがそこにも間違いや誤解がある。
(吉田玲演じる希子)
例えば、山口淑子が後に「代議士」になったと出るが、代議士は衆議院議員の別称で参議院議員はそう言わない。「八路軍」が「中国の人民解放軍」というのも、微妙かもしれないが「後の」とか「現在の」がないとおかしいだろう。「八路軍」とは、国共合作中なんだからタテマエ上は国民政府の下にある「中国国民革命軍」の第八路軍のことである。事実上は華北にあった中国共産党軍の総称として使われたが。それ以上に問題なのは「西郷隆盛が長州に裏切られて」とか「坂本竜馬殺害犯の問題」(諸説あるといえばあるけれど、京都見廻組が定説であるのは疑えない)など、どうも安易に書き飛ばしている感じがした。
そのような問題もあるけれど、一番大きいと思うのは「日清戦争」「日露戦争」が出て来ないために、「植民地」の問題に触れられないこと。近代日本の戦争はすべて植民地争奪の侵略戦争なんだから、そこを描かないと「戦争」を理解出来ない。そして帝国陸海軍は天皇が直接率いるとされたため、国民が自由に批判することが不可能だった。やはり「植民地」と「天皇制」は直接的には商業映画の枠内では描きにくいのだろうか。
この映画では、観客がスクリーンに飛び込んでも過去は変えられない。変えられるのは未来だけだ。当たり前のことなんだけど、そこで映画では観客に向けて、未来を変えるのは観客の役目だと訴える。それが映画のメッセージとすると、かつてない「問題作」と言えるかもしれない。ただ、そういうテーマ性を重視して3時間近いエッセイ的映画を作ると観客が少なくなる。全国の大スクリーンは他の映画に占められている。テーマ性より物語性を重視しないと、観客が多くならない。この背理をどう考えるべきか、僕にはよく判らない。