イギリス映画「ジョーンの秘密」(Red Joan)が公開されている。宣伝コピーは「イギリス史上最も意外なスパイ」というもので、主演はジュディ・デンチである。ジュディ・デンチは1934年12月9日生まれだから、もう85歳になる。若い頃はロイヤル・シェイクスピア・シアターで活躍し、80年代になってから映画女優として世界に知られるようになった。舞台女優としてはローレンス・オリヴィエ賞を7度も受賞し、映画では「恋におちたシェークスピア」のエリザベス1世役で米アカデミー賞助演女優賞を受賞した。名優中の名優が演じる老スパイとは何故?
冒頭に「実話にインスパイアされた物語」と出る。2000年のこと、高齢のジョーン(ジュディ・デンチ)のところに情報機関が訪ねてきて、拘束されてしまう。外務省に勤めた故ミッチェル卿の資料から、ジョーンがソ連に機密情報を流した疑いが出てきたというのである。映画はそこで1938年に飛ぶ。ケンブリッジ大学で物理学を学ぶ若きジョーン(ソフィー・クックソン)は、寮の窓をたたいて入れてくれと頼んできたユダヤ系ロシア人ソニアと知り合う。彼女に誘われるまま「戦艦ポチョムキン」の上映会に出かけて、従兄弟だというレオ・ガーリチ(トム・ヒューズ)と知り合い惹かれていく。そして内戦下のスペイン支援運動などに出掛けるようになる。
(若き日のジョーン)
映画は過去と現在を行き来しながら進行する。ジョーンは捜査官に「あなた方にはあの時代のことは判らない」と言う。第二次世界大戦前夜である。ヒトラー率いるナチス・ドイツが勢力を拡大していた。ソ連の実情は世界に伝えられず、大恐慌に苦しむ資本主義に対し計画経済のソ連を賛美する人が多かった。スターリンの大粛清の実態など外部からはよく判らなかった。当時を生きた人々の世界には、「ソ連と同盟してドイツと戦う」か、「ドイツと同盟してソ連と戦う」かの選択しかなかったと思って、ジョーンは自ら反ファシストを選んだのである。
大学を卒業したジョーンは核兵器開発を進める機関に採用される。それは実際の歴史では「非鉄金属研究協会」と呼ばれた組織で、確かにウラニウムは非鉄金属には違いない。事務職員だが、物理学を理解していたことが採用の決め手となった。そしてウランの濃縮には遠心分離機を使ってはとアイディアを出す。そんなジョーンはレオと付き合いながら、レオから情報提供を求められる。しかしジョーンは一貫して拒み続ける。
カナダに調査に行く教授に同行、カナダ留学中のレオと再会する。カナダではソ連との協力関係をめぐって論議も起きる。独ソ戦(1941年6月)以後は、イギリスとソ連は同盟国である。そしてアメリカが核兵器の開発に成功して、広島と長崎に原爆が投下された。ニュース映画で見て激しい衝撃を受けたジョーン。ナチスに先がけて原爆を持つ必要を認めていたジョーンだが、実際に使われることは良くないと考えたのである。そこでジョーンは「ある決意」をした。核兵器開発の機密情報をレオに渡すことを。そして多くの情報が渡った。
老いたジョーンは「自分はスパイではない」と語る。「冷戦の中、片方の陣営だけが核兵器を持つことは危険だと思った」というのである。自分が情報を流したことで「世界の均衡」が生まれた。「私の行為は平和を守った」「私は世界を変えた」と公表された後で家に押しかけてきた記者たちにそう言い放つのである。結局、高齢を理由にジョーンは起訴されなかったと最後に字幕が出る。ジュディ・デンチがジョーンを演じていることで判るように、映画は「ジョーンの勇気と善意」を基本的に認めているように思われる。しかし、そのような米ソ双方の「核兵器の抑止力」が戦後世界を守ったという理解はどう考えればいいのだろうか。
この映画はジェニー・ルーニーの原作「Red Joan」の映画化で、現実の出来事とは大きく違っている。モデルとなった女性は、メリタ・ノーウッド(1912~2005)という人物でウィキペディアに日本語の項目もある。それによるならば、メリタはもともと両親が共産主義者で根っからの左翼だった。ケンブリッジの物理出身ではなく、実際はサウサンプトン大学の文系を1年で中退している。1932年から非鉄金属研究協会で働き始め、1937年には共産主義者の教師と結婚した。つまり、映画にあるようなロマンスや冒険は全部創作で、自らの意図でソ連に1930年代半ばから情報を流し続けたのである。疑惑発覚後に自宅前で記者会見した以外は創作が多い。
(モデルとなったメリタ・ノーウッド)
そういう情報を参考にすると、「核兵器の抑止力」神話に基づく「核大国意識」が背景にあると思えてくる。左翼であっても、「核兵器廃絶」ではないのである。究極的な大量破壊兵器である核兵器は、生物兵器や化学兵器と同様に国際条約で禁止するしかないと思う。映画に描かれるジョーンの意識は、核大国のタテマエと大きくは変わらない。そこに原作を映画化したトレヴァー・ナン監督の限界もあるように思う。なお、ジョーンは「私はスパイではない」と言ってるが、「外国の情報機関と知っていて、国家機密を渡す」のは定義上スパイと呼ぶしかない。それが「国家の論理」を超える別の論理で正当化できるものだったとしても。
冒頭に「実話にインスパイアされた物語」と出る。2000年のこと、高齢のジョーン(ジュディ・デンチ)のところに情報機関が訪ねてきて、拘束されてしまう。外務省に勤めた故ミッチェル卿の資料から、ジョーンがソ連に機密情報を流した疑いが出てきたというのである。映画はそこで1938年に飛ぶ。ケンブリッジ大学で物理学を学ぶ若きジョーン(ソフィー・クックソン)は、寮の窓をたたいて入れてくれと頼んできたユダヤ系ロシア人ソニアと知り合う。彼女に誘われるまま「戦艦ポチョムキン」の上映会に出かけて、従兄弟だというレオ・ガーリチ(トム・ヒューズ)と知り合い惹かれていく。そして内戦下のスペイン支援運動などに出掛けるようになる。
(若き日のジョーン)
映画は過去と現在を行き来しながら進行する。ジョーンは捜査官に「あなた方にはあの時代のことは判らない」と言う。第二次世界大戦前夜である。ヒトラー率いるナチス・ドイツが勢力を拡大していた。ソ連の実情は世界に伝えられず、大恐慌に苦しむ資本主義に対し計画経済のソ連を賛美する人が多かった。スターリンの大粛清の実態など外部からはよく判らなかった。当時を生きた人々の世界には、「ソ連と同盟してドイツと戦う」か、「ドイツと同盟してソ連と戦う」かの選択しかなかったと思って、ジョーンは自ら反ファシストを選んだのである。
大学を卒業したジョーンは核兵器開発を進める機関に採用される。それは実際の歴史では「非鉄金属研究協会」と呼ばれた組織で、確かにウラニウムは非鉄金属には違いない。事務職員だが、物理学を理解していたことが採用の決め手となった。そしてウランの濃縮には遠心分離機を使ってはとアイディアを出す。そんなジョーンはレオと付き合いながら、レオから情報提供を求められる。しかしジョーンは一貫して拒み続ける。
カナダに調査に行く教授に同行、カナダ留学中のレオと再会する。カナダではソ連との協力関係をめぐって論議も起きる。独ソ戦(1941年6月)以後は、イギリスとソ連は同盟国である。そしてアメリカが核兵器の開発に成功して、広島と長崎に原爆が投下された。ニュース映画で見て激しい衝撃を受けたジョーン。ナチスに先がけて原爆を持つ必要を認めていたジョーンだが、実際に使われることは良くないと考えたのである。そこでジョーンは「ある決意」をした。核兵器開発の機密情報をレオに渡すことを。そして多くの情報が渡った。
老いたジョーンは「自分はスパイではない」と語る。「冷戦の中、片方の陣営だけが核兵器を持つことは危険だと思った」というのである。自分が情報を流したことで「世界の均衡」が生まれた。「私の行為は平和を守った」「私は世界を変えた」と公表された後で家に押しかけてきた記者たちにそう言い放つのである。結局、高齢を理由にジョーンは起訴されなかったと最後に字幕が出る。ジュディ・デンチがジョーンを演じていることで判るように、映画は「ジョーンの勇気と善意」を基本的に認めているように思われる。しかし、そのような米ソ双方の「核兵器の抑止力」が戦後世界を守ったという理解はどう考えればいいのだろうか。
この映画はジェニー・ルーニーの原作「Red Joan」の映画化で、現実の出来事とは大きく違っている。モデルとなった女性は、メリタ・ノーウッド(1912~2005)という人物でウィキペディアに日本語の項目もある。それによるならば、メリタはもともと両親が共産主義者で根っからの左翼だった。ケンブリッジの物理出身ではなく、実際はサウサンプトン大学の文系を1年で中退している。1932年から非鉄金属研究協会で働き始め、1937年には共産主義者の教師と結婚した。つまり、映画にあるようなロマンスや冒険は全部創作で、自らの意図でソ連に1930年代半ばから情報を流し続けたのである。疑惑発覚後に自宅前で記者会見した以外は創作が多い。
(モデルとなったメリタ・ノーウッド)
そういう情報を参考にすると、「核兵器の抑止力」神話に基づく「核大国意識」が背景にあると思えてくる。左翼であっても、「核兵器廃絶」ではないのである。究極的な大量破壊兵器である核兵器は、生物兵器や化学兵器と同様に国際条約で禁止するしかないと思う。映画に描かれるジョーンの意識は、核大国のタテマエと大きくは変わらない。そこに原作を映画化したトレヴァー・ナン監督の限界もあるように思う。なお、ジョーンは「私はスパイではない」と言ってるが、「外国の情報機関と知っていて、国家機密を渡す」のは定義上スパイと呼ぶしかない。それが「国家の論理」を超える別の論理で正当化できるものだったとしても。