「戦争と文学」シリーズの「ヒロシマ・ナガサキ」を読む前に、田中小実昌(たなか・こみまさ、1925~2000)の本を5冊読んでいた。もともと僕は田中小実昌の本が大好きで、ずいぶん読んできた。特に1979年に出た小説「ポロポロ」(谷崎潤一郎賞)はすごい本だ。今度で3回目だけど、改めて強い印象を受けた。またエッセイも独特の趣(「コミさん節」とでも言うような)があって、時々読み直したくなる。でも読み続けると、今度はその「意味のなさ」に飽きても来る。
(「ポロポロ」)
「意味のなさ」というと誤解されるかもしれない。それまで社会的、歴史的に「重い」本が続けて読んでいて、その「意味の重さ」にたじろぐような感じがした。そこで田中小実昌の本を読んで、「意味抜き」をしたくなったのである。意味のない文章はないわけだし、もちろん田中小実昌の文にも「意味」はある。そう思うから読む人もいるんだろうけど、中公文庫から4月に出た「ほのぼの路線バスの旅」なんか、家を出てフラッとバスに乗って西へ西へと行くだけの記録である。
(「ほのぼの路線バスの旅」)
さすがに一回では無理で、15年掛けて九州にたどり着いた。事前に調べて行くんじゃない。ぶっつけ本番路線バスの旅と言えばテレビ番組みたいだけど、テレビだと各地の映像を見てるだけで楽しい。また事前に決められたミッションがあって、果たして終点まで着けるかなというハラハラがある。それでも解説の戌井昭人が書くように、コミさんと蛭子能収コンビのバス旅を見てみたかった気がする。文章だと地名が羅列されてるだけだから、途中で飽きてくる。その退屈感が時々味わいたくなるんだけど、映像があればもっと楽しいだろう。
(田中小実昌)
田中小実昌の名前は、最初はミステリーの訳者として知ったと思う。それから風貌やストリップなどの本からくる「怪しげ感」のある人と認知した。当時は野坂昭如とか小沢昭一とか色川武大(阿佐田哲也)とか、怪しげな人物がいっぱいいた時代だった。本人も書いているが、そのはげ頭が殿山泰司とよく間違えられた。なんではげちゃったかは、恐らくは苛酷な中国戦線に10代で連れて行かれたことによると思う。1979年に「香具師(やし)の旅」で直木賞を受けて作家として認められたが、大衆文学とも純文学ともつかぬ、というかほとんどエッセイ、いや「つぶやき」(ツイート)みたいな文章を書き続けた。
ちくま文庫から「田中小実昌エッセイ・コレクション」がかつて全6巻出ていた(今は品切れ。)「ひと」「旅」「映画」「おんな」「コトバ」と読み続けて飽きてしまった。最後の「自伝」だけ残っていたのだが、これがめっぽう面白い。何しろ旧制高校を繰り上げ合格しているので、戦後になって東大の哲学科に入学した。しかし、ストリップ劇場で働いたり、米軍のバーテンダー、テキ屋、街頭の易者など「怪しげ」な仕事に熱中して、大学は除籍になった。その若き日の体験を後になってずいぶん書いているが、波瀾万丈の裏話満載で楽しい。
(田名小実昌エッセイ・コレクション「自伝」)
どうしてそうなったかは、本人の特性もあるんだろうけど、生家も変だったし戦争体験も強烈だった。それが書かれているのが「ポロポロ」で、表題作は独立派キリスト教会の牧師だった父の話である。もともと東京生まれだが、父の任地に沿ってあちこち動き、やがて教会を離れて広島県呉で独自の宗教活動をした。「ポロポロ」とは何だというと、信者が語る祈りの言葉で「パウロ」から来てるらしい。でも子どもの目からすると「ポロポロ」つぶやいてるとしか思えない。「この世界の片隅で」、こんな人々も同じ呉市で戦時下に生きていた。
そして実にどうしようもない生徒だったらしい。それでも旧制中学、旧制高校に進み、徴兵検査年限が一年繰り下がった年に高校を繰り上げ卒業にされて、19歳で軍隊へ行った。日本には安岡章太郎、古山高麗雄などの「弱兵小説」があるが、中でも田中小実昌は一番と言ってもいいぐらい弱っちい。もともと虚弱で甲種合格したことがおかしい。戦争末期の1944年(昭和19年)だからだ。それでも「幹部候補生試験」から帰っていいと言われたのは、この人ぐらいだろう。
そのバカバカしい戦争体験は是非本書(河出文庫に生き残っている)で読んで欲しい。何しろただ何千キロも歩いているだけど、人はどんどん死ぬ中で、田中小実昌もアメーバ赤痢、マラリア、コレラにかかって、死んでも全然おかしくないところ、何故か生き残った。何でただ行軍しているかというと、「補充兵」なので「原隊」に行く必要があるが、中国戦線は奥深く原隊は遙か遠くにいる。鉄道や船は物資輸送優先だから、ただの歩兵は歩かされる。炎暑のもと、自分の体重ぐらいある荷を背負うのである。その間、一度も「敵軍」を見ていない。そんなバカなという話である。そして、病気のデパートのような体験が頭髪をなくさせた。
(「自動巻き時計の一日」
父の教会も強烈だが、その後の「これが日本の軍隊か」という体験を生き延びれば、確かに東大で哲学を勉強するより、ストリップ小屋や易者の方が心安らぐだろう。でも「田園調布」に住んでいたが、これは画家の野見山暁治の家で、その妹と結婚していたのである。それでも何か職を得ないといけない。一番長続きしたのが、なんと米軍基地の医学機関だった。神奈川県座間市の米軍キャンプまで通勤した。1960年前後の日々を綴る「自動巻き時計の一日」というフシギな小説がある。今は品切れだというが、今まで読んだことがないタッチの小説だ。米軍で働くとはどういうことかも判る。今は細かく触れないが、「人生は短いが、一日は長い」という名言が出ている。全くその通りだな。
(「ポロポロ」)
「意味のなさ」というと誤解されるかもしれない。それまで社会的、歴史的に「重い」本が続けて読んでいて、その「意味の重さ」にたじろぐような感じがした。そこで田中小実昌の本を読んで、「意味抜き」をしたくなったのである。意味のない文章はないわけだし、もちろん田中小実昌の文にも「意味」はある。そう思うから読む人もいるんだろうけど、中公文庫から4月に出た「ほのぼの路線バスの旅」なんか、家を出てフラッとバスに乗って西へ西へと行くだけの記録である。
(「ほのぼの路線バスの旅」)
さすがに一回では無理で、15年掛けて九州にたどり着いた。事前に調べて行くんじゃない。ぶっつけ本番路線バスの旅と言えばテレビ番組みたいだけど、テレビだと各地の映像を見てるだけで楽しい。また事前に決められたミッションがあって、果たして終点まで着けるかなというハラハラがある。それでも解説の戌井昭人が書くように、コミさんと蛭子能収コンビのバス旅を見てみたかった気がする。文章だと地名が羅列されてるだけだから、途中で飽きてくる。その退屈感が時々味わいたくなるんだけど、映像があればもっと楽しいだろう。
(田中小実昌)
田中小実昌の名前は、最初はミステリーの訳者として知ったと思う。それから風貌やストリップなどの本からくる「怪しげ感」のある人と認知した。当時は野坂昭如とか小沢昭一とか色川武大(阿佐田哲也)とか、怪しげな人物がいっぱいいた時代だった。本人も書いているが、そのはげ頭が殿山泰司とよく間違えられた。なんではげちゃったかは、恐らくは苛酷な中国戦線に10代で連れて行かれたことによると思う。1979年に「香具師(やし)の旅」で直木賞を受けて作家として認められたが、大衆文学とも純文学ともつかぬ、というかほとんどエッセイ、いや「つぶやき」(ツイート)みたいな文章を書き続けた。
ちくま文庫から「田中小実昌エッセイ・コレクション」がかつて全6巻出ていた(今は品切れ。)「ひと」「旅」「映画」「おんな」「コトバ」と読み続けて飽きてしまった。最後の「自伝」だけ残っていたのだが、これがめっぽう面白い。何しろ旧制高校を繰り上げ合格しているので、戦後になって東大の哲学科に入学した。しかし、ストリップ劇場で働いたり、米軍のバーテンダー、テキ屋、街頭の易者など「怪しげ」な仕事に熱中して、大学は除籍になった。その若き日の体験を後になってずいぶん書いているが、波瀾万丈の裏話満載で楽しい。
(田名小実昌エッセイ・コレクション「自伝」)
どうしてそうなったかは、本人の特性もあるんだろうけど、生家も変だったし戦争体験も強烈だった。それが書かれているのが「ポロポロ」で、表題作は独立派キリスト教会の牧師だった父の話である。もともと東京生まれだが、父の任地に沿ってあちこち動き、やがて教会を離れて広島県呉で独自の宗教活動をした。「ポロポロ」とは何だというと、信者が語る祈りの言葉で「パウロ」から来てるらしい。でも子どもの目からすると「ポロポロ」つぶやいてるとしか思えない。「この世界の片隅で」、こんな人々も同じ呉市で戦時下に生きていた。
そして実にどうしようもない生徒だったらしい。それでも旧制中学、旧制高校に進み、徴兵検査年限が一年繰り下がった年に高校を繰り上げ卒業にされて、19歳で軍隊へ行った。日本には安岡章太郎、古山高麗雄などの「弱兵小説」があるが、中でも田中小実昌は一番と言ってもいいぐらい弱っちい。もともと虚弱で甲種合格したことがおかしい。戦争末期の1944年(昭和19年)だからだ。それでも「幹部候補生試験」から帰っていいと言われたのは、この人ぐらいだろう。
そのバカバカしい戦争体験は是非本書(河出文庫に生き残っている)で読んで欲しい。何しろただ何千キロも歩いているだけど、人はどんどん死ぬ中で、田中小実昌もアメーバ赤痢、マラリア、コレラにかかって、死んでも全然おかしくないところ、何故か生き残った。何でただ行軍しているかというと、「補充兵」なので「原隊」に行く必要があるが、中国戦線は奥深く原隊は遙か遠くにいる。鉄道や船は物資輸送優先だから、ただの歩兵は歩かされる。炎暑のもと、自分の体重ぐらいある荷を背負うのである。その間、一度も「敵軍」を見ていない。そんなバカなという話である。そして、病気のデパートのような体験が頭髪をなくさせた。
(「自動巻き時計の一日」
父の教会も強烈だが、その後の「これが日本の軍隊か」という体験を生き延びれば、確かに東大で哲学を勉強するより、ストリップ小屋や易者の方が心安らぐだろう。でも「田園調布」に住んでいたが、これは画家の野見山暁治の家で、その妹と結婚していたのである。それでも何か職を得ないといけない。一番長続きしたのが、なんと米軍基地の医学機関だった。神奈川県座間市の米軍キャンプまで通勤した。1960年前後の日々を綴る「自動巻き時計の一日」というフシギな小説がある。今は品切れだというが、今まで読んだことがないタッチの小説だ。米軍で働くとはどういうことかも判る。今は細かく触れないが、「人生は短いが、一日は長い」という名言が出ている。全くその通りだな。