尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「女誡扇綺譚 佐藤春夫台湾小説集」を読む

2020年10月02日 22時42分08秒 | 本 (日本文学)
 中公文庫8月新刊の佐藤春夫女誡扇綺譚 佐藤春夫台湾小説集」を読んだ。阿部和重の熱に当てられた頭を冷やせるかと思ったら、こっちも案外手強かった。紀行文みたいな作品も多く、すぐ読み終わると思ったら案外時間が掛かったのだ。やはり昔の作品だし、植民地を旅するという特別な体験が難しいのである。それでも非常に興味深い作品集で、佐藤春夫が台湾を旅した1920年からちょうど100年という年(2020年)にふさわしい本だった。
(「女誡扇綺譚」)
 佐藤春夫(1892~1964)は小説家・詩人として昔はよく読まれていた。日本文学全集なんかには必ず1巻が充てられていたものだ。和歌山県新宮市の生まれで、新宮にある佐藤春夫記念館に行ったこともある。中学卒業後に上京して、慶応の予科で永井荷風に師事した。また新宮に大きな犠牲を出した大逆事件に衝撃を受けた。都会生活に疲れて田園に転居した体験を基にした「田園の憂鬱」(1919年)で新進作家として認められたが、その作品や「美しき町」「西班牙犬の家」などの初期のロマティックな作品が僕は昔から大好きだ。
(佐藤春夫)
 それらの作品は今も文庫にあるから読まれているのだろう。1920年には注目される若手作家だったが、恋愛問題などもあって極度の神経衰弱になって同年に帰郷した。そこで台湾の高雄で歯科医をしていた旧友と出会って、台湾行を勧められたのである。そこで彼は6月から10月にかけて、対岸の福建を含めて台湾各地を訪ねる大旅行を敢行した。総督府で先住民調査をしていた人類学者森丑之助を紹介され、森がプランを作って先住民の住む地域まで訪ねた。
(安平古堡)
 まず表題作「女誡扇綺譚」(じょかいせん・きたん)だが、台湾に住む日本人記者が現地の友人と連れだって台南近くの安平を訪れた時の謎めいた体験を描いた作品である。昔は栄えた港だったが、今は寂れきった廃屋が並ぶ町。そこにある廃屋から聞こえてくる謎の女声。ホラーみたいな設定の中に、悲しい真相を探ってゆく。台湾でも人気の高い作品だということで、現地に今も残る館などを紹介するサイトもある。上の写真はオランダが1624年に作った要塞で、この地方は台湾で最初に開かれた地方なのである。この作品が一番小説っぽい構成になっている。
(日月譚)
 他には伝説や童話的な作品もあるが、量的に多いのは「旅びと」「霧社」「殖民地の旅」という紀行のような3つの作品である。本当は阿里山なども行く予定だったが、直前に台風が直撃したためには行けなかった。何とか訪れた日月譚(じつげつたん)の夢幻的なまでの美しさ。しかし、その中に先住民の悲しい現実が書き留められている。美しい風景だけではない。

 後に(1930年)に大事件が起きた霧社にも行っていた。実は一番先住民政策がうまく行っていた地帯とされていたのである。しかし、大事件の10年前の霧社も相当に危うい事態になっていた。北方のサラマオで蜂起が起きていたのである。それでも佐藤春夫は現地を訪ねた。そこでは日本統治が明らかにうまく行っていない。明文では書かれていないが、子どもたちに理解不能な天皇制教育を押しつける愚が示されている。当時の言葉として「蕃人」と書かれているが、見るものは見ている。霧社とはこういう地域だったのかという歴史の証言として価値が高い。

 一方「殖民地の旅」では現地の有力者を訪ねている。台湾では統治者の「内地人」、支配される「本島人」、先住民の「蕃人」に分裂していて、その緊張関係が佐藤春夫の旅にも見え隠れする。「殖民地の旅」は台中周辺で画家や書家を訪ねている。その中で非常な有力者(「台湾共和国」というのがあれば大統領になるだろう人」と言われている)に会う。これは実は林献堂(1881~1956)で、1921年から「台湾議会設置請願運動」の中心となった人物である。戦後は「2・28事件」の後、一時は国民党政府に協力したものの病気を理由に日本に移って死ぬまで帰国しなかった。台湾近代史上の超有名人物で、作中で主人公は丁々発止のやり取りを行っている。これも実は小説であって、主人公がタジタジとなるように描かれているのはレトリックだろう。

 文庫独自に編まれたもので、河野龍也(実践女子大学教授)の解説が詳細で役に立つ。普段は解説は後に読むべきだと思うが、この本は先に読んだ方がいいかと思う。僕は後で読んだので、なるほどそうだったのかと思うところが多かった。最近の日本では台湾スイーツなどの人気も高いが、台湾を知るためには必読の本だ。
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