尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

岩隈久志投手の引退に寄せて

2020年10月24日 22時51分56秒 | 社会(世の中の出来事)
 プロ野球の岩隈久志投手が今シーズン限りでの引退を発表した。39歳である。そう言えば、ここ数年名前を聞かなかったけど、最後は読売ジャイアンツにいたのか。シアトル・マリナーズ時代最後の2017年以来、4年間勝ち星がなかった2016年は16勝12敗だったから、急に活躍できなくなったのだ。前から時々肩を痛めて活躍できない年があった。日本に戻ってからは一回も一軍の登板がなかった。春先に肩を脱臼していたと言うし、やむを得ない引退だろう。
(2018年1月にブルペンで投げた時)
 岩隈投手は忘れてはならない「運命」の人だと思うが、ちょっと印象が薄れているかもしれない。楽天で活躍したが、岩隈が2012年に大リーグに移籍した後で、2013年に田中将大投手が24勝0敗の不滅の大記録を樹立し、リーグ優勝、日本シリーズも制覇した。田中将大の活躍が岩隈を上書きした感もある。また大リーグで所属したマリナーズも、日本人選手ではまずイチローであり、投手でも新人王を獲得した佐々木主浩がいた。近鉄出身の大リーガーとしても、野茂英雄が最初に思い浮かぶ。だから岩隈の印象が薄まってしまったように思う。

 岩隈投手は東京の堀越高校出身で、甲子園出場経験はないものの、1999年度のドラフト会議で近鉄バファローズから5位で指名された。2001年に初出場したが、ウィキペディアを見ると1点リードの8回裏から登板、同点に追いつかれるも、延長10回に中村紀洋の満塁ホームランなどで17対12で近鉄が勝利。これが岩隈の初勝利だという。すごい試合だな。2002年から先発ローテーション入りし、2003年は15勝と球団最多勝利。2004年には初の開幕投手を務め、15勝2敗最多勝利を挙げ、ベストナインに選ばれた。若い時代は「なにわのプリンス」と呼ばれて人気があり、ウチの妻なんかもスポーツニュースで見ると「岩隈クン」なんて呼んでた。
(2004年6月の対西武戦) 
 そして2004年が近鉄最後の年となったわけである。近鉄バファローズという球団自体が消滅してしまった。近鉄球団の経営不振からオリックスとの合併問題が起こり、そこから1リーグ制への移行を唱える声も出てきた。それに反対する選手会が初のストライキを決行し、新規参入希望企業も現れた。それがライブドア楽天だった。細かな経過は省略するが、結局楽天が認められ東北楽天ゴールデンイーグルスが誕生する。そして近鉄所属選手の「選手分配ドラフト」が行われた。オリックスは岩隈を希望したが、結局は本人の希望を入れて楽天へトレードされた。

 この岩隈の選択は非常に重要な意味があった。実際には義父が楽天コーチに就任したという事情もあったようだが、「選手の希望を尊重する」という労使の「申し合わせ」を基に自己の意思を貫いた。1年目の楽天は選手層が薄く38勝97敗1分(最下位)に終わり、岩隈も9勝15敗だった。岩隈がいなかったら、もっと悲惨な成績に終わっていただろう。選手会がストまでして守った2リーグ制も「やはりダメだったか」「所詮ストなんかしても意味ない」などという風潮を呼んだだろう。読売の渡辺恒雄氏の威光が強まり政治的な影響もあったかもしれない。

 2005年の開幕投手、つまり楽天初の先発投手は岩隈だった。そして楽天初の勝利投手も岩隈だった。2006,2007年はケガで不振だったが、2008年は21勝4敗と好成績を挙げ、最多勝利、最優秀勝率とともに、沢村賞に輝いた。2009年の第1回WBCでも活躍し、リーグ戦でも13勝6敗で初の2位、クライマックスシリーズ選出に貢献した。2010年は10勝9敗だったが、シーズンオフにポスティングシステムでの大リーグ挑戦を表明したが、結局交渉がまとまらず残留が決まった。
(2011年の開幕戦)
 その結果、2011年3月11日を東北地方の球団で迎えることになった。チームはオープン戦で関西にいたが、本拠地の球場は使えなくなった。大震災によって2011年のプロ野球開幕は遅れ、初の本拠地開幕戦も出来なくなった。そして4月12日に千葉で行われた開幕戦で、岩隈が5年連続の開幕投手を務めて勝利投手となった。5月に負傷して一年を通した活躍は出来なかったが、この震災後の開幕戦勝利は覚えている人も多いのではないか。

 この年が楽天最後の年となり、2012年からはシアトル・マリナーズに移籍した。以後の勝利数を見ておくと、9勝5敗、14勝6敗、15勝9敗、9勝5敗、16勝12敗、0勝2敗となっている。計63勝39敗、大リーグ通算防御率3.42となっている。まあ大活躍ではなかったかもしれなかったが、それなりの成績は残している。そして何より、2015年8月12日、オリオールズ戦でノーヒットノーランを達成したのである。日本人投手も数多くなったが、他には野茂が2回達成しただけの記録である。
(大リーグでノーヒットノーラン)
 近鉄から楽天へ。そして東日本大震災後の開幕戦勝利。(本人もこれを思い出として挙げていた。)WBCでの活躍。大リーグでのノーヒットノーラン。節目節目にずいぶん記憶すべき活躍をしてきた選手だった。何より「なにわのプリンス」「杜の貴公子」と言われ、投球モーションもカッコよかった。記憶に留めたい選手だった。今後の第二の人生も期待して活躍を祈りたいと思う。
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