日本でも多くの訃報が聞かれたが、広い意味での芸能界の訃報が多かった。芸能界やスポーツ界では早ければ10代で有名になる。しかし、ずっと現役でいられるわけではないので、転身したりするがうまく行くとは限らない。そして何十年もたって、高齢を迎えて訃報を耳にする。そういう意味で50年代、60年代に活躍した人の訃報が多くなってきた。
近年は60年代の「グループサウンズ」関係者の訃報が聞かれるようになった。クレージーキャッツやザ・ドリフターズのように、少しずつ欠けていくのだろう。8月28日にザ・タイガースの元メンバー岸部四郎が亡くなっていた。71歳。すでに昨年萩原健一(ザ・テンプターズ)が亡くなったが、最大の人気バンドだったタイガースでは初である。メンバーの岸辺おさみ(現・岸部一徳)の弟で、加橋かつみの脱退後にメンバーになった。当時は岸辺シローと名乗っていた。71年の解散後は、テレビ番組の司会やドラマ「西遊記」の沙悟浄役などで活躍した。
(岸部四郎)
軽妙なトークで非常に人気があったと思うが、晩年は恵まれなかった。数多くの連帯保証人となって借金がかさみ、1998年に自己破産、事務所も解雇されテレビからも消えた。本人の浪費癖もあったという。その後は時々ヴァラエティ番組などに出ていたようだが、私生活も健康も恵まれないことが多かったという。若い人だと名前を知らないだろう。
・ザ・ゴールデン・カップスのドラム兼ボーカルのマモル・マヌーが1日死去、71歳。同じくベースのルイズルイス加部が26日に死去、71歳。「長い髪の少女」などで知られたグループである。
50年代末のロカビリー・ブームというのがあった。ロカビリーから出て歌謡曲に転身して成功したのが守屋浩だった。9月20日に死去、81歳。「僕は泣いちっち」の大ヒットの他、「有難や節」などがある。当時人気があった歌手、女優の本間千代子と66年に結婚したが、後に離婚した。76年に裏方に転じ、ホリプロ宣伝部長を務めた。ホリプロ創立(当時は堀プロ、1960年)後の最初のヒット歌手で、今年までホリプロに在籍した最長タレントだという。
(守屋浩)
60年代当初に人気歌手として「ツイストブーム」を牽引したと言われるのが藤木孝だった。62年に歌手を引退、俳優に専念してミュージカルやテレビでも活躍していたので、名前は今でも知られていたかと思う。9月20日に死亡したが、死因は自殺ではないかとされる。80歳。高齢ながら近年まで活動していたので驚いた。篠田正浩監督「乾いた花」(1964)を昔見た時に、その独特な存在感にビックリした。その時は名前を知らなかったのである。最後まで「独特な存在感」の俳優だった。「ロッキー・ホラー・ショー」で1986年紀伊國屋演劇賞。
(藤木孝)
やはり独特な存在感でテレビドラマなどの脇役で活躍した斎藤洋介が9月20日に死去、69歳。1979年にNHKドラマ「男たちの旅路」シリーズで注目され、大河ドラマや民放の「人間・失格」「家なき子」などで知られた。映画にもたくさん出ているが、どれも主役ではないので覚えてないことが多い。中では根岸吉太郎監督のミステリー「絆」は印象的だった。
(斎藤洋介)
声優の富田耕生が9月27日没、84歳。テレビアニメや映画の吹き替えなど、長期間にわたって活躍し続けた。報道では「バカボンのパパ」役が書かれていたが、「鉄腕アトム」「鉄人28号」に始まって、有名なアニメには大体関わった。「ジャングル大帝」「魔法使いサリー」「ゲゲゲの鬼太郎」「ルパン三世」などなど。映画の吹き替えでは、アーネスト・ボーグナイン、りー・J・コップ、ロッド・スタイガー、オーソン・ウェルズなどが多い。ハリウッド映画で「独自の存在感」を発揮していた俳優ばかりである。テレビ番組やCMのナレーションも多かった。
(富田耕生)
創作ミュージカルの草分けと言われる劇作家、作詞家の藤田敏雄が9月24日に死去、92歳。労音ミュージカルの担当として、いずみたくと組んで「俺たちは天使じゃない」「洪水の前」など多くのミュージカルを創作した。また1964年以後はテレビで「題名のない音楽会」を立ち上げ、30年以上企画構成を担当した。そういう業績もあるんだけど、それ以上に「若者たち」(ブロードサイド・フォー)や「希望」(岸洋子)を作詞した人だった。知らずに何百回も口ずさんでいたけど。
(藤田敏雄)
日本舞踊家で芸術院会員の花柳寿応(はなやぎ・じゅおう)が9月26日に死去、89歳。花柳流創始家に生まれ、67年に5世花柳芳次郎、07年に家元の4世花柳寿輔を襲名した。日本舞踊界に止まらず、創作舞踊や宝塚などでも活躍したというけれど、この世界のことはよく知らない。2016年に妹の孫、6世花柳芳次郎に寿輔を譲り、自らは2世寿応を名乗った。それ以前に07年の4世寿輔襲名には一門内に反対意見があり、お家騒動なって裁判が長く続いた。
(花柳寿応)
ところで、本来なら9月の訃報トップは、もちろん竹内結子だ。9月27日に自宅で亡くなったが、状況から自殺と伝えられている。40歳。2019年1月に事務所の後輩の俳優と再婚し、今年の1月に第2子が生まれたばかりだった。何があったのか、もちろん僕には判らないが僕も大きなショックを受けた。トップにすると画像が大きく出るので、あえて「芸能界」の最後に書くことにした。映画の代表作は「サイドカーに犬」だが、これは先に書いた阿部和重「ニッポニア・ニッポン」が芥川賞候補になったときに、同時に候補作だった。ここでもその時に触れたのだが、それを書いたのが9月25日だった。竹内結子が主演した「春の雪」の舞台とされる鎌倉文学館に行った話は9月23日。あまりと言えばあまりの偶然に言葉もなかったという感じだ。
(竹内結子)
20世紀終わり頃から主にテレビドラマに出演し、1999年の連続テレビ小説「あすか」のヒロインに抜てきされた。2003年の映画「黄泉がえり」が話題となり、2005年の映画「いま、会いに行きます」もヒットした。同作で共演した中村獅童と結婚、第1子を出産した。2007年の根岸吉太郎監督「サイドカーに犬」はたくさんの賞を受けているが、僕もこれは原作も映画そのものも大好きで、竹内結子の演技も素晴らしかった。
芸能界以外では、国立がんセンター名誉総長、文化勲章受章の杉村隆が6日死去、94歳。ガンの基礎研究の第一人者で、ネズミに人工的に胃がんを発生させたり、肉や魚のこげに発がん物質を見つけるなどした。がんがDNA変化で起きるという基本概念を確立した。
(杉村隆)
元労働大臣、参議院議員の村上正邦が9月10日死去、88歳。「生長の家」の推薦で、1980年から参議院に4回当選。それ以前から「日本を守る会」に参加し「元号法制化運動」などに関わっていた。自民党内の右派系議員として次第に頭角を現し、1995年に党参議院幹事長。中曽根派後継の渡辺美智雄派に所属、渡辺の死後に派閥を受け継いだ。1999年に三塚派(旧福田赳夫派)を抜けた亀井静香グループと「志帥会」(現二階派)を結成した。同年、党参議院議員会長となり「参議院のドン」とまで言われた。そして、2000年に小渕首相が倒れたときに、「五人組」の一員として当時の森喜朗幹事長を後継首相に推す流れを作った。
(村上正邦)
そこまでは「栄光の日々」だが、2001年にはKSD事件に関わり、あっという間に失脚した。生長の家が政治活動から手を引いたため、中小企業団体のKSD中小企業経営者福祉事業団(現あんしん財団)の支援を受けていた。そしてKSDの不正経理から政界汚職事件が発覚。村上は「ものつくり大学」設立をめぐってワイロを受け取ったとして、逮捕・起訴され懲役2年2ヶ月の実刑が確定した。本人は冤罪を主張して、出所後には「世界」や「週刊金曜日」などで日本の司法批判を展開した。参議院に対する影響力も多少は残ったとも言われている。
元三井住友銀行頭取、元日本郵政社長の西川善文が9月11日死去、82歳。旧住友銀行に入行、磯田一郎氏のもとで、安宅産業の破綻処理、平和相互銀行の吸収合併などに手腕を発揮した。2001年に住友銀行とさくら銀行(三井銀行と太陽神戸銀行が1990年に合併した太陽神戸三井銀行が1992年に改称)が合併した三井住友銀行で初代頭取を務めた。金融再編の手話が評価されて、2006年に日本郵政初代社長に迎えられたが、09年の政権交代直後に辞任した。
(西川善文)
・岩佐幹三(いわさ・みきそう)、7日没、91歳。日本原水爆被害者団体協議会(被団協)顧問(元代表役員)。金沢大名誉教授(法学)。広島で被爆し、オバマ大統領の広島訪問に立ち会い、ICANのノーベル平和賞受賞時には記者会見した。
・岩松繁俊、23日没、92歳。元原水禁(原水爆禁止日本国民会議)議長、長崎大名誉教授、社会思想史。長崎で被爆し、バートランド・ラッセルと親交を持ち、平和運動を進めた。核兵器禁止を世界に訴えていくためには、日本の加害責任の自己批判が必要との「加害と被害の二重構造」論を唱えた。岩佐、岩松両氏のように、原水禁運動関係者も近年物故が相次いでいる。
・深川秀夫、2日没、73歳。バレエダンサー。69年モスクワ国際バレエコンクール銀賞。
・神近義邦、5日没、78歳。92年にハウステンボスを創業した。
・竹内誠、6日没、歴史学者。日本近世史専攻で、江戸時代の都市史を研究した。江戸東京博物館館長、徳川林政史研究所長なども務めた。相撲教習所で相撲史を教えたり、大河ドラマの時代考証を担当しNHK放送文化賞受賞。
・源了圓(みなもと・りょうえん)、10日没、100歳。近世日本思想史専攻で、佐久間象山や横井小楠などの研究で知られる他、多くの一般書を書いたり諸外国で客員教授を務めた。
・元小結豊山の先代湊親方が19日死去、72歳。「豊山」としては2代目。新潟出身、東京農大卒、時津風部屋のしこ名で、現在が3代目。殊勲賞1回、敢闘賞2回。
近年は60年代の「グループサウンズ」関係者の訃報が聞かれるようになった。クレージーキャッツやザ・ドリフターズのように、少しずつ欠けていくのだろう。8月28日にザ・タイガースの元メンバー岸部四郎が亡くなっていた。71歳。すでに昨年萩原健一(ザ・テンプターズ)が亡くなったが、最大の人気バンドだったタイガースでは初である。メンバーの岸辺おさみ(現・岸部一徳)の弟で、加橋かつみの脱退後にメンバーになった。当時は岸辺シローと名乗っていた。71年の解散後は、テレビ番組の司会やドラマ「西遊記」の沙悟浄役などで活躍した。
(岸部四郎)
軽妙なトークで非常に人気があったと思うが、晩年は恵まれなかった。数多くの連帯保証人となって借金がかさみ、1998年に自己破産、事務所も解雇されテレビからも消えた。本人の浪費癖もあったという。その後は時々ヴァラエティ番組などに出ていたようだが、私生活も健康も恵まれないことが多かったという。若い人だと名前を知らないだろう。
・ザ・ゴールデン・カップスのドラム兼ボーカルのマモル・マヌーが1日死去、71歳。同じくベースのルイズルイス加部が26日に死去、71歳。「長い髪の少女」などで知られたグループである。
50年代末のロカビリー・ブームというのがあった。ロカビリーから出て歌謡曲に転身して成功したのが守屋浩だった。9月20日に死去、81歳。「僕は泣いちっち」の大ヒットの他、「有難や節」などがある。当時人気があった歌手、女優の本間千代子と66年に結婚したが、後に離婚した。76年に裏方に転じ、ホリプロ宣伝部長を務めた。ホリプロ創立(当時は堀プロ、1960年)後の最初のヒット歌手で、今年までホリプロに在籍した最長タレントだという。
(守屋浩)
60年代当初に人気歌手として「ツイストブーム」を牽引したと言われるのが藤木孝だった。62年に歌手を引退、俳優に専念してミュージカルやテレビでも活躍していたので、名前は今でも知られていたかと思う。9月20日に死亡したが、死因は自殺ではないかとされる。80歳。高齢ながら近年まで活動していたので驚いた。篠田正浩監督「乾いた花」(1964)を昔見た時に、その独特な存在感にビックリした。その時は名前を知らなかったのである。最後まで「独特な存在感」の俳優だった。「ロッキー・ホラー・ショー」で1986年紀伊國屋演劇賞。
(藤木孝)
やはり独特な存在感でテレビドラマなどの脇役で活躍した斎藤洋介が9月20日に死去、69歳。1979年にNHKドラマ「男たちの旅路」シリーズで注目され、大河ドラマや民放の「人間・失格」「家なき子」などで知られた。映画にもたくさん出ているが、どれも主役ではないので覚えてないことが多い。中では根岸吉太郎監督のミステリー「絆」は印象的だった。
(斎藤洋介)
声優の富田耕生が9月27日没、84歳。テレビアニメや映画の吹き替えなど、長期間にわたって活躍し続けた。報道では「バカボンのパパ」役が書かれていたが、「鉄腕アトム」「鉄人28号」に始まって、有名なアニメには大体関わった。「ジャングル大帝」「魔法使いサリー」「ゲゲゲの鬼太郎」「ルパン三世」などなど。映画の吹き替えでは、アーネスト・ボーグナイン、りー・J・コップ、ロッド・スタイガー、オーソン・ウェルズなどが多い。ハリウッド映画で「独自の存在感」を発揮していた俳優ばかりである。テレビ番組やCMのナレーションも多かった。
(富田耕生)
創作ミュージカルの草分けと言われる劇作家、作詞家の藤田敏雄が9月24日に死去、92歳。労音ミュージカルの担当として、いずみたくと組んで「俺たちは天使じゃない」「洪水の前」など多くのミュージカルを創作した。また1964年以後はテレビで「題名のない音楽会」を立ち上げ、30年以上企画構成を担当した。そういう業績もあるんだけど、それ以上に「若者たち」(ブロードサイド・フォー)や「希望」(岸洋子)を作詞した人だった。知らずに何百回も口ずさんでいたけど。
(藤田敏雄)
日本舞踊家で芸術院会員の花柳寿応(はなやぎ・じゅおう)が9月26日に死去、89歳。花柳流創始家に生まれ、67年に5世花柳芳次郎、07年に家元の4世花柳寿輔を襲名した。日本舞踊界に止まらず、創作舞踊や宝塚などでも活躍したというけれど、この世界のことはよく知らない。2016年に妹の孫、6世花柳芳次郎に寿輔を譲り、自らは2世寿応を名乗った。それ以前に07年の4世寿輔襲名には一門内に反対意見があり、お家騒動なって裁判が長く続いた。
(花柳寿応)
ところで、本来なら9月の訃報トップは、もちろん竹内結子だ。9月27日に自宅で亡くなったが、状況から自殺と伝えられている。40歳。2019年1月に事務所の後輩の俳優と再婚し、今年の1月に第2子が生まれたばかりだった。何があったのか、もちろん僕には判らないが僕も大きなショックを受けた。トップにすると画像が大きく出るので、あえて「芸能界」の最後に書くことにした。映画の代表作は「サイドカーに犬」だが、これは先に書いた阿部和重「ニッポニア・ニッポン」が芥川賞候補になったときに、同時に候補作だった。ここでもその時に触れたのだが、それを書いたのが9月25日だった。竹内結子が主演した「春の雪」の舞台とされる鎌倉文学館に行った話は9月23日。あまりと言えばあまりの偶然に言葉もなかったという感じだ。
(竹内結子)
20世紀終わり頃から主にテレビドラマに出演し、1999年の連続テレビ小説「あすか」のヒロインに抜てきされた。2003年の映画「黄泉がえり」が話題となり、2005年の映画「いま、会いに行きます」もヒットした。同作で共演した中村獅童と結婚、第1子を出産した。2007年の根岸吉太郎監督「サイドカーに犬」はたくさんの賞を受けているが、僕もこれは原作も映画そのものも大好きで、竹内結子の演技も素晴らしかった。
芸能界以外では、国立がんセンター名誉総長、文化勲章受章の杉村隆が6日死去、94歳。ガンの基礎研究の第一人者で、ネズミに人工的に胃がんを発生させたり、肉や魚のこげに発がん物質を見つけるなどした。がんがDNA変化で起きるという基本概念を確立した。
(杉村隆)
元労働大臣、参議院議員の村上正邦が9月10日死去、88歳。「生長の家」の推薦で、1980年から参議院に4回当選。それ以前から「日本を守る会」に参加し「元号法制化運動」などに関わっていた。自民党内の右派系議員として次第に頭角を現し、1995年に党参議院幹事長。中曽根派後継の渡辺美智雄派に所属、渡辺の死後に派閥を受け継いだ。1999年に三塚派(旧福田赳夫派)を抜けた亀井静香グループと「志帥会」(現二階派)を結成した。同年、党参議院議員会長となり「参議院のドン」とまで言われた。そして、2000年に小渕首相が倒れたときに、「五人組」の一員として当時の森喜朗幹事長を後継首相に推す流れを作った。
(村上正邦)
そこまでは「栄光の日々」だが、2001年にはKSD事件に関わり、あっという間に失脚した。生長の家が政治活動から手を引いたため、中小企業団体のKSD中小企業経営者福祉事業団(現あんしん財団)の支援を受けていた。そしてKSDの不正経理から政界汚職事件が発覚。村上は「ものつくり大学」設立をめぐってワイロを受け取ったとして、逮捕・起訴され懲役2年2ヶ月の実刑が確定した。本人は冤罪を主張して、出所後には「世界」や「週刊金曜日」などで日本の司法批判を展開した。参議院に対する影響力も多少は残ったとも言われている。
元三井住友銀行頭取、元日本郵政社長の西川善文が9月11日死去、82歳。旧住友銀行に入行、磯田一郎氏のもとで、安宅産業の破綻処理、平和相互銀行の吸収合併などに手腕を発揮した。2001年に住友銀行とさくら銀行(三井銀行と太陽神戸銀行が1990年に合併した太陽神戸三井銀行が1992年に改称)が合併した三井住友銀行で初代頭取を務めた。金融再編の手話が評価されて、2006年に日本郵政初代社長に迎えられたが、09年の政権交代直後に辞任した。
(西川善文)
・岩佐幹三(いわさ・みきそう)、7日没、91歳。日本原水爆被害者団体協議会(被団協)顧問(元代表役員)。金沢大名誉教授(法学)。広島で被爆し、オバマ大統領の広島訪問に立ち会い、ICANのノーベル平和賞受賞時には記者会見した。
・岩松繁俊、23日没、92歳。元原水禁(原水爆禁止日本国民会議)議長、長崎大名誉教授、社会思想史。長崎で被爆し、バートランド・ラッセルと親交を持ち、平和運動を進めた。核兵器禁止を世界に訴えていくためには、日本の加害責任の自己批判が必要との「加害と被害の二重構造」論を唱えた。岩佐、岩松両氏のように、原水禁運動関係者も近年物故が相次いでいる。
・深川秀夫、2日没、73歳。バレエダンサー。69年モスクワ国際バレエコンクール銀賞。
・神近義邦、5日没、78歳。92年にハウステンボスを創業した。
・竹内誠、6日没、歴史学者。日本近世史専攻で、江戸時代の都市史を研究した。江戸東京博物館館長、徳川林政史研究所長なども務めた。相撲教習所で相撲史を教えたり、大河ドラマの時代考証を担当しNHK放送文化賞受賞。
・源了圓(みなもと・りょうえん)、10日没、100歳。近世日本思想史専攻で、佐久間象山や横井小楠などの研究で知られる他、多くの一般書を書いたり諸外国で客員教授を務めた。
・元小結豊山の先代湊親方が19日死去、72歳。「豊山」としては2代目。新潟出身、東京農大卒、時津風部屋のしこ名で、現在が3代目。殊勲賞1回、敢闘賞2回。