尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「グランド・フィナーレ」ー阿部和重を読む④

2020年10月10日 22時43分58秒 | 本 (日本文学)
 阿部和重を書いても読まれてないけれど、相変わらず読んでいる。続けて全部は読めないので断続的に。次回に谷崎潤一郎賞を受けた「ピストルズ」を書くが、その前に芥川賞受賞作グランド・フィナーレ」を先に。大長編「シンセミア」が2003年に出た後、2004年暮れに「グランド・フィナーレ」が発表された。2005年の単行本には「馬小屋の乙女」「新宿 ヨドバシカメラ」「20世紀」の三つの短編も収録されている。「新宿 ヨドバシカメラ」を除くと、どれも山形県東根市の神町(じんまち)に何らかの形で関わった作品になっている。

 「グランド・フィナーレ」はその後、2005年1月に芥川賞を受賞した。同時に候補となったのは、山崎ナオコーラ人のセックスを笑うな」、白岩玄野ブタ。をプロデュース」、中島たい子漢方小説」などで、すでに「シンセミア」を書いていた阿部和重は貫禄で受賞した感じだ。もっとも選評を見ると、村上龍が「中途半端な小説」と呼んでいる。石原慎太郎や古井由吉が全然評価しなかったのも、そんなところが影響したのかと思う。

 実は僕も読んだときは同じように思って、これはスルーしてもいいかなと思った。しかし次の大長編、「神町トリロジー」の第2作「ピストルズ」を読んだら、後半になって「グランド・フィナーレ」の中途半端感が全部解明されるのである。実はこういうことだったのかととても驚いた。そういう風に驚くためには、やはり順番に読むしかない。芥川賞受賞作だからとこれだけ読んだ人もいると思うが、そうするとストーカーや幼児性愛やドラッグの話が気持ち悪くて、その後読まない人もいるんじゃないか。頑張って「ピストルズ」まで読まないと世界の謎は明かされない。

 「わたし」(本名はなかなか明かされない)は離婚して故郷の神町に帰っている。ほとんど腑抜けのように生きているが、それも最愛のわが娘に会えなくなってしまったからだ。自分が悪いことは理解している。2001年のクリスマスを前に、酔っ払った「わたし」は妻に「本性」を知られてしまった。娘の裸の映像を秘密に撮りためていたのである。教育映画の製作をしていた「わたし」は、仕事で出会った幼女たちも巧みに誘って写真を撮っていたのである。趣味だけでなく、秘かに横流しもしていた。全てがバレて娘には会ってはならないとされて絶縁された。

 しかし、どうしても会いたいと誕生日のプレゼントを持って、家の周りをうろつきながらストーキングするのが前半の話。設定は頭では理解出来るし、似たようなことを自分が絶対にしないとは言えないかもしれないが、やっぱり気色悪い。かつての知り合いに代わりに渡して貰うのが精一杯。仲間たちも六本木あたりでドラッグをやってる怪しい連中だ。彼らとの交友がやがて神町に大事件を引き起こすのだが、それは「ピストルズ」で描かれる2005年夏の話。

 やむなく山形へ帰って、もうほとんど客のいない実家の文房具屋を時々手伝って生きていく。そんな「わたし」に小学校の教員になっている昔の友人がある頼みを持ってくる。児童会で行う演劇公演の演出を手伝って欲しいというのである。過去のいきさつは知られていないし、何しろ「映画会社に勤めていた本職」などと思われている。しかも二人の女児が非常に一生懸命になっているという。実はそこが「ニッポニア・ニッポン」につながる悲劇の連鎖だったことがやがて判明するのである。よりによって、幼児性愛者であることが読者には知らされている人物が小学生の催事に関わっていいのか。そして「わたし」は二人の子どもの重大な秘密を偶然知ってしまった。

 というような展開の話だが、文庫本で140頁ほどの作品ながら結構重い。そしていろいろと読者を心配させながら、公演の幕が上がるところで終わってしまう。一体、結局のところどうなっているんだという疑問が僕の心にくすぶり続ける。その中途半端感が「ピストルズ」を読むと世界が反転して見えてくる。そこまで仕組まれていたのかと大いにビックリ。しかし阿部文学にいつも出てくる「ストーカー」感覚についていけない人はいると思う。無理して付き合う必要もないだろうが、いかに気持ち悪くても「シンセミア」「ピストルズ」が現代の大傑作だという事実は間違いない。
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