作曲家の筒美京平(つつみ・きょうへい)が10月7日に亡くなった。80歳。もちろん名前は知っていたが、ではどんな曲を作ったのか、よく知らなかった。昔はテレビに歌番組がいっぱいあって、ヒット曲を歌うときに○○作詞、○○作曲と紹介する。いしだあゆみの「ブルー・ライト・ヨコハマ」や尾崎紀世彦の「また逢う日まで」などは本当に大ヒットしていたから、何度もテレビで聞いたはずだ。そして知らず知らずに名前もインプットされたということだろう。
だけど筒美京平個人のことはほとんど知らなかった。僕らが知っていたのは、「スター誕生!」に審査員として出演していた都倉俊一や三木たかしだった。「スター誕生!」というのは視聴者参加型のオーディション番組で、森昌子・桜田淳子・山口百恵の「中三トリオ」やピンク・レディを生んだことで知られる。作詞家の阿久悠や都倉俊一、三木たかしらが毎週講評していた。
筒美京平はマスメディアに出ることを好まず、裏方に徹していたという。だから僕も筒美京平という作曲家をほとんど意識しなかった。今回調べてみると、作曲家別年間売り上げで70年代に5回、80年代にも5回、計10回も1位になっている。これは他の作曲家を圧倒している。そのくらい売れる曲を作っていたのである。先の2曲に加えて、ジュディ・オング「魅せられて」、岩崎宏美「ロマンス」、太田裕美「木綿のハンカチーフ」、近藤真彦「スニーカー・ブル~ス」「ギンギラギンにさりげなく」など誰もが知るヒット曲がある。21世紀になっても、安室奈美恵やTOKIOなどのヒット曲を手掛けていて、その息の長い活躍には驚くしかない。
そういう大活躍作曲家だから自分もレコードを持っているはずだ。そう思って探してみた。でもLPの方が多くて、シングル盤は50枚ぐらいだった。(もっと買ったのかもしれないけど、今すぐ見つかったものでは。)洋楽もあるし(「やさしく歌って」とか「イエスタデイ・ワンスモア」があった)、日本では「シンガーソングライター」の曲が多い。LPを買うほど好きじゃないけど、曲が好きという場合。「サボテンの花」とか「贈る言葉」とか。歌謡曲は案外持っていなかった。
(南沙織「想い出通り」)
そんな中に筒美京平作曲のレコードは3枚あった。なんと言っても南沙織だ。1971年に「17歳」でデビューしたときに、なんてステキに輝いていたことか。今思えば沖縄出身スターのはしりだった。1978年に引退後、翌79年に篠山紀信と結婚してしまった。年の差14歳である。(もっと離れているかと思い込んでいたけど、これぐらいならアリか。)ジャケットの顔写真が好きだから、「想い出通り」(1975年)を先に挙げた。有馬三恵子作詞で「恋したことだけ残ってて 名前も覚えてないけれども おなじみの街角を行けば 口笛を歌いたい気持ち 私もあれからいろいろと変わったでしょうか」というリフレインが好きだった。
(南沙織「ひとかけらの純情」)
でも僕にとって南沙織のベストは「ひとかけらの純情」(1973年)だった。「いつも雨降りなの 二人して待ち合わす時」と始まる。始まりは楽しかった日々が変わってゆく。「何も実らずにいつも終わるのね」と切ない。有馬三恵子作詞だが、このフレーズが単に一つの恋の終わりではなくて、僕らの世代を「予言」したかのように感じられた。実際に何十年を生きてきて、今僕が感じるのは「何も実らずにいつも終わるのね」という言葉だ。これはまあ作詞の話だけど、筒美京平の曲も素晴らしい。何気なく口ずさんでしまう。最後まで「ひとかけらの純情」を持っていたい。
(太田裕美「赤いハイヒール」)
太田裕美の「木綿のハンカチーフ」も持っていると思っていたけど、見つからなかった。なくしたのか、買ってなかったのか。しかし「赤いハイヒール」を持っていた。松本隆作詞で、「寂しがりやのそばかすのお嬢さん」がふるさとから東京駅に出てきた話。「石ころだらけ私の青春 かかとのとれた赤いハイヒール」と切なく歌い上げる。まあ、そういう歌が僕は好きだったのである。
(筒美京平氏)
筒美京平にとって「また逢う日まで」「魅せられて」で2回レコード大賞を獲得した70年代が最高の時代だろう。この2曲もこれぞ本格的歌謡曲という大傑作だ。しかし、80年代アイドルが主に筒美京平の作曲だったことも落とせない。近藤真彦、田原俊彦に続き、83年から早見優、小泉今日子、柏原芳恵、中山美穂、本田美奈子などに数多くの曲を提供しベストテン上位に入った。しかし、80年代アイドル論は僕が語ることではない。僕の思い出にあるのは70年代初期。南沙織ばかり書いたけど、天地真理やアグネス・チャンなどである。
だけど筒美京平個人のことはほとんど知らなかった。僕らが知っていたのは、「スター誕生!」に審査員として出演していた都倉俊一や三木たかしだった。「スター誕生!」というのは視聴者参加型のオーディション番組で、森昌子・桜田淳子・山口百恵の「中三トリオ」やピンク・レディを生んだことで知られる。作詞家の阿久悠や都倉俊一、三木たかしらが毎週講評していた。
筒美京平はマスメディアに出ることを好まず、裏方に徹していたという。だから僕も筒美京平という作曲家をほとんど意識しなかった。今回調べてみると、作曲家別年間売り上げで70年代に5回、80年代にも5回、計10回も1位になっている。これは他の作曲家を圧倒している。そのくらい売れる曲を作っていたのである。先の2曲に加えて、ジュディ・オング「魅せられて」、岩崎宏美「ロマンス」、太田裕美「木綿のハンカチーフ」、近藤真彦「スニーカー・ブル~ス」「ギンギラギンにさりげなく」など誰もが知るヒット曲がある。21世紀になっても、安室奈美恵やTOKIOなどのヒット曲を手掛けていて、その息の長い活躍には驚くしかない。
そういう大活躍作曲家だから自分もレコードを持っているはずだ。そう思って探してみた。でもLPの方が多くて、シングル盤は50枚ぐらいだった。(もっと買ったのかもしれないけど、今すぐ見つかったものでは。)洋楽もあるし(「やさしく歌って」とか「イエスタデイ・ワンスモア」があった)、日本では「シンガーソングライター」の曲が多い。LPを買うほど好きじゃないけど、曲が好きという場合。「サボテンの花」とか「贈る言葉」とか。歌謡曲は案外持っていなかった。

そんな中に筒美京平作曲のレコードは3枚あった。なんと言っても南沙織だ。1971年に「17歳」でデビューしたときに、なんてステキに輝いていたことか。今思えば沖縄出身スターのはしりだった。1978年に引退後、翌79年に篠山紀信と結婚してしまった。年の差14歳である。(もっと離れているかと思い込んでいたけど、これぐらいならアリか。)ジャケットの顔写真が好きだから、「想い出通り」(1975年)を先に挙げた。有馬三恵子作詞で「恋したことだけ残ってて 名前も覚えてないけれども おなじみの街角を行けば 口笛を歌いたい気持ち 私もあれからいろいろと変わったでしょうか」というリフレインが好きだった。

でも僕にとって南沙織のベストは「ひとかけらの純情」(1973年)だった。「いつも雨降りなの 二人して待ち合わす時」と始まる。始まりは楽しかった日々が変わってゆく。「何も実らずにいつも終わるのね」と切ない。有馬三恵子作詞だが、このフレーズが単に一つの恋の終わりではなくて、僕らの世代を「予言」したかのように感じられた。実際に何十年を生きてきて、今僕が感じるのは「何も実らずにいつも終わるのね」という言葉だ。これはまあ作詞の話だけど、筒美京平の曲も素晴らしい。何気なく口ずさんでしまう。最後まで「ひとかけらの純情」を持っていたい。

太田裕美の「木綿のハンカチーフ」も持っていると思っていたけど、見つからなかった。なくしたのか、買ってなかったのか。しかし「赤いハイヒール」を持っていた。松本隆作詞で、「寂しがりやのそばかすのお嬢さん」がふるさとから東京駅に出てきた話。「石ころだらけ私の青春 かかとのとれた赤いハイヒール」と切なく歌い上げる。まあ、そういう歌が僕は好きだったのである。

筒美京平にとって「また逢う日まで」「魅せられて」で2回レコード大賞を獲得した70年代が最高の時代だろう。この2曲もこれぞ本格的歌謡曲という大傑作だ。しかし、80年代アイドルが主に筒美京平の作曲だったことも落とせない。近藤真彦、田原俊彦に続き、83年から早見優、小泉今日子、柏原芳恵、中山美穂、本田美奈子などに数多くの曲を提供しベストテン上位に入った。しかし、80年代アイドル論は僕が語ることではない。僕の思い出にあるのは70年代初期。南沙織ばかり書いたけど、天地真理やアグネス・チャンなどである。