集英社文庫の「セレクション 戦争と文学」を毎月読むシリーズ。10月はメモリアルな日付がないので、、第4巻の「女性たちの戦争」を読んだ。しかし、この題名は正確ではない。650頁もある中で、「女性」を扱った作品は半分もない。後の半分以上は「子ども」と「捕虜」を描いている。もっとも「捕虜」と言っても、中国人労働者や朝鮮人労働者である。子どもたちの中にもハンセン病療養所を舞台にした作品がある。つまりこの巻は単に「銃後」というだけでなく、マイノリティから見た戦時下の日本という視点で編まれている。そこが貴重だ。
(表紙=北川民次「鉛の兵隊(銃後の少女)」)
最初に戦時下に書かれた3作。大原富枝「祝出征」、長谷川時雨「時代の娘」、中本たか子「帰った人」である。いずれもこの本に入ってなければ読まなかった作品だろう。もちろん軍部批判のようなことは書けないわけだが、それ以上に「女性作家なりに時局に協力したい」という動機が読み取れる。中で中本たか子「帰った人」を見てみる。全然名前を知らなかったが、下関出身のプロレタリア文学者で蔵原惟人の妻だった。
女はかつて銀座を闊歩した慶応ボーイに憧れ、なんとなく婚約したような思いで出征した男を待ち続ける。その間に友人がどんどん結婚するので、複雑な焦りを持ち続けた。男はついに6年ぶりに帰還したが、会ってみると感じが違っている。日焼けして無口になり、女を戦車部隊の同僚の家に連れて行く。それは亀戸の貧民窟にあり、今まで足を踏み入れたこともない場所だ。そして都市文明に幻滅し、田舎に戻って農業をするという。
「幻滅」も感じながらも、女は彼に付いていこうと決心を固めるまでを描いている。スラスラ読めるんだけど、これはタテマエで作られた作品だろう。そもそも「ノモンハンの戦車部隊の生き残り」が帰還するなんてなかったと思う。主人公の気持ちもウソっぽいし、「帰った人」が健康すぎて現実性に乏しい。でも、こういう設定が女性に求められたという意味を読み取れる。
(中本たか子)
戦後に書かれた作品には、戦地を描けない分迫力が乏しい。ただ一つ瀬戸内晴美「女子大生・曲愛玲」だけは占領下の北京を舞台にしている。もっともこの作品はセクシャリティを扱った作品と言うべきかと思う。上田芳江「焔の女」は遊郭の女、吉野せい「鉛の旅」は召集された息子に会いに行く親、藤原てい「襁褓」(おむつ)は引き揚げ船内の苛酷な状況を描いている。
でも小説としては、戦時中よりも戦後を描く方が面白いと思った。田辺聖子「文明開化」は敗戦後の大阪を舞台に圧倒的な面白さ。価値が転換していく様を軽妙に描いているが、古い価値も残っている。河野多恵子「鉄の女」は初婚の夫が戦死し、後に再婚した女性の「靖国神社体験」を扱う。こういう小説があったんだという感じ。大庭みな子「むかし女がいた」、石牟礼道子「木霊」はテーマをリアリズムではなく描く。結局「銃後の女たち」は短編小説では難しいのか。長編では、僕は遠藤周作「女の一生 2部サチ子の場合」が忘れがたい。
それよりも、子どもの章に入って高橋揆一郎「ぽぷらと軍神」には驚いた。著者は「伸予」という小説で70年代に芥川賞を獲得した作家。僕も読んだことがなかったが北海道の炭鉱地帯を描く作品が多いという。「ぽぷらと軍神」は「文学界」新人賞を得た出世作で、かつて読んだことがない恐るべき体罰小説である。小学校に軍人上がりの教師がやってきて、恐怖支配を敷く。「ばんじゃあ」と呼ばれる加藤という教師は、何でも「盤石」という。帝国は盤石であるとか言い過ぎて、子どもたちがあだ名を付けた。絶対になりたくなかった「ばんじゃあ」が担任になり、さらに級長にもなってしまった主人公の恐るべき体験の数々。この小説が今回の一番の収穫だったが、恐るべき小説があったものだ。トラウマになるから映像化不能だろう。
(高橋揆一郎)
竹西寛子「兵隊宿」は川端賞受賞の名短編で、少年と馬の結びつきが感動的。一ノ瀬綾「黄の花」は学童疎開だが、集団ではなく縁故疎開を扱う。冬敏之は知る人ぞ知るハンセン病作家で、「その年の夏」は戦時中の療養所を舞台に少年の心を描く。非常に貴重な作品で多くの人に触れる機会になって良かった。三木卓「鶸」(ひわ)は芥川賞受賞作の傑作で、満州と思われるソ連軍支配地区に残された一家の冬を描く。あまりにも厳しい環境を生き抜く苦労が心に残る。僕は三木卓が昔から好きなんだけど、改めて読み直したくなった。
(三木卓)
向田邦子、司修、小沢信男、寺山修司などの知らなかった作品も収録。それより第4部の阿部牧郎「見よ落下傘」に驚いた。これは秋田県大館市に疎開していた少年の話。父親は同和鉱業に勤務している。そしてある日大きな事件が起きる。鹿島建設の中国人労働者が暴動を起こしたというのだ。つまり「花岡事件」を少年の目で描いているのである。こんな小説があったのか。そして最後に鄭承博(1923~2001)の「裸の捕虜」にも驚いた。名前を知らなかった在日コリアン作家で、戦時中の徴用工を主人公にしているのである。
(鄭承博)
主人公は軍需工場に徴用されているが、配給の食糧が乏しくなって「買い出し専門」を会社から依頼される。元気な青年が内地にいるので変に思われるが、朝鮮出身だから徴兵令の対象じゃないのである。ヤミの買い出しは違法行為だから、注意深さが必要だが主人公がうまく立ち回って食料を集めてくる。ところがサンマの塩漬けを運んでいたときに、別件捜査中らしき警官に呼び止められる。警察で軍需工場用だと弁明するが、会社に問い合わせると知らないと言われる。(だから朝鮮人徴用工を買い出し要員にしていたのである。)
警察を出た後はバカらしくなって、奈良の老農家に住み着いたりしていたが、戻ると逮捕される。徴用逃れの脱走とみなされたのだ。そしてどこかへ送られる。そこは長野県のダム工事現場だった。そこで鍛冶職人として働かされる。そこには中国人捕虜がいた。「八路軍」の捕虜だという。そういうケースは現代史では知っているが、小説では初めて読んだ。こんな話が書かれていたのか。これで読む限り、「女性」をテーマにするよりも、「マイノリティ」を扱う方が深い小説が多い。また「内地」より「外地」、「大人」より「子ども」を描く方が興味深くなると思った。
今まで全く知らなかった世界もあったが、主題として「女性たちの戦争」という意味では「慰安婦」も出て来ないのが特徴。「日中戦争」の巻に田村泰次郎「蝗」があった。この巻は「銃後」に絞っている。「銃後」では、今まで「家制度」に縛られていた女たちが戦時下では「挺身隊」や「国防婦人会」に出ていくことになる。「旧弊」な老婦人は、良家の子女は外で働くものではないと思っている。「戦争協力」を理由に「家」を出る若い女たちを女性作家が「進歩」ととらえる。そんな構図の小説がかなりある。考えておかなければいけない「社会制度の罠」だろう。
(表紙=北川民次「鉛の兵隊(銃後の少女)」)
最初に戦時下に書かれた3作。大原富枝「祝出征」、長谷川時雨「時代の娘」、中本たか子「帰った人」である。いずれもこの本に入ってなければ読まなかった作品だろう。もちろん軍部批判のようなことは書けないわけだが、それ以上に「女性作家なりに時局に協力したい」という動機が読み取れる。中で中本たか子「帰った人」を見てみる。全然名前を知らなかったが、下関出身のプロレタリア文学者で蔵原惟人の妻だった。
女はかつて銀座を闊歩した慶応ボーイに憧れ、なんとなく婚約したような思いで出征した男を待ち続ける。その間に友人がどんどん結婚するので、複雑な焦りを持ち続けた。男はついに6年ぶりに帰還したが、会ってみると感じが違っている。日焼けして無口になり、女を戦車部隊の同僚の家に連れて行く。それは亀戸の貧民窟にあり、今まで足を踏み入れたこともない場所だ。そして都市文明に幻滅し、田舎に戻って農業をするという。
「幻滅」も感じながらも、女は彼に付いていこうと決心を固めるまでを描いている。スラスラ読めるんだけど、これはタテマエで作られた作品だろう。そもそも「ノモンハンの戦車部隊の生き残り」が帰還するなんてなかったと思う。主人公の気持ちもウソっぽいし、「帰った人」が健康すぎて現実性に乏しい。でも、こういう設定が女性に求められたという意味を読み取れる。
(中本たか子)
戦後に書かれた作品には、戦地を描けない分迫力が乏しい。ただ一つ瀬戸内晴美「女子大生・曲愛玲」だけは占領下の北京を舞台にしている。もっともこの作品はセクシャリティを扱った作品と言うべきかと思う。上田芳江「焔の女」は遊郭の女、吉野せい「鉛の旅」は召集された息子に会いに行く親、藤原てい「襁褓」(おむつ)は引き揚げ船内の苛酷な状況を描いている。
でも小説としては、戦時中よりも戦後を描く方が面白いと思った。田辺聖子「文明開化」は敗戦後の大阪を舞台に圧倒的な面白さ。価値が転換していく様を軽妙に描いているが、古い価値も残っている。河野多恵子「鉄の女」は初婚の夫が戦死し、後に再婚した女性の「靖国神社体験」を扱う。こういう小説があったんだという感じ。大庭みな子「むかし女がいた」、石牟礼道子「木霊」はテーマをリアリズムではなく描く。結局「銃後の女たち」は短編小説では難しいのか。長編では、僕は遠藤周作「女の一生 2部サチ子の場合」が忘れがたい。
それよりも、子どもの章に入って高橋揆一郎「ぽぷらと軍神」には驚いた。著者は「伸予」という小説で70年代に芥川賞を獲得した作家。僕も読んだことがなかったが北海道の炭鉱地帯を描く作品が多いという。「ぽぷらと軍神」は「文学界」新人賞を得た出世作で、かつて読んだことがない恐るべき体罰小説である。小学校に軍人上がりの教師がやってきて、恐怖支配を敷く。「ばんじゃあ」と呼ばれる加藤という教師は、何でも「盤石」という。帝国は盤石であるとか言い過ぎて、子どもたちがあだ名を付けた。絶対になりたくなかった「ばんじゃあ」が担任になり、さらに級長にもなってしまった主人公の恐るべき体験の数々。この小説が今回の一番の収穫だったが、恐るべき小説があったものだ。トラウマになるから映像化不能だろう。
(高橋揆一郎)
竹西寛子「兵隊宿」は川端賞受賞の名短編で、少年と馬の結びつきが感動的。一ノ瀬綾「黄の花」は学童疎開だが、集団ではなく縁故疎開を扱う。冬敏之は知る人ぞ知るハンセン病作家で、「その年の夏」は戦時中の療養所を舞台に少年の心を描く。非常に貴重な作品で多くの人に触れる機会になって良かった。三木卓「鶸」(ひわ)は芥川賞受賞作の傑作で、満州と思われるソ連軍支配地区に残された一家の冬を描く。あまりにも厳しい環境を生き抜く苦労が心に残る。僕は三木卓が昔から好きなんだけど、改めて読み直したくなった。
(三木卓)
向田邦子、司修、小沢信男、寺山修司などの知らなかった作品も収録。それより第4部の阿部牧郎「見よ落下傘」に驚いた。これは秋田県大館市に疎開していた少年の話。父親は同和鉱業に勤務している。そしてある日大きな事件が起きる。鹿島建設の中国人労働者が暴動を起こしたというのだ。つまり「花岡事件」を少年の目で描いているのである。こんな小説があったのか。そして最後に鄭承博(1923~2001)の「裸の捕虜」にも驚いた。名前を知らなかった在日コリアン作家で、戦時中の徴用工を主人公にしているのである。
(鄭承博)
主人公は軍需工場に徴用されているが、配給の食糧が乏しくなって「買い出し専門」を会社から依頼される。元気な青年が内地にいるので変に思われるが、朝鮮出身だから徴兵令の対象じゃないのである。ヤミの買い出しは違法行為だから、注意深さが必要だが主人公がうまく立ち回って食料を集めてくる。ところがサンマの塩漬けを運んでいたときに、別件捜査中らしき警官に呼び止められる。警察で軍需工場用だと弁明するが、会社に問い合わせると知らないと言われる。(だから朝鮮人徴用工を買い出し要員にしていたのである。)
警察を出た後はバカらしくなって、奈良の老農家に住み着いたりしていたが、戻ると逮捕される。徴用逃れの脱走とみなされたのだ。そしてどこかへ送られる。そこは長野県のダム工事現場だった。そこで鍛冶職人として働かされる。そこには中国人捕虜がいた。「八路軍」の捕虜だという。そういうケースは現代史では知っているが、小説では初めて読んだ。こんな話が書かれていたのか。これで読む限り、「女性」をテーマにするよりも、「マイノリティ」を扱う方が深い小説が多い。また「内地」より「外地」、「大人」より「子ども」を描く方が興味深くなると思った。
今まで全く知らなかった世界もあったが、主題として「女性たちの戦争」という意味では「慰安婦」も出て来ないのが特徴。「日中戦争」の巻に田村泰次郎「蝗」があった。この巻は「銃後」に絞っている。「銃後」では、今まで「家制度」に縛られていた女たちが戦時下では「挺身隊」や「国防婦人会」に出ていくことになる。「旧弊」な老婦人は、良家の子女は外で働くものではないと思っている。「戦争協力」を理由に「家」を出る若い女たちを女性作家が「進歩」ととらえる。そんな構図の小説がかなりある。考えておかなければいけない「社会制度の罠」だろう。