日本人は「民度が高い」からウイルスを押さえ込めたと豪語したのは麻生副首相だった。しかしながら年末以来の日本の感染状況は、欧米諸国とはだいぶ違うとはいうものの近隣アジア諸国より深刻な感じがする。これは実は日本の「民度が低い」ということを示しているのだろうか。麻生発言についてはその時に批判記事を書いたけれど、今になって「民度」って何だろうと思う。
(麻生「民度」発言)
年末年始には人が集まる機会が多い。それは判っていて散々マスコミで注意していた。実際、例年に比べれば初詣の人数も減っているようだったが、それでもテレビで見れば結構行っている。箱根駅伝も沿道で応援しないようにと言っていたが、結構人出があったように見えた。それでも減ってて実際は隙間があったんだとも言うけど、やっぱり沿道に出ている人は相当いたんだろう。そういう事態は「民度」に関係するんだろうか。
ちょっと驚くようなクラスターも起こった。東京都荒川区の尾久(おぐ)警察署の署長以下3人の感染が年明けに判った。原因は12月28日に行われた地元の交通安全協会のメンバーら10数人が参加した懇親会に参加したことにある。署長だけでなく、署員3人も参加していて交通課長(女性)と警部補も感染が確認されていると報じられている。今どき多人数で「忘年会」をやるなんてとても理解出来ないが、東京の東北部というのは保守的で地縁関係が強い地域である。「都会的」という地域性ではない。「恒例」の行事を止められなかったのだろう。
「民度」というのは、国民生活の文化的、行動様式的な成熟度のようなものを意味するだろう。「交通安全協会」というのは民間団体だけど、事実上は退職警官が中心となった「半官半民」的な組織らしい。尾久署のクラスターというのは、「民度」の問題だけじゃなく「官度」(そんな言葉はないけれど)の問題かも知れない。総理を初め自民党議員に「会食」を指摘された議員が多い。党でルールを作ろうしたら結局出来ずじまいになった。議員はいろいろな人と会って話を聞く必要があるとか言っていた。夜の酒席では会えない人の意見は聞く気が無いんだろう。
朝日新聞の世論調査では、新型コロナウイルスに感染した時の心配は健康よりも「世間の目」だという。3分の2の人がそのように答えているという。特に現役世代、18歳未満の子どもがいる人、製造・サービス業従事者にその傾向が高い。このことを考えると、去年の緊急事態宣言下に「自粛警察」と言われたものも、何か独自の動きが現れたのではなく、「世間の目」が特殊な状況下に「見える化」されたものだったと言うべきだろう。麻生大臣が「民度」と解釈したのも、今思えば「成熟した国民の行動」というより、「世間の目を恐れた自粛行動」だったとみるべきだ。
(「県外ナンバー」を排除する看板)
「世間」は「社会」と違う。そこに注目して「世間学」を提唱したのは、中世ヨーロッパ史の研究者だった故・阿部謹也(1936~2006)だった。「ハーメルンの笛吹き男」など多くの著者がある阿部氏は、晩年に多くの「世間」をテーマにした著作を残した。僕はそのほとんどを当時(21世紀初頭)に読んでいるが、テーマがテーマだけに「問題提起」に止まっていた感じがする。それでも「社会学」ではなく「世間学」を構築しないと「日本を読み解く」ことが難しいという発想は正しいと思う。
ヨーロッパだって、そんなに「独立した個人」によって構成されているわけじゃないだろう。しかし、特に日本の現実を考えてみると人々は「大勢順応」をモットーにして、「世間の風向き」を読んで行動する。それは昨年の自民党総裁選で菅義偉総裁が選出された経過を思い出せば、すぐに理解出来る。そういう「世間のルール」においては、「緊急事態宣言」があればともかく、そうでなければ「忘年会」が優先する場合があった。コロナがなければ多くの職場で「忘年会」が開かれ、それは勤務時間外ではあるが事実上の「強制」力がある。コロナ禍で「忘年会」や「帰省」がなくなって嬉しい人も多いはずだ。
「クリスマス」や「成人式」といった「重症化しにくい若年層」にとって重要なイヴェントが年末年始には集中する。大人だけではなく、若年層にも「世間」はある。そうじゃなければ「いじめ」は起こらない。だから、決して多くではなくても成人式後の集団感染が起こっている。「世間」のつながりの方が優先したのだろう。現実問題として考えた時には、今後の感染抑制が成功するかどうかも「人々が事態をよく理解して理性的に行動する」ことによってではなく、「世間の規範」が「この程度ならいいだろう」となるか「世間の目が怖いから自粛せざるを得ない」になるかだと考えられる。残念なことだが、それが日本の現実だと考えている。
(麻生「民度」発言)
年末年始には人が集まる機会が多い。それは判っていて散々マスコミで注意していた。実際、例年に比べれば初詣の人数も減っているようだったが、それでもテレビで見れば結構行っている。箱根駅伝も沿道で応援しないようにと言っていたが、結構人出があったように見えた。それでも減ってて実際は隙間があったんだとも言うけど、やっぱり沿道に出ている人は相当いたんだろう。そういう事態は「民度」に関係するんだろうか。
ちょっと驚くようなクラスターも起こった。東京都荒川区の尾久(おぐ)警察署の署長以下3人の感染が年明けに判った。原因は12月28日に行われた地元の交通安全協会のメンバーら10数人が参加した懇親会に参加したことにある。署長だけでなく、署員3人も参加していて交通課長(女性)と警部補も感染が確認されていると報じられている。今どき多人数で「忘年会」をやるなんてとても理解出来ないが、東京の東北部というのは保守的で地縁関係が強い地域である。「都会的」という地域性ではない。「恒例」の行事を止められなかったのだろう。
「民度」というのは、国民生活の文化的、行動様式的な成熟度のようなものを意味するだろう。「交通安全協会」というのは民間団体だけど、事実上は退職警官が中心となった「半官半民」的な組織らしい。尾久署のクラスターというのは、「民度」の問題だけじゃなく「官度」(そんな言葉はないけれど)の問題かも知れない。総理を初め自民党議員に「会食」を指摘された議員が多い。党でルールを作ろうしたら結局出来ずじまいになった。議員はいろいろな人と会って話を聞く必要があるとか言っていた。夜の酒席では会えない人の意見は聞く気が無いんだろう。
朝日新聞の世論調査では、新型コロナウイルスに感染した時の心配は健康よりも「世間の目」だという。3分の2の人がそのように答えているという。特に現役世代、18歳未満の子どもがいる人、製造・サービス業従事者にその傾向が高い。このことを考えると、去年の緊急事態宣言下に「自粛警察」と言われたものも、何か独自の動きが現れたのではなく、「世間の目」が特殊な状況下に「見える化」されたものだったと言うべきだろう。麻生大臣が「民度」と解釈したのも、今思えば「成熟した国民の行動」というより、「世間の目を恐れた自粛行動」だったとみるべきだ。
(「県外ナンバー」を排除する看板)
「世間」は「社会」と違う。そこに注目して「世間学」を提唱したのは、中世ヨーロッパ史の研究者だった故・阿部謹也(1936~2006)だった。「ハーメルンの笛吹き男」など多くの著者がある阿部氏は、晩年に多くの「世間」をテーマにした著作を残した。僕はそのほとんどを当時(21世紀初頭)に読んでいるが、テーマがテーマだけに「問題提起」に止まっていた感じがする。それでも「社会学」ではなく「世間学」を構築しないと「日本を読み解く」ことが難しいという発想は正しいと思う。
ヨーロッパだって、そんなに「独立した個人」によって構成されているわけじゃないだろう。しかし、特に日本の現実を考えてみると人々は「大勢順応」をモットーにして、「世間の風向き」を読んで行動する。それは昨年の自民党総裁選で菅義偉総裁が選出された経過を思い出せば、すぐに理解出来る。そういう「世間のルール」においては、「緊急事態宣言」があればともかく、そうでなければ「忘年会」が優先する場合があった。コロナがなければ多くの職場で「忘年会」が開かれ、それは勤務時間外ではあるが事実上の「強制」力がある。コロナ禍で「忘年会」や「帰省」がなくなって嬉しい人も多いはずだ。
「クリスマス」や「成人式」といった「重症化しにくい若年層」にとって重要なイヴェントが年末年始には集中する。大人だけではなく、若年層にも「世間」はある。そうじゃなければ「いじめ」は起こらない。だから、決して多くではなくても成人式後の集団感染が起こっている。「世間」のつながりの方が優先したのだろう。現実問題として考えた時には、今後の感染抑制が成功するかどうかも「人々が事態をよく理解して理性的に行動する」ことによってではなく、「世間の規範」が「この程度ならいいだろう」となるか「世間の目が怖いから自粛せざるを得ない」になるかだと考えられる。残念なことだが、それが日本の現実だと考えている。