尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

中曽根康弘をどう評価するかー2019年11月の訃報①

2019年12月11日 22時43分27秒 | 追悼
 遅くなってしまったが毎月の訃報特集。11月は1面に大きく掲載される訃報がないまま終わると思っていたら、月末になって1面トップに元内閣総理大臣、中曽根康弘の訃報が報じられた。101歳。1918.5.27~2019.11.29。首相経験者で100歳を迎えたのは、敗戦直後に皇族内閣を組織した東久邇稔彦(ひがしくに・なるひこ)だけ。(首相当時は東久邇宮稔彦王、後に皇籍離脱。)1990年に102歳で逝去。よって、中曽根康弘は首相経験者最高齢ではない。
(首相当時)
 内閣総理大臣をほぼ5年務めた。1982年11月27日から1987年11月6日である。もう30年以上も前だから、50代以下だとイメージが湧かないだろう。消費税問題の記事で書いたけれど、僕の中曽根首相に対する一番のイメージは「ウソをつかれた」という感覚だ。1986年に衆参同日選をやらないようなふりをして突如解散した。「死んだふり解散」というぐらい。そして「大型間接税は導入しない」と公約して、総選挙を経ないまま自民党の竹下内閣で消費税が導入された。選挙当時に中曽根首相は「私がウソをつく顔に見えますか」とまで演説していた。この公約違反が後の保守政治を大きくゆがめたと思う。

 今の安倍首相などは何を問われても逃げてしまう。臨時国会を開くように野党が要求したのに(憲法上、開会しないといけない)、それを無視し続けやっと開いたら審議をしないで冒頭で解散してしまった。それに比べたら、中曽根首相は国会でも堂々と答弁したとは言えるだろう。1983年の社会党石橋政嗣委員長との国会論戦は、戦後国会史に残る防衛論争だと言われる。前任の鈴木善幸が「日米同盟」と発言して問題化したが、中曽根は「日本を不沈空母にする」と発言した。

 恐らくそれ以前の保守政治家は「改憲して日本は日本軍で防衛をする」を考えていただろう。しかし、中曽根は「日米安保」を心から信奉していたのだと思う。「経済大国」になった日本に対応する「大統領型首相」を目指し、戦後保守政治の分岐点となった。中曽根ー小泉-安倍という長期政権の系譜の出発点である。だから保守の立場からは評価する人が多くなるが、反対側の立場からは「中曽根からひどくなった」ことになる。業績のように語られた「国鉄民営化」も、「総評解体」(国労つぶし、官公労解体)が目的だったことは、その後本人も認めていた。
(レーガン、サッチャー、中曽根)
 それはアメリカのレーガン大統領、イギリスのサッチャー首相と軌を一にした、「新自由主義」の暴風の始まりだった。訃報ではほとんど触れられなかったが、教育分野における「臨時教育審議会」(臨教審)が教育の新自由主義的改革、「競争の教育」の出発点だ。これは文部省(当時)に置かれた正規の組織である「中央教育審議会」を飛ばして、首相直属の教育行政を進めるという端緒ともなった。「臨教審」答申は文部省に反対され実現しなかったと報道した新聞もあるが、それは間違い。短期的には反発されたが、長期的に見ればその後に段々と実現していったことが判る。

 ウィキペディアを見ると、臨教審答申は以下のようなものだった。
第1次答申(1985年)「我が国の伝統文化、日本人としての自覚、六年制中等学校、単位制高等学校、共通テスト
第2次答申(1986年)「初任者研修制度の創設、現職研修の体系化、適格性を欠く教師の排除
第3次答申(1987年)「教科書検定制度の強化、大学教員の任期制
第4次答申(1987年)「個性尊重、生涯学習、変化への対応

 これを見れば、教育関係者なら誰でも判る。第一次答申は「教育基本法改悪」「国旗国歌の強制」「中高一貫校」など、第二次答申が「10年研修」や「教員免許更新制」、第三次答申が「右派の教科書」「大学教育の競争的政策の数々」、第四次答申が「英語重視」「総合学習」「アクティブラーニング」につながる。その後の教育は臨教審路線の実現してゆく過程だったのである。まあ「保守」の側はそれぐらい長いスパンで日本の教育を変えてしまう計画を持っていたわけだ。
(100歳を迎えた中曽根元首相)
 もう一つ、どうしても銘記しておくべきことは、「原子力発電」の最大の推進者だったことだ。50年代初期、吉田茂内閣(自由党)時代、中曽根は民主党系の政治家で「保守合同」以前はほとんど野党だった。それなのに、1954年に野党議員として「原子力研究」のための予算計上を要求した。与野党を問わず、国会議員には出来ることだが、今は与野党共に予算には党議拘束がある。一議員として勝手に政府予算の追加を求めることは認めらないだろう。それを当選4回、34歳の議員(当時の所属は改進党)として通してしまう。これが日本の原子力政策のスタートだった。原発事故そのものはともかく、自民党政権の原子力政策に最大の責任を有する政治家だった。

 「民営化」の評価には触れる余裕がない。かつて「三公社五現業」と言われた政府所有の企業体は、ほぼすべて「民営化」または「独立行政法人化」された。(林野事業のみ国有。)このうち、三公社はすべて民営化された。まず1985年に「日本電信電話公社」が「NTT」グループに、「日本専売公社」が「日本たばこ(JT)」に変わった。そして1987年に「日本国有鉄道」が「JR」グループに変わった。この政策には功罪あると思うが、ここではもう書かない。

 なおエピソードとして有名な旧群馬3区の事情について。中曽根康弘に加え、福田赳夫小渕恵三と3人の自民党首相が同じ選挙区で当選を重ねた。福田赳夫は1990年に引退したが、後継の福田康夫も首相になったから4人の首相を輩出した選挙区である。定員4人で、もうひとりは社会党の山口鶴男で社会党書記長、総務庁長官(村山内閣)となった大物政治家である。1967年から1986年まで計8回の衆議院選挙で同じメンバーしか当選していない。中曽根は1947年から群馬3区で連続当選し、小選挙区制になった後は比例代表区で当選した。実に当選20回である。ただし福田赳夫と同選挙区で争った選挙では、4勝10敗と敗れることが多かった。
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由比宿と三保の松原ー富士を見に②

2019年12月10日 23時14分17秒 |  〃 (温泉以外の旅行)
 今回の旅行は「温泉以外の旅行」カテゴリーにしたけど、実は泊まった宿は温泉だ。でも草津や伊香保に行くというような「温泉自体が目当て」ではない。目的は「富士山」だけど、富士を見るだけなら冬のいつでもいい。でも今だったのは、もう一つ「桜エビ」があった。別にそんなに大好物でもないのに、日本中でも駿河湾でしか取れない、それも由比(ゆい)港に揚がって、地元には桜エビを食べさせる店がいっぱいある、という話をどこかで聞いて一度行ってみたかったのだ。漁期は4~6、11~12の年2回に制限され、時期にはエビを干すため富士川の河原が真っ赤に染まる。

 時間を検討すると、12時は無理そうだが何とかお昼過ぎには由比には着けそうな感じだ。レンタカーを借り、首都高を抜けて東名道に入る。東名道は久しぶりだが、何とか順調に海老名サービスエリアに着いた。これなら行けると思った途端、リニューアル工事で御殿場まで大渋滞。その間、富士山がすごくよく見えて美しいけど、いくら渋滞中とは言え写真は撮れない。御殿場を越えて流れ始めたが、富士川サービスエリアで13時頃になってしまった。もうここで食べちゃおうかということになって、「富士宮焼きそば」を買って外で食べてしまった。富士山がすごくよく見えて、一番すごかったかもしれない。
   
 写真の1枚目、2枚目は一日目の富士山。3枚目は富士市の工場地帯に向けた。4枚目は2日目の富士川サービスエリアの外の展望台。ここは「ハイウェイオアシス」(高速道のサービスエリアと一般道の「道の駅」の併合施設)の「富士川楽座」になっていて、外に観覧車があった。乗って富士山を見たい気もしたけど、まあパス。外部施設には「戸塚洋二ニュートリノ館」もあったが時間の関係でパス。食べてはしまったが、やはり由比宿を見ていきたいなと思って、カーナビを検索したら「由比港漁業協同組合」が出てきたので指定。後は道案内は任せればいいはずが、ここからカーナビの迷走が始まった。

 富士川に沿って下り、国道1号バイパスに乗る。由比あたりの地名が出てきて港も見える。直売所があったが、カーナビは直進せよと言う。降りろと言っては降りると、今度は進めと言い、一体どこに連れて行く気なんだか。カーナビに従って迷走の挙げ句、もう自分で探すことにして、「由比本陣公園」(下の写真1枚目)に入った。ここには「東海道広重記念館」があるがパス。明治天皇が来た時の「御幸亭」(写真2枚目)も外から見ただけ。お土産やガイドマップを置いてある「交流館」が役に立った。それより真ん前に「正雪紺屋」(しょうせつこうや)がある。江戸幕府に反乱を起こそうとした「由井正雪の乱」の正雪の生家という。今も手ぬぐいなどを売ってるお店だ。(写真の3、4枚目)
   
 由比港で食べるのはもういいやと「薩埵峠」(さったとうげ)を目指すがカーナビに惑わされ降りるべきところを通り過ぎてしまった。もう今日はツイテナイと「三保の松原」を目指すことにした。清水市街を通り過ぎ、これは問題なく到着。「羽衣の松」など人は多いが、そこから富士は見えないのか。海がキレイだが、「三保の松原」世界遺産地区の松並木の中から富士山は見えない。
   
 「羽衣の松」から松並木の散歩道(下の写真3枚目)を15分ぐらい歩くと、景勝の池「鎌が崎」に着く。ここで海辺へ出ると富士山がくっきりと見えてきた。絶景!
  
 翌朝、宿近くの「三保灯台」を見た。日本初の鉄筋コンクリート灯台だとある。
  
 そこから「日本平夢テラス」へ行き、続いて「薩埵峠」へ行ったわけだが、実はその間に一回目に書かなかった「エスパルスドリームプラザ」に寄った。なんだ清水エスパルスの施設かという名前だが、実はここはお土産屋いっぱいの複合娯楽施設。4階には映画館「MOVIX清水」、3階には「ちびまる子ちゃんランド」がある。「清水エスパルス」は、Jリーグ「オリジナル10」の中でただ一つ実業団が母体じゃなかった。エスパルスも「静岡、清水、サッカー」の「パルス」(鼓動)の意味だという。1階のお土産が豊富なうえ、「ラムネ博物館」とか「缶詰市場」とか面白くて飽きない。観光で行ったら絶対寄るべき。

 そして再び由比で降りて、今日こそ桜エビを食べるかと思う。その前に静岡のお土産屋に必ず置いてあって、他では見かけない「ホワイトシップ」印の高級ツナ缶。作っているのは「由比缶詰所」というシンプルな名前の会社だ。直売所があって、土日休業だが隠れた名所だと思う。下の写真のような小さな隠れ家のような地元の人しか知らないような場所だ。これは実は事前に調べていって、わざわざ寄ったがお土産屋より安いと思う。そして「由比桜エビ館」で桜エビかきあげ付きのおそばを食べた。そこはまた鰹節削り工場見学もある。伊豆以西に行ったのは久しぶりで面白いお土産いっぱい。
 
 さて宿泊は「三保園ホテル」という場所で、地域の忘年会がいっぱいで大混雑していた。確かに「源泉掛け流し」の温泉で、それは良かった。だがお風呂は敷石がグラグラするし古い感じ。さらに夕食のビュッフェがとにかく欠品が多く、なかなか追加が出て来ない。後でフロントで苦情を言ってる人がいた。僕もお酒でも飲もうと思ってたんだけど、頼める感じじゃなくて、静岡おでんとカレー(仕方ないから)を食べてさっさと戻った。窓から見ると欧風の部屋がある。後で見ると「スペイン館」とあるが、使ってない感じ。実に謎のホテルだが、これじゃ伊東園に買われてしまいそう。三保の松原に掛け流しの温泉ホテルがあると知ってる人は少ないと思う。残念感が残る宿だなあ。まあお値段では文句を言えないが。
 
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薩埵峠と日本平ー富士を見に①

2019年12月09日 22時53分01秒 |  〃 (温泉以外の旅行)
 12月7日(土)は寒くて震えるような雨が降っていた。8、9は晴れると予報ではなっていたけど、本当だろうか。その両日で旅行する予定なのだ。そうしたらやっぱり8日(日曜日)は素晴らしく晴れ渡った日となった。風もなくて、旅行日和。それも富士山を見に行くというんだから、前日が雨で、かえってキレイになったぐらい。その日は「三保の松原」に泊まって、翌日に日本平薩埵峠に行き由比で食べて帰ってきた。1日目から順番に書くべきだけど、時間の問題もあるので2回に分けて2日目から。
  
 タイトルにもした「薩埵峠」だけど、知らない人は全然読めないだろう。読みは「さった峠」である。山の名前らしいが、元はサンスクリット語で「有情」「衆生」と訳される。または「菩提薩埵」の略とも出てるけど、なんだかよく判らない。ここは昔から「東海道の難所」として有名で、歌川広重「東海道五十三次」の「由比宿」にも描かれた場所で、前から一度来たかった。交通の難所だったため、峠が切り開かれたという。まあ93mほどだが。今は下に東名道、国道1号が通り車が行き交っている。
 
 上の画像最初が広重の浮世絵で、2枚目はスマホで撮影したパノラマ撮影。薩埵峠は行き方が難しい。東海道の由比宿興津宿の間にある峠だが、駅から歩くと判りにくい。車だと興津方面からしか行けなくて、その道は静岡市のホームページに出ている。(事前に調べて置かないと無理。)駐車場に止めて数分歩くと展望台がある。最初の写真の説明板が映っている場所が展望台。途中はミカン畑で「取ると窃盗罪になる」と警告が出ている。帰りは元の道へ戻れと駐車場の係員(?)に指定された。
 
 薩埵峠へ行く前に「日本平」に寄った。実は9日は朝方は富士山に雲が掛かっていた。峠に行く頃に、ようやく雲が晴れたのである。だから朝行った日本平は富士山が中腹以上は見えない。それを承知で行ったのは「日本平夢テラス」へ行きたかったからだ。2018年11月3日に開設された隈研吾設計の施設である。24時間開いている無料施設で、本当は隣に立っているテレビ電波塔がメインらしい。昼間はお店もやっていて、素晴らしい風景を満喫できる。
 
 実際に最初の写真にあるように、富士山は見えなかった。本当は下の説明板にあるような感じで見えるはずなんだけど。ただし、富士山だけでなく、ぐるりと360度展望できて静岡市街、あるいは三保の松原も遠望できる。遠くには南アルプスまでちょっと見える。2階に展望喫茶室があって、煎茶とタルトを頂いている時に少し頂上が晴れてきた。それが2枚目の写真。やっぱり頂上が見えると見えないのは大違い。日本平は昔来て、ロープウェイで久能山東照宮へ行ったけど、全然覚えてない。絶景度抜群の「日本平夢テラス」でお茶するのは、首都圏のカップル・家族連れに今一番オススメのコースだな。クリスマスや正月は大混雑だろうが。
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ラウル・デュフィ展を見る

2019年12月07日 23時02分11秒 | アート
 東京・汐留の「パナソニック汐留美術館」でやってる「ラウル・デュフィ展 絵画とテキスタイル・デザイン」を見た。12月15日までで水曜休。ラウル・デュフィ(Raoul Dufy,、1877~1953)は昔から僕の大好きな画家でよく見た。最近美術館にあまり行ってないけど、実は招待券が当たったので見に行かないと。だから書くわけじゃないけど、今回の展示には今までにない特徴があるので簡単に紹介。
(ニースの窓辺)
 デュフィという画家は、陽気で明るい色調、音楽が聞こえてくような躍動、地中海の青やバラなどの赤などを駆使した「色彩の魔術師」である。もちろんムンクの「叫び」も心に訴えるし、ピカソの変幻自在もすごい。エルンストデ・キリコの幻想的世界など、心ひかれる画家は多かった。中ではデュフィは楽しすぎる感じはするけど、そういうものもあっていいじゃないかと思った。
(ラウル・デュフィ)
 中学生で「悲しみよこんにちは」(フランソワーズ・サガン)を読み、「気狂いピエロ」(ゴダール)を見た。だから「おフランス」の中でも「花の都巴里」よりも「リヴィエラ」という響きに魅力を感じたわけである。今回出ている「ニースの窓辺」が代表的だが、自分もコートダジュールの風に吹かれるような気がしてくる。音楽会を描いた絵も出ているが、そういうのがデュフィの魅力なのは間違いない。

 ところが今回は「デザイン」に焦点が当てられている。それも「テキスタイル・デザイン」って言うけど、それは何だろう。服飾やインテリアの布地や織物をデザインする人のことで、「染織家」も指すらしい。(ウィキペディアによる。)デュフィがそういう仕事をしていたとは知らなかった。最初はアポリネールの詩集の挿画を頼まれ、それが好評でデザインの注文も来たという。リヨンの絹織物製造業ビアンキーニ=フェリエ社のために、1912年から28年までデザインを提供していたんだという。それらは上流階級の女性たちを魅了したと出ている。その原画や下絵などがたくさん出ているのが特徴だ。
 
 この服装は現代に復刻された「マイ・フェア・レディ」の舞台衣装で、出口のところで撮影可能になっている。多分デュフィというだけだといいかなと思う人、特に洋裁や染織に関心のある人は必見かと思う。美術館は初めて行ったんだけど、「旧新橋停車場」の隣のビルで、美術館からエスカレーターを降りるときに上から見られるのも面白かった。
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六義園ライトアップー東京の庭園⑥

2019年12月07日 20時58分22秒 | 東京関東散歩
 JR駒込駅近くの六義園(りくぎえん)は、毎年秋に紅葉のライトアップをしている。(12月12時まで。夜21時まで開園。入園は20時半まで。)都立庭園で夜間に時間延長をしてライトアップしているのはここだけ。六義園は以前記事を書いたこともあるが、改めてライトアップだけ取り上げたい。

 「東京には緑がない」「東京砂漠」だなんて昔はよく言ってたもんだけど、そんなことはなくって東京には江戸時代からの「大名庭園」がずいぶん残っている。大都会だから人間関係は大変かもしれないが、案外心休める場はある。それらの庭園の多くは都立だから安いし、65歳を過ぎるとさらに安くなる。健康を考えて、軽く歩けて緑に親しめる場があるのはありがたい。
   
 ライトアップ期間は駒込駅直近(2分ぐらい)の「染井門」が開いている。いつもは閉まっていて、もっと南へ10分ほどの正門しか開いてない。つまり通常期は池をめぐって一周するしかないが、この時期は片方から入って抜けることが可能。夜だから寒いし、正門から入って染井門から出れば駅に近くて便利。多少は光がある時間の方が池面に映る風景が見られるし、染井門に近い「つつじ茶屋」ではお団子やこんにゃくなどを売っている。つつじ茶屋を出たあたりで、一番の見どころがある。紅葉がすごいし、さらに下の方には青い光を当てて川のような演出をしている。

 それらもいいけど、正門から入ってしばらく歩いたあたりの池も素晴らしい。夕方の光が残る時間なら、空と水面と池向こうのライトアップが趣が出る。スマホで撮ってるカップルや外国人が多いけど、急いで取ると失敗する。光量が少ないから仕方ない。念のためいっぱい撮っておいた方がいいかも。
  
 六義園は5代将軍綱吉の側近として名高い柳沢吉保の下屋敷だったところ。なんだか柳沢吉保は歴史の悪役という感じだが、子孫はずっと続いた。上州館林藩士から館林藩主だった綱吉に従って幕臣となり、川越藩、甲府藩主となった。その後甲斐国は幕府直轄となり、柳沢家は大和郡山に移された。幕末まで続き、六義園もずっと柳沢家の屋敷だった。水戸藩の「小石川後楽園」と並び、日本を代表する大名庭園だ。明治以後は荒廃し、そこを三菱の岩崎家が買い取って修復した。東京に残る庭園は、「大名から三菱へ」という系譜が多い。国特別名勝
 
 「六義園」の名称は、「古今和歌集」の和歌の分類法によるという。それにちなんで園内にはいろいろ趣向があるが、夜行くと全然判らない。ゆっくり紅葉を見るなら昼間の方がいい。やはり夜は寒くなって、急いで通り過ぎる感じになってしまう。でも一度は訪れてもいいライトアップかなと思う。
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中村哲氏の逝去(「殺害」)に思う

2019年12月06日 23時52分39秒 | 追悼
 アフガニスタン中村哲さんが殺された。「悲しみに堪えない」とか「惜しみても余りある」とか「憤りを禁じ得ない」とか慣用句が頭の中を駆けめぐるけれど、当初は言葉が見つからない感じだった。

 襲撃事件が伝えられた12月4日は、最近多忙だったので見ていなかった新作映画に行っていた。まずは岩波ホールで「少女は夜明けに夢をみる」(上映終了)で、これはイランの少女更生施設に収容されている少女たちを見つめたドキュメント映画である。上映終了後にスマホを見たら、中村氏ケガと出ていた。僕はそれが一種の事故だと思った。そこから今度は渋谷へ行ってヒューマントラストシネマ渋谷で「テルアビブ・オン・ファイア」という映画を見た。これはパレスチナを舞台にイスラエルとの厳しい対立を背景にしたコメディである。映画を見終わってまたニュースを見たら、中村氏死亡と出ていた。

 なんで自分のことを書いたかというと、2本目の映画はうまく時間が合ったから行ったわけだが、この2本を見ようと思ったときから、僕は「今日はイスラム世界に触れる日」だなと思っていたのである。映画を見ていて、イランとパレスチナでは状況が違うが厳しい状況を生き抜くことは共通だと思った。それは世界共通かもしれないが、どちらの映画を見ても宗教色は感じない。世界のどこでも、家庭、仕事、恋愛などに悩みがある。イラン映画は更生施設だから、「薬物中毒」のケースが多く、イスラム体制下で薬物が流通してい事情には驚いたが。

 ここ何年も「イスラム過激派の無差別テロ」があちこちで起こった。日本人の犠牲者も多く出た。しかし、今回は無差別テロではない。明確な目標を持った襲撃事件だ。イランやパレスチナでも「暴力」は多いけれど、それは映画にも反映されているが、このような「武装勢力」が外国人を敵視して襲撃するということはあるだろうか。アフガニスタンでは何故それが起きるのか。事件が起きたジャララバードパキスタンとの国境の町である。カイバル峠を隔てて、パキスタンのペシャワールと向き合う。

 中村氏の団体名は「ペシャワール会」である。元々はパキスタンで活動していた。僕は多分、1980年代にはペシャワール会のことを聞いていたと思う。何故なら、中村氏の当初の活動内容は、ハンセン病患者救援だったからだ。1980年にハンセン病との関わりが出来、日本の療養所や韓国の定着村に行くようになった。その後も関心が続き、どこかで聞いたのだと思う。福岡の会だから、僕は直接支援したり話を聞いたことはない。直接間接につながりがあるところだけでも多かったから、そんなにどこでも関わることは出来ない。やがてパキスタンで活動が難しくなり、アフガニスタンでの灌漑施設など水環境の整備などを中心とするようになった。

 パキスタン情勢はアフガニスタンと密接に関わっている。「タリバン」勢力も元々パキスタン側の支援で勢力を伸ばしたとされる。このつながりは僕にはよく判らない。しかしジャララバードで明確な殺意を持って殺されるというのは、両国のイスラム勢力の関わりを示唆している。ノーベル平和賞を受賞したマララ・ユスフザイさんのような少女でも襲撃する勢力がパキスタンには存在する。外国援助団体を何故敵視するのか。「見て欲しくないもの」があるわけだろう。
(中村氏を悼むアフガニスタンの人々)
 中村さんは「9・11」以後の米軍を厳しく批判し、日本でも自衛隊の海外派遣に批判的だった。中村氏の発言はいろいろあるが、それはことごとく納得できるものばかり。日本だけでなく、「先進国」の人が「発展途上国」でどのように活動するべきか、「金言」の数々が残されている。どう受け継いでいくべきか。僕には正直言って、もうよく判らない。

 中村哲氏の母は作家火野葦平の妹にあたる。もう忘れられているかもしれないが、戦前に「土と兵隊」などが評判になり、戦後も「花と龍」などで有名になった。祖父玉井金五郎は北九州市若松の沖仲仕「玉井組」をやっていた。一種の「侠客」である。そのような「侠気」が中村哲のベースにあると感じてきた。言葉を換えれば「義を見てせざるは勇なきなり」となる。そのような精神は、必ず誰かが継いでいくものだと思う。
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教職の尊厳回復への道ー教員労働問題③

2019年12月05日 23時16分46秒 |  〃 (教育行政)
 3回も書くつもりじゃなかったんだけど、「教員の超過勤務をどう考えるか」問題の本質を書ききれない。最後のいくつかのポイントを提示して一端終わりにしたい。

 上の写真は文科省前で「英語民間テスト導入」に反対運動をした高校生や大学生などの若者たちである。なんで再びこの問題の写真を載せるのか。高校生ながら自分たちの声を届けようと動いた人もいた。そのことを、大人である教員が考えないといけないと思うからだ。自分たちの労働にあり方について、「どうせ何を言っても変わらない」「何も通じない」と何十年も続く「猫の目教育行政」に振り回されて、ほとんどの教員は何も言わなくなってしまった。いつまでもそれでいいのだろうか。

 確かに「声を挙げれば目を付けられる」し、「自分の身を守るだけで精一杯」と思う人も多いだろう。だが文科省だって「アクティブラーニング」を唱える時代だ。まあ安倍首相や管官房長官の「桜を見る会」問題の国会答弁を聞けば、「ちゃんと議論はしない」「追求をはぐらかす」ことを目的とした言語の使い方をしている。ディベートだのアクティブラーニングは日本社会では不要だという強いメッセージを発している。そういう国で生きているわけである。だからといって、教師たちが自分たちの労働条件の大きな変更にも、ただ決まったことに従うということでいいわけがない。

 マスコミでは、最近は「いじめ調査」等の調査・報告が多くなって現場は忙殺されているというような報道がよくなされる。もちろんそういう報告などは実際に多くなっていると思う。教育委員会からメールで送りつけてきて、添付ファイルで報告する訳だから、昔より簡単に送ってくるんだろう。それに情報公開請求による新しい報告事項も多い。だけど、いくらそういう調査類が多くなったとしても、そんなに残業が多くなるはずがない。部活動や宿泊行事、生徒指導なども多いと思うが、これは昔もあったことだ。21世紀になって、特に超過勤務が激しくなる理由はどこにあるのか。

 それは「教職の尊厳」を失わせるような政策がずっと行われていることにこそ原因がある。「忙しい」のも間違いないが、それ以上に「無意味なことに振り回される」「仕事がつまらない」のだと思う。どんなに忙しくても(もちろん限度はあるが)、それが真に生徒の向上に役立つような仕事なんだったら、忙しくて疲れるだけでなく、社会的に意義ある仕事をしているという「使命感」「充実感」も得られるだろう。そして昔はそういう仕事は多かったし、今も「文化祭」や「修学旅行」のために努力する仕事は「疲れるだけでなく楽しい」ものでもある。

 まあ「楽しい」と言えるのは、うまく行ってるクラスや学年の場合かもしれないが。自分はすべての担当学年で旅行行事を担当したけど、それは「楽しい仕事」だった。だが(自分が所属した東京都で行われているような)「自己申告書」に基づく教員の勤務評価システムのための膨大な書類作りなんかは、ニンジンを鼻先にぶら下げて教員どうしを競争させ昇給に使うわけで、「これが教育か」と思う書類仕事だ。(都教委側では、そういう人事制度が民間では当たり前だとか言うわけである。)他にも山のように、20世紀にはなかった「書類のための書類作り」(例えばアリバイ的に情報公開で問題化しないように発言をうまくまとめた「○○委員会議事録」作成など)が多いのだ。

 生徒に関わることでも小中では「全国学力テスト」があって、その成績を学校や教員の評価に使いたいと公言する知事や市長がいる。どうなってるんだ。大変な学校で大変な苦労をしている教員こそ、評価を上げるべきだろう。そのため「過去問」特訓をやったりするらしい。それでは本末転倒だ。そういう「競争的教育政策」のために、教員の仕事も変質し、事務仕事も増えてしまう。60年代に行われた学力テストは、教員組合の大きな反対運動で数年で中止になった。今は組合がほとんど力を失ってしまって、中止に向けた運動も行われない。それどころか、「競争意識」を内面化させてしまったような若手教員もいるんじゃないか。
(全国学テを前にした大阪府枚方市の学校)
 このような「教育」の意味の変容の中で、教師にとっては「自らの尊厳のはく奪」が進行してきた。「教員免許更新制」はその代表的な例だ。「無意味な仕事」「つまらない仕事」をやらされていると、疲労感は倍増するだろう。社会のあり方も大きく変わり、教育も大きな変化を避けられない。マジメな議論は歓迎だが、今回の「英語民間テスト問題」のように、思いつき的な発想と結果的に中止といった事態は文科省の教育政策に振り回される教員に頑張る意欲を失わせる。

 部活動などは別に考えなければならない問題だが、今回の「教員の変形労働時間制」では「労働時間」という量しか問われない。しかし教育のような仕事においては、量以上に「労働の質」を問わないといけない。労働内容の無意味化を何とかしないといけない。競争的教育政策の転換に向け、どのような反転攻勢ができるだろうか。今考えるとしたら、それこそが大きなテーマだと思う。もちろん、教員に限らずどんな仕事でも「労働の尊厳」が保証されなければいけない。しかし生徒が卒業後に就職する会社などを聞いても、尊厳が守られていない会社が多い。教員が行うべきことは、自分の仕事の量と質を問うことから始まって、生徒や保護者の労働をも問い続けていくことだと思う。
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どのような改善を望むのかー教員労働問題②

2019年12月04日 23時30分19秒 |  〃 (教育行政)
 教員に「変形労働時間制」を可能にする(地方議会での条例改正を可能にする)「給特法改正案」は12月4日の参議院本会議で採決され、賛成多数で可決された。9日まで会期があっても、最後の月曜はやらないことが多い。だから金曜(6日)には本会議があるだろうと思っていたが、日米貿易協定もあるし「桜を見る会」問題で野党側が内閣不信任案を出すと想定していた。まあ出しても一蹴されるだけだが、それでも日米貿易協定(の成立)前にやらないと意味ないだろうが。

 成立はしたけれど、今後の「職場の闘い」(あり得るかどうかは判らないが)に向け、問題を整理しておく必要がある。この法案を厳しく批判する人も多いが、「残業エンドレス」とか「これでは教員の生活が破壊される」とまで言うのはどうだろうか。現状がひどい状況になっている本質に目を向けず、ちょっと対処するだけというアイディアだが、それでも夏休みであれ振り替えできるならその分休めるには違いない。学校の働き方は地域、校種等で大きく違いがあり、まずは細かい調査が先に必要だ。

 上の写真は10月28日に、反対署名を提出した岐阜県公立高校教員、西村祐二さんと過労死した中学教員の妻工藤祥子さんである。最近は教育問題で大きな法改正があっても、教員組合の動きが見えない。それどころか、保守的な立場に立つ全日本教職員連盟(組織率2%程度)などは、参議院の参考人質疑で賛成意見を述べている。11月29日付東京新聞記事によれば、反対意見は上記署名を提出した西村さんと連合の相原康伸事務局長。賛成意見は全日教蓮の郡司隆文委員長と日本PTA全国協議会の東川勝哉顧問。連合として反対しているが、日教組全教からは出ていない。

 そもそも、教員は何を望んでいるのか。それはどのようにすれば可能なのか。
①残業そのものをなくす 
②残業(超過勤務)には残業代を支払う 
③残業には「勤務時間の振り替え」(代休)をする。
 3つの方向性があり得るが、それぞれ勤務内容によって変わってくる。教員の残業そのものを完全になくすことは出来ない。一般論で言えば、どんな職業であれ一切の残業なしには出来ないだろう。教員に関しては、給特法で認められている「宿泊行事の引率」などは勤務期間を超過せざるを得ない。その場合は「一ヶ月以内に勤務時間を振り替える」措置を取っている。それが全国的な措置なのか知らないけれど、そして実際には「一ヶ月以内の振り替え」は不可能なんだけど書類上は振り替える。

 そのことを考えれば、「超過勤務は夏休みに振り替えればいいでしょう」はおかしいことになる。超勤分の疲労回復なんだから、あまり後ではおかしいわけだ。もっとも東京都には土日に4時間以上の部活動を行った場合、4ヶ月以内に振り替えられる(または部活動手当を受けるのと選択できる)という仕組みがあった。(過去形で書いたのは、その後の変更の有無を知らないから。)部活なら後でもいいのかと言えるが、これは「部活動の位置づけ」と絡むので、なかなか難しい。

 職場内でも「部活をやりたい教員」はかなり多い。一方主に生活上の理由で「部活に負担感を持つ教員」も同様に多いと思う。この問題は以前書いたけれど、部活を今のまま続けることはやがて不可能になると思う。部活がある限り、教員の残業問題は解決しない。社会の側でも「部活は教員のボランティア」という意識では、やがて学校も生徒も共倒れになる。負担するべき経済的支援はきちんと負担するべきだ。具体的には、「部活動は社会教育に移管していく」「部活指導員が担当する」「当面の間、希望する教員は無条件で部活指導員に兼任できる」「教員も含め、部活指導員には活動実績に応じた給与を支払う」という方向である。

 部活動を含めて、教員の残業は小学校で月当たり60時間、中学校では80時間だという調査結果が出ている。給特法による調整額4%は「8時間」に当たる。教職調整額は総額で1386億円だという。法制定当時の考え方を生かして、現在の残業時間で計算すると、国負担で3千億円、区と地方を合わせて約9千億円になるという。(以上は衆議院での川内博史議員の質問に対する文科省の答弁による。朝日新聞11月16日。)そういう意味では、およそ「一兆円の搾取」が行われていることになる。

 こういう答弁を見ても、「給特法」の再検討は避けられないだろう。だが「給特法」そのものを「悪法」視するのはおかしい。今になって、「給特法」以前は残業代があったなどと論じる人さえいる。もちろん、現実は「4%であれ、残業代が出るようになった」のである。50年代、60年代には「デモシカ先生」などと呼ばれ、「先生でもするか」「先生しかなれない」などと経済的には恵まれない職業だった。その待遇の悪さが、組合の高組織率の要因でもあった。だから「給特法」は間違いなく「日教組対策」でもあったわけで、現実に70年代から教員組合の組織率が低下していく。

 しかし今すぐに「給特法」を廃止して残業代を正式に支払うことは財政的にも不可能だ。それに学校現場には「残業が出来ない教員」が相当に存在する。「育児」「介護」などの事情の他、「体調不良」(休職明けを含む)や「長時間通勤」(2時間近い人もいる)などの教員がかなり多い。そのような教員も「4%加算」を受けているわけであるから、給特法を廃止すれば「職場の中で弱い立場の教員」が大幅な給与ダウンになってしまう。そういう教員でも加算があっていいのかと思うかもしれない。いいのである。今は残業できない教員でも、違う時期には大幅な超過勤務をこなしているからだ。

 今では教職調整額は一種の「教職手当」となっている。事務系職員には出ないから、不平等だという人もいるが、どんな教員でも授業をして生徒と向き合っている。僕は長年教員をして思ったのだが、この「生徒と向き合う」ことが一番大変なのである。どんな教員でも「4%加算」があるということが、職場の同僚としての共同性を支えていると思う。だから一緒にきちんと仕事して欲しいと思う根拠でもあり、それぞれの教員が「自分は教員なんだから責任があるんだ」と思う根拠にもなる。

 また今「残業代を支払う」という制度に変わったとしたら、「残業」の承認が厳しくなるはずだ。今は管理職の命令(承認)なしに残っているわけだから、残業理由を届け出る必要も無い。それが残業代を管理職が厳しく管理することになれば、当然残業理由が厳しく問われるし、教員個々に情報公開を見据えたきちんとした届けがいる。自分の経験でも、「職人的こだわり」とでも言うような「完全にしたい欲求」による居残りがある。それに結構ダラダラ残っている人もいないとは言えない。僕はある程度「超過勤務はナアナアにしておく利便性」もあるように思う。

 こうなると、方向性が見えてこなくなるが、最後に言えることは「教員配置基準の緩和」が必要だということだ。少子化に伴い授業時数も減って行く。このままではどんどん減ってしまう。新採教員もいなくなって、年齢バランスが崩れる。それに小学校の新指導要領、小中の「道徳教科化」、小学校の「英語教科化」、あるいは「アクティブラーニング」の推進など、実質的に授業が増えている。授業でやることを大きく変えるには、授業時間数の軽減なくしては不可能だ。長くなってしまい、結論もなかなか出る問題ではないけれど、もう少し続けることにする。
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変形労働時間制とは何かー教員労働問題①

2019年12月03日 22時51分57秒 |  〃 (教育行政)
 ここ数年、教員の労働問題が大きく取り上げられるようになった。文部科学省としても何らかの対応を迫られたのだろうが、大幅な業務の見直しや部活動の位置づけなどには手を付けず、「変形労働時間制」を導入するという方向で法改正が行われた。衆議院を11月19日に通過し、12月4日の参議院本会議で賛成多数で成立した。(衆議院での賛成会派は、自由民主党・無所属の会、公明党、日本維新の会、希望の党で、反対会派は立憲民主・国民・社保・無所属フォーラム、日本共産党。)

 この制度をどう考えればいいのだろうか。「変形労働時間制」とは、上に示した図にあるように、「繁忙期」の労働時間を長くして、「閑散期」の労働時間を短くする制度である。もともとは「月単位」で月末の「締め」の時期に延長する等を想定していたが、法改正を繰り返して年単位の変形が認められている。学校では「長期休業期間」には授業がないから、その期間に「休暇のまとめ取り」も可能になる。

 最初に書いておくけど、現在の法案(公立の義務教育諸学校等の教育職員の給与等に関する特別措置法の一部を改正する法律案)を見ても何が何だか判らない。法案を見たい人は「衆議院」トップから「立法情報」「議案情報」「第200回国会 議案の一覧」と進む。(参議院からも見られる。)

 なんで判らないかといえば、この改正案が成立しても「変形労働時間制」にはならないからだ。元の法案「給特法」は名前に書かれているとおり、まずは公立小中学校を対象にしている。公立学校教員は地方公務員だから、地方議会の条例で労働条件が決められている。だから「条例を改正して変形労働時間制にもできますよ」というのが、今回の法改正案なのである。

 条例が改正されても、まだ変形労働時間制にはならない。労働条件の変更だから、労働基準法36条のいわゆる「サブロク協定」が必要になる。労働協定には「使用者は、当該事業場に、労働者の過半数で組織する労働組合がある場合においてはその労働組合、労働者の過半数で組織する労働組合がない場合においては労働者の過半数を代表する者との書面による協定」が必要になる。

 小学校はともかく、中学校では今や「労働者の過半数で組織する労働組合」なんて存在しない学校がほとんどだろう。全組合をまとめても組織率3割程度なんだから、ほとんどの学校では教員組合(職員団体)との協議だけでは「変形労働時間制」は導入できない。職場で議論できるんだろうか。組合を弾圧し、職員会議を無意味化してきた後で、この問題に関して職場できちんと議論できる余裕がどれだけあるのか。なんだか現場では面倒だから後回しにされそうな予感がするのだが。

 それはともかく、内容をどう考えればいいのか。これが「抜本的改革ではない」のは明らかだ。だが「ないよりはまし」的な部分もないとは言えない。「絶対に阻止するべき違憲法案とまでは言えない」ようにも思う。それを言えば、元々の給特法も、いまや「悪法」と断ずる人も多いようだけど、僕は必ずしもそうではないと思っている。自分でも論旨不明確だと思うが、教員の労働時間問題は「あちら立てれば、こちら立たず」で、教員間でも利害の対立がある。根本的な解決策を見出すのは難しい。

 誰もが心配することを書いておくが、変形労働時間を機械的に適用すると一番困るのは「育児軽減」「介護軽減」などのケースである。例えば1時間早く帰れていたものが、勤務時間そものもが1時間延長されてしまえば元も子もない。しかし、これは配慮されるはずだ。「労働基準法施行規則第十二条の6」に(変形労働時間で労働させる場合は)、「育児を行う者、老人等の介護を行う者、職業訓練又は教育を受ける者その他特別の配慮を要する者については、これらの者が育児等に必要な時間を確保できるような配慮をしなければならない。」と明記されている。この規則を守らないといけない。

 細かなルールの説明で長くなっているが、本質的な問題は次回に書きたい。この「変形労働時間制」はどうも「現場知らず」の発想に思える。4月、6月、10月、11月に勤務時間を長くするというような例示があるようだが、別にこれらの月が一月を通してずっと忙しいのか。全員が関わる行事(文化祭、運動会等)は確かに学校全体が忙しいが、それでも月全部じゃないだろう。むしろ、テストをして、成績を出し、クラス担任は通知表を作成し、三者面談などもある7月や12月も忙しいだろう。「師走」を無視していいのか。そう思うが、7月や12月は長期休業目前だから無視するのか。

 3学期だって次年度に向けて忙しい時期だが、その間の残業はどうするのか。年間で変形するんだから、恐らく翌年度には繰り越せない。学校の特徴は、繁忙期といっても「人それぞれ」だということだ。修学旅行前は忙しいが、全学年ではない。担任だって全員じゃない。部活顧問だって、文科省自体が週に休日を設けろと言ってる。部活がない日は早く帰れたのに、勤務時間が延びたら意味が無い。夏休みに研修だの「教員免許更新講習」だのを入れたのも文科省だ。夏休みは「閑散期」だと言っても、昔とは全然違っている。いくら書いてもキリが無いが、本質を外した議論をしてると「パンドラの箱」を開けてしまいそうだ。それは「もう学校では働けない」という思いだろう。
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真姿の池と武蔵国分寺跡ー国分寺散歩

2019年12月02日 22時47分26秒 | 東京関東散歩
 中央線国分寺駅前にある「殿ヶ谷戸庭園」を見てから、しばらく南へ歩く。都立庭園に国分寺散歩マップが無いのは困るけど、あちこちに「国分寺跡」の表示があるので間違えないだろう。「不動橋」(一里塚信号)を右(西)へ曲がって、気持ちいい道を歩く。「お鷹の道」までは案外遠いが、落ち着いた家並みが続くので飽きない。やがて「お鷹の道」入り口が見えてくる。尾張藩の鷹狩りの狩り場だったところで、そこに整備された小道が素晴らしい。ホタルのためにカワニナ保護の看板がある。
   
 ここは「お鷹の道・真姿の池湧水群」として環境庁(当時)の「名水百選」に選ばれている。選定は1985年のことだから、ずいぶん昔のことだ。僕はそれ以来日本各地で、多くの「名水」を訪ねてきた。「水」が好きなのである。それなのに、ずっと前から行きたかった国分寺は初めてである。初めて来て、こんなに気持ちのいい道が東京にあったのかと思った。湧水が豊富なうえ、透きとおっている。「お鷹の道」を歩くのは楽しい。やがて「真姿の池」方向への曲がり道になる。
   
 遠くに赤い鳥居が見える。「真姿の池」はどこだと思うと、その鳥居の場所だった。鳥居から池の中へ道が通り、向こうにお堂がある。池の水は透きとおっているが、樹に囲まれて薄暗くてよく見えない。池を通って先へ行くと階段があり、何があるんだろうと登ってみたら、旧国分寺の「僧寺北東地域」だった。何もない場所だけど、説明板があった。戻って「お鷹の道湧水園」へ入る。
   
 この「湧水園」は2009年に作られた施設で、入園料100円が必要だが入る価値がある。(入園料はすぐそばの史跡の駅「おたカフェ」で払う。一帯は国分寺崖線に面したところで、園内に湧水もある。この地区の地主の家だった場所で、入り口は風格ある門(2階に上れる)になる。庭の端には旧国分寺にあったという「七重の塔」がミニチュアで復元されている。また「武蔵国分寺跡資料館」(3枚目の写真)がある。旧武蔵国分寺を知るためには必見で、発掘で見つかったという観音像も展示されている。瓦などは別にして、旧国分寺由来の仏像としては唯一のものだそうだ。
   
 「武蔵国分寺跡」はすぐ近い。もっとも国分寺の区域全体は広いので、相当あっちこっち行かないといけない。今は何もなくて「解説板」があるだけだから、まあ金堂講堂があったところだけでいいだろう。日本中に作られた国分寺だが、そのまま残っている寺院はない。諸国の国分寺も中世になって荒廃したところが多い。武蔵国分寺は鎌倉末期の「分倍河原(ぶばいがわら)の合戦」(新田義貞と鎌倉幕府の戦い)で焼け落ちた。その後再建された「武蔵国分寺」も近くにある。そこには楼門や万葉植物園があるが、古代から続く寺院ではない。「国分尼寺」の跡はちょっと離れているので行かなかった。
   
 大分疲れてきたので、駅に戻ることにする。駅と言っても今度は西国分寺。駅の方へ行く道は広大な「都立国分寺公園」になっている。「都立多摩図書館」もある。まっすぐな道は古代の「東山道武蔵路」で、線路近くに展示施設が作られている。何だかよく判らないけど、発掘した昔の道跡だ。線路の北側に「姿見の池」がある。せっかくだから寄っていこう。やっとたどり着くと、鴨が泳いでいた。静かな池である。このように湧水が多い理由を書いてある説明板があった。(写真の最後)
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青鞜社を描く劇、永井愛「私たちは何も知らない」

2019年12月01日 23時20分40秒 | 演劇
 永井愛作・演出の二兎社公演「私たちは何も知らない」が上演されている(東京芸術劇場シアターウェスト)。近代史上に有名な女性運動のさきがけ、青鞜社(せいとうしゃ)に集う平塚雷鳥(本名明=はる)や尾竹紅吉伊藤野枝らをモデルにして、現代につながる問題を突きつけてくる。

 永井愛さんは最近は「ザ・空気」「ザ・空気2」など現代日本を風刺する劇を書いていた。「書く女」(樋口一葉)、「鴎外の怪談」など明治期の人物に材を取った劇もたくさんあるが、今回は「史劇」というより今に通じる「現代劇」だと思った。冒頭には「青鞜」創刊号に載せた有名な「元始、女性は太陽だった」がラップ調で流れる。「青鞜」発起人よりも若い世代である尾竹紅吉伊藤野枝なんかジーパン姿で登場するぐらいだ。なるほど、それもありかと思う。その分、昔感覚が薄れてはいるが。
(平塚雷鳥)
 「青鞜」に関しては、今まで様々に論じられてきた。演劇では宮本研ブルーストッキングの女たち」(1983)、小説では瀬戸内寂聴青鞜」(1984)がある。概説的研究書として堀場清子青鞜の時代」(1988、岩波新書)があり、岩波文庫には「平塚らいてう評論集」(1987)や堀場清子編「『青鞜』女性解放論集」(1991)が入っている。(今も生き残っている。)またドキュメンタリー映画として、羽田澄子平塚らいてうの生涯ー元始、女性は太陽だった」(2001)もあった。

 僕は近代日本の思想・文化が主たる関心テーマであり、長い間「メシの種」でもあったから、「青鞜社」についても関心を持ってきた。この芝居に描かれたエピソードもほぼ知っている。でも今書いて思ったけど、「青鞜」に関する熱い関心は80年代にピークを迎えたようだ。70年代初期に「反乱の季節」が終息し、胸底にわだかまる疑問が80年代に「青鞜」を論じさせたのか。1975年にメキシコで第1回「国際女性会議」が開かれ、以後の10年間を「国際女性(婦人)の10年」とした。1985年には日本で「女子差別禁止条約」が発効している。そのような時代だったことも大きいだろう。

 条約に伴い、高校家庭科の「男女必修」が実現した。今では当たり前すぎて、男子高校生が家庭科をやらなかった(その分の単位は体育だった)時代は想像出来ないだろう。30年経って、制度的な差別は一応無いことになって、明治大正は遙かに遠い。100年前の女性運動家の苦悩に無関心な人が多くても不思議じゃない。では、この劇は何を目指しているのか。過去の「偉人」を顕彰しているのか。そうではなく、主に20代だった草創期女性運動家の青春を今までにない観点で描いている。それは「セクシャリティ」や「リプロダクティヴ・ヘルス&ライツ」(性と生殖に関する健康と権利)といった観点だ。

 冒頭に若い画家の卵、尾竹紅吉(こうきち=本名一枝)が青鞜社を訪ねてくる。平塚雷鳥は不在で、事務をしている保持研(やすもち・よし、研子とも)がぶっきらぼうに対応する。そこに憧れの雷鳥が登場して、紅吉は舞い上がる。その後二人は「同性愛」を噂される仲の良さになるが、やがて雷鳥が年下の画学生奥村博と知り合って惹かれてゆく。(年下の男の愛人を「若い燕」と呼ぶのは、奥村が雷鳥にあてた手紙の一節から。)これらは有名なエピソードだが、今までは「バイセクシャル」な心の揺らぎには描かれなかった気がする。

 女たちが「編集部」に集まって議論するのも、「空気を読まない女たちがマジで議論した」とチラシにあるとおり、現代日本への風刺が込められている。(その意味では「ザ・空気」の続編でもある。)そのマジネタは、売春貞操などで、つまりは上司に迫られたら「身を売る」しかないのかという話だ。これは「セクハラ」であり、「#MeToo運動」につながる。制度的な差別は減った後でも、実質的には一世紀経っても続く問題があった。伊藤野枝が登場し、「意に沿わぬ結婚」からの逃亡、「早過ぎる結婚、出産」「社会運動への目覚め」へと至り(つには夫を捨て大杉栄に走る)のもまさに現代につながる。

 そのような若き女性たちの結節点となる平塚雷鳥朝倉あきがさっそうと演じる。ちょっとはつらつ過ぎにも思えるが、何しろ見映えがいい。映画「四月の永い夢」の主演で注目された。僕もこの映画は見ていて、落ち着いた演技は素晴らしかった。「かぐや姫の物語」のかぐや姫役の声優でもあり、多くのテレビドラマに出ている。対するに青鞜を受け継ぐことになる伊藤野枝藤野涼子。映画「ソロモンの偽証」の主役中学生でデビュー。最近はテレビドラマ「腐女子、うっかりゲイに告る」のヒロインだった。二人とも素晴らしいけど、まだ長いセリフが安定しない箇所もある。今後に期待。
(朝倉あき)
 主演級の二人もいいんだけど、僕は圧倒的に助演陣が素晴らしいと思う。事務を担当する保持研はウィキペディアに項目がないぐらいで、「青鞜」に関心がない人は聞いたこともないだろう。決して容貌には恵まれていなかったが、明るくて事務にたけ(しかし営業には向かない)人物を富山えり子が圧倒的な存在感で好演。映画「リバーズ・エッジ」で、性的に奔放な小山ルミの姉、太っていてオタクでBLマンガを書いている小山マコという役をやっていた。

 岩野清子役の大西礼芳もすごく良かった。尾竹紅吉役の夏子奥村博役の須藤蓮に加えて、評論家山田わか役の枝元恵も相変わらず快調。二兎社3回目で「シングルマザーズ」が思い出される。登場人物はこの7名のみ。省略された重要人物も多い。若い伸び盛りの役者がいっぱいで楽しかった。
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