尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「教育再生」と教員免許更新制ー更新制廃止へ向けて②

2021年07月14日 22時25分34秒 |  〃 (教員免許更新制)
 「教員免許更新制」を文科省が廃止しようとしても、「夫婦別姓」のように自民党内の反対で頓挫することはないのだろうか。前回最後にそう書いた。「夫婦別姓」は世界中の国でそうなっているのだから、日本だけ取り入れない大きな利点がないとおかしい。しかし、日本の「保守派」は「夫婦同姓」であることに「イデオロギー的価値」を見出している。だから「イデオロギー的原理主義」の立場から、絶対反対を主張するわけである。

 「教員免許更新制」も教育政策上の費用対効果を考えて、あまり存在意義がないならば廃止すればいいだろうと常識的には思う。しかし、この更新制はどのような目的で成立したのだろうか。教育を良くしようと思って、やってみたら思ったような効果がなかったといったものなのだろうか。僕はそうではないと思う。むしろ学校に大きな損害を与えるとしても、「イデオロギー的価値」のもとに実施されたものなのではないだろうか。

 ここに一つの資料がある。先に読んだ俵義文戦後教科書運動史」に引用されていた安倍晋三前首相の講演である。日本教育再生機構の機関誌「教育再生」の2012年4月号、つまり民主党から政権を奪取し第2次安倍政権が成立した直後に掲載されたものである。ちょっと長くなるが引用する。

 教育基本法を改正したこについてですが、日本が占領時代に様々な法律や体制が作られー憲法も旧・教育基本法もそうですー、戦後、この長く続いてきた体制や精神を含めて、私は「戦後レジーム(旧体制)」とよんでいますが、この「戦後レジーム」から脱却しなければ、日本の真の独立はありえないというのが私の信念です。(中略)旧い教育基本法は立派なことも書いてますが、日本の教育基本法でありながら日本国民の法律のようには見えません。日本の「香り」が全くしないのです。まるで「地球市民」を作るような内容でした。(中略)
 しかし、新・教育基本法では、人格の完成とともに日本のアイデンティティを備えた国民を作ることを「教育の目標」を掲げています。その一丁目一番地に「道徳心を培う」と書きました。伝統と文化を尊重し、郷土愛、愛国心を培うことを書きました。関連法も改正し、教員免許更新制や、指導が不適切な教員の免職を含めた人事の厳格化も行い、頑張った先生が評価される「メリハリのある人事評価」を目ざしました。主幹教諭・指導教諭を付けて、校長・教頭だけだった管理職も増やしました。

 「教育再生」は安倍政権の教育政策のキーワードである。第一次安倍政権では「教育再生会議」が設置され、第二安倍政権で「教育再生実行会議」が設置された。その「教育再生会議」を調べてみると、最終報告(2008年1月31日、すでに福田康夫内閣になっていた)で「教員の質の向上」の中で「教員免許更新制、教員評価、指導力不足認定、分限の厳格化、メリハリある教員給与(部活動手当の引上げ、副校長、主幹教諭の処遇など)」と書かれている。教員免許更新制そのものは、2007年6月に第1次安倍内閣で教育職員免許法の改正が実現していた。上記の他の点も東京都では他府県に先駆けて実働化していたものが多い。
(第2次安倍内閣で設置された「教育再生実行会議」)
 「教育再生会議」の最終報告は、引用した講演で安倍氏が自分の業績として挙げているものばかりである。そして「教員免許更新制」は「教員評価」(校長による勤務評定)や「教員の階層化」と同列に置かれている。つまり教員の「分断」政策の一環だったということがよく判る。どうして教員を「分断」する必要があるのか。それも上記講演で判るだろう。児童・生徒に「愛国心」を培い、「世界市民」ではない「日本のアイデンティティを備えた国民を作る」ためには、「人事の厳格化」が必要なのである。そして第二次安倍政権で作られた「教育再生実行会議」では「道徳の教科化」が行われた。

 先の講演が掲載された「教育再生」という雑誌は、日本教育再生機構が出していた。これは「新しい歴史教科書をつくる会」が各地の教科書採択で苦戦する中で、「右派的色彩が強すぎるから」として内部対立が起こり、2006年に分裂して出来た組織である。安倍氏のブレーンとして知られる八木秀次氏らが作って、育鵬社(産経新聞の子会社扶桑社の、教科書発行のために作った子会社)から教科書を発行している。自民党が野党だった時代にも安倍氏を支え、2012年2月には大阪で安倍氏、八木氏と当時大阪府知事の松井一郎氏がシンポジウムを行った。その時のシンポでは「地域の再生は教育再生から」と大きく書かれている。
(2012年2月の大阪集会)
 「再生」という言葉は、今はダメだけど昔は良かったというときに使う。じゃあ、いつなら良かったと言うのだろう。戦後教育はすべて「戦後レジーム」の産物だから全否定するとなると、どうしても「戦前教育の復活」になる。戦前の国家主義的教育の時代が良かったというのだろう。歴史では天皇ばかり教え、「修身」(道徳を教える)があり、「教育勅語」を有り難く戴いていた時代である。だから、「教育勅語には良いところもある」とか言い出すのである。これが「教育再生」の本質だと思う。(ちなみに「レジーム」は「体制」であって、「旧体制」ではない。旧体制をフランス語で言いたいなら「アンシャン・レジーム」と言うべきだ。)

 「教員免許更新制」はこのようにイデオロギー的な背景がある政策である。だから文科省が「廃止」を目指しても、自民党内の了承が得られない可能性も考えておかなければならない。そのためには「教員の資質向上」という、それ自体は教員自身も含めて誰も異論がない問題で、真に意味がある制度を周到に設計する必要がある。と同時に「真の教育再生」に向けた戦略も練っていかなければならない。
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教員免許更新制、「廃止」報道をどう考えるかー更新制廃止へ向けて①

2021年07月13日 22時14分38秒 |  〃 (教員免許更新制)
 日曜日の毎日新聞(7月11日付)が1面左肩トップで「教員免許更新制廃止へ 文科省来夏にも法改正」と報じた。前日の夜にWEB版に掲載されて、それを受けて教員免許更新制の廃止が決まったかのように論じる人もいた。毎日のサイトには「スクープ」と出ているが、この報道をどう受け取ればいいのだろうか。その日は新聞休刊日に当たっていて、12日朝刊は発行されない。そこで13日付で他紙が報じるかどうか注目したが、朝日新聞は第3社会面で「文科省が廃止検討 教員免許の更新制」と報じた。「廃止へ」と「廃止検討」では微妙に内容が違う。僕の見たところ読売や東京には報道がなかったが、推測を交えて僕の考えを書いておきたい。
(教員免許更新制アンケートの自由意見)
 毎日新聞の記事(大久保昂記者)では「文部科学省は(中略)「教員免許更新制」を廃止する方針を固めた。政府関係者への取材で判明した。今夏にも廃止案を中央教育審議会に示し、来年の通常国会で廃止に必要な法改正を目指す。」と書かれている。その後で教員免許更新制の問題点が書かれているが、このブログで今までに何度も書いてきたので省略する。この記事でちょっと不思議なのは、廃止案を中教審に示すという点である。

 ここで既に書いたように(2021.3.16 中教審、「教員免許更新制」を抜本的見直し)、文科省は中教審に「教員免許更新制の抜本的見直し」を諮問しているところだ。その議論の説明を抜きに、夏に廃止案を中教審に示すという流れが今ひとつ納得できなかった。朝日新聞の記事(伊藤和行記者)では「中教審では廃止論が大勢で、8月にも廃止の結論を出す見通し。これを受け、文科省は廃止を表明し、来年の通常国会で必要な法改正を目指す方向だ。」この記事によれば、来年に法改正を目指すという点では毎日と同じだが、現在のところ中教審では「廃止論が大勢」という段階にあることになる。
(教員免許更新制の負担感)
 中教審には、「令和の日本型学校教育」を担う教師の在り方特別部会が置かれ、さらにその下に教員免許更新制小委員会が設置されている。小委員会は4.28、5.20、7.5と3回開催された。また特別部会は4.22、6.28と2回開催された。それぞれオンラインで開催され、傍聴することも出来るが、システムが整ってないので傍聴していない。議事録は次回開催時まで公開されないので、最新の会議がどのように進行したかは知らない。上記の2つの画像にあるアンケート結果は、7月5日の小委員会で示された「令和3年度免許更新制高度化のための調査研究事業(現職教員アンケート)調査結果」である。

 つまり、形式的に言えば正式な廃止決定はされていない。そもそも「廃止」を誰が決定するかと言えば、中教審に諮問しているのだからタテマエではその議論を待つということになる。しかし、日本の審議会というものは行政当局と相談なしに自由闊達に議論する場ではないだろう。というか、自由に議論してもいいだろうが、他の審議会を見ても、結局は行政当局の結論を追認することが多い。

 では教育行政のトップである萩生田文科相はこの問題でどう言っているのか。小委員会後の6日の記者会見では、「講義は面白いが役には立たないというミスマッチが浮き彫りになった結果」との認識を示したという。また、萩生田氏は「制度に負担や不満を感じる教師が相当数いる状況を反映している。スピード感をもち制度改革を進める」と述べたと伊藤記者が書いた記事がネットにある。
(記者会見する萩生田文科相)
 これらを考えると、文科省としてもアンケート結果などに照らしても更新制継続は難しいと考えているのだと思われる。教員のなり手不足は深刻な課題である。もともと少子化の進行によって、教員を目指すべき大学生の数もどんどん減少していく。1960年生まれの教員は60歳で定年を迎えている。今後公務員の定年が延長されるとしても、70年前後の「第二次ベビーブーム」世代の教員が退職した後に教師不足がさらに深刻化するのは間違いない。そう考えると、大学生の教職課程受講意欲を失わせ、一端退職した教員を中途で講師などで復帰して貰えない「教員免許更新制」は愚の骨頂だ。

 だから「スピード感を持って」改善する方向で文科省の意向がまとまったのかと毎日、朝日の報道が推測させる。ただし、僕はそれが必ず実現出来るかはまだ不透明な部分が残っていると思う。中教審で廃止が答申されるというのは、つまり法制審で夫婦別姓が答申されたというのと同じである。それから20数年、答申は自民党内で棚ざらしになっている。また私立大学等「更新講習」で利益を得ている関係者が今後反対することもありうる。この廃止案は自民党文教部会で認められるのだろうか。あるいは安倍政権で長く文科相を務めた下村博文自民党政調会長は了承しているのだろうか。自民党内でストップが掛かる可能性を書いたのは何故か、それは次回に。
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なんてステキな台湾映画「1秒先の彼女」

2021年07月12日 20時53分10秒 |  〃  (新作外国映画)
 台湾のチェン・ユーシュン監督「1秒先の彼女」っていう映画が公開されたが、これは実にステキな映画だった。見たのは少し前だけど、見た瞬間から是非もう一回見たいなあって思う、そんな映画だった。予想もしない展開になっていって、なるほどそうかと判った時点から見直したいのである。アラサー女子にようやく訪れたバレンタインデーのお誘い。ところが目覚めたら、もう終わっていたではないか。「盗まれた一日」はどこへ行った? 彼女は警察に駆け込むが…。ミステリーかSFみたいな設定がコミカルに展開されていく。一体どうなるの?

 原題は「消失的情人節」で、この「情人節」というのが「バレンタインデー」なんだという。でも2月14日ではない。台湾ではもう一つあって、それは「七夕」である。それも旧暦の7月7日だから、今年は8月14日だという。ここは男の方からプレゼントするんだと。世界にはいろいろあるもんだ。映画の中でバレンタインって何度も言ってるけど、いくら亜熱帯の台湾でも2月なのかと疑問に思ったが、要するにそういうことだった。台湾を代表する映画賞、金馬奨で作品賞、監督賞、脚本賞、編集賞、視覚効果賞の5部門で受賞した作品である。
(原題のチラシ)
 ストーリー紹介をコピーすると、「郵便局で働くシャオチーは、仕事も恋もパッとしないアラサー女子。何をするにもワンテンポ早い彼女は、写真撮影では必ず目をつむってしまい、映画を観て笑うタイミングも人より早い...。ある日、ハンサムなダンス講師とバレンタインにデートの約束をするも、目覚める となぜか翌日に。バレンタインが消えてしまった...!? 秘密を握るのは、毎日郵便局にやってくる、常にワンテンポ遅いバス運転手のグアタイらしい。シャオチーは街中の写真店で、なぜか目が見開いている見覚えのない自分の写真を偶然見つけるが…。」しかし、これだけでは何も判らないだろう。
(郵便局の窓口のシャオチー)
 世の中にはせっかちな人もいれば、テンポが遅い人もいる。現実にそういうタイプの違いはよく見られるけど、だからといって徒競走でいつもフライングするとか、逆に周りが走り出しているのにノンビリとスタートするって、それほどいつもズレてる人もいないだろう。でもシャオチーは写真を撮るときにいつも目をつむっている。「1秒先」を生きているのである。という設定だから、前半はコミカルに展開する。大体一日が無くなるはずがないし、その間に何故かシャオチーは日焼けしている。それは何故か。合理的に解決されるというより、やっぱりファンタジーなんだけど、仕掛けが判ってからが感動的なのである。
(シャオチーはダンス教師と親しくなるけど…)
 監督・脚本のチェン・ユーシュン(陳玉勲、1962~)は「熱帯魚」(1995)、「ラブ・ゴーゴー」(1997)で知られたが、その後はCMで活動していたという。2013年に「祝宴!シェフ」で長編劇映画に復帰、これが長編映画5作目である。僕は昔「熱帯魚」を見てると思うが、あまり覚えてない。撮影のチョウ・イーシエンも見事で新作「返校」などを撮っている。主演のシャオチーをやってるリー・ペイユーは、どこにもいそうな感じだけど忘れがたい。郵便局の同僚をやってるヘイ・ジャアジャアは台湾棋院所属の囲碁棋士でもあると出ている。美人棋士として日本でもテレビに出ているという。

 「1秒先の彼女」は「時間差」(タイムラグ)を見事に生かした発想が素晴らしい。性格のズレ、出会いのズレ、好意のズレを、時間のズレに読み直したシナリオが本当に見事。「こんな映画見たことない」と多くの人がコメントしているが全くその通り。オチを書くわけに行かないので、是非とも本編で驚いて欲しい。ラストにビージーズの「ジョーク」(I started a joke)が流れるとき、あまりにもピッタリで感動してしまった。奇跡の「胸キュン映画」の誕生。現実の時空間を少しズレて生きている人に、「奇跡には起こるタイミングがある」と伝えてくれる。
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李麗仙、姜徳相、根岸英一、大島康徳等ー2021年6月の訃報②

2021年07月10日 22時54分49秒 | 追悼
 2021年6月の訃報。最近訃報特集が長すぎるので簡潔に書いていきたい。まず女優の李麗仙が、6月22日に死去。79歳。最近見た昔の映画「サマー・ソルジャー」で李麗仙が印象的に出ていて、そう言えば今何しているのかなと思ったら訃報が報じられた。映画では脱走米兵を匿う水商売の女をほとんど実在人物のような存在感で演じていた。相手は素人俳優なので、かなり大変だったらしい。李麗仙といえば、唐十郎状況劇場(紅テント)の看板女優だった。今調べてみると少しは見てると思うけど、具体的には覚えてない。一番勢いがあった70年前後は中学生だから見てない。その当時は李礼仙と表記していた。唐十郎と67年に結婚し、88年に離婚したが離婚のことも忘れていた。「金八先生」などテレビでも活躍した。
(李麗仙)
 歴史学者の姜徳相(カン・ドクサン)が6月12日に死去、89歳。1989年に一橋大学教授となったが、これは韓国人として初の国立大学教授だった。朝鮮近現代史、日朝関係史を専攻し、特に朝鮮独立運動史や関東大震災時の朝鮮人虐殺事件の実証的研究を行った。1975年に中公新書から出た「関東大震災」はこの問題の先駆的な著書で、僕も若い頃に読んで大きな影響を受けた。在日韓人歴史資料館の初代館長を務めた。
(姜徳相)
 2010年にノーベル化学賞を受賞した根岸英一が6月6日に死去、85歳。帝人勤務の後アメリカのインディアナ州にあるパデュー大学の研究員となり、シラキュース大を経てパデュー大学教授となった。40年以上アメリカで研究し、有機亜鉛化合物を用いる「根岸カップリング」の開発でノーベル賞を受賞した。(北大名誉教授の鈴木章らと同時。)2018年に車が溝にはまり救助を求めた妻が低体温症で亡くなる事故が起きた。根岸氏には二度目のノーベル賞を期待する声があったようだが、それは「人工光合成」の研究だったようだ。
(根岸英一)
 中日日本ハムで活躍したプロ野球選手、また2000年から2002年にかけて日本ハムの監督を務めた大島康徳が6月30日に死去、70歳。僕はこの人をそんなに知らなかったが、現在東京新聞夕刊に「この道」という自伝を連載していて、連載中に亡くなった。(原稿は出来ているということで、没後も連載されている。)ガンだということは公表していたが、まさに読んでるさなかに亡くなったとは…。中学時代はテニスやバレーをやっていて、高校から野球を始めた。投手だったにもかかわらずホームランを中日のスカウトが見ていてドラフト会議で3位で指名された。入団後に水原監督から野手に転向させられたという。1983年のホームラン王。通算2204安打、382本塁打。引退後に第1回WBCの打撃コーチを務めた。選手、監督として5回の退場処分を受けたことでも知られる。
(大島康徳)
 ビッグバンド「原信夫とシャープス&フラッツ」のリーダーでサックス奏者の原信夫が6月21日に死去、94歳。海軍軍楽隊から戦後になってジャズバンドを結成し進駐軍向けに演奏した。アメリカの大物歌手の伴奏も務めた。美空ひばりの「真赤な太陽」の作曲も。僕はナマで一回聞いてると思う。
(原信夫)
 「寺内タケシとブルージーンズ」のリーダーで、「エレキの神様」と言われた寺内タケシが6月18日死去、82歳。僕はあまり知らないんだけど、74年に全国の学校で「エレキ禁止令」が広がり、寺内は抗議の意味でハイスクールコンサートを長く続けたという。「エレキの神様」って言う表現はおかしいなと思うけど。
(寺内タケシ)
 政治学者の石田雄(いしだ・たけし)が6月2日死去、97歳。訃報の写真がなかったことに驚いた。東大法学部で丸山真男の系譜を継ぐ学者として、著作も多かったし社会的発言も多かった。安保法制の時は朝日新聞投書欄で反対論を投稿した。しかし、新書本などの一般向け著作がなかったから一般的知名度は低かったのかも。「明治政治思想史研究」(1954)以後多くの著作があり、「日本の政治と言葉」(1989)で毎日出版文化賞。学徒出陣世代として平和を論じ続けた。「安保と原発――命を脅かす二つの聖域を問う」(2012)、「ふたたびの<戦前> 軍隊体験者の反省とこれから」(2015)など近年まで言論活動を続けていた。
(石田雄)
 5月まで経団連会長だった中西宏明が6月27日に死去、75歳。日立製作所社長、会長を務め業績の急回復を果たした。2018年から経団連会長に就任し、就活ルール見直しを主導した。組織として決定する前に発言したのだという。石田氏と異なって、原発を推進する立場で率直な発言をすることで知られた。
(中西宏明)
 アメリカのブッシュ(ジュニア)大統領の下で国防長官を務めたドナルド・ラムズフェルドが6月29日に死去、88歳。1975年にフォード政権で43歳という最年少の国防長官になった。二度目の国防長官として、アフガニスタンとイラクの戦争を主導した。強硬派で知られ、イラク戦争の泥沼に大きな責任がある。
(ラムズフェルド)
藤田紘一郎、5月14日死去、81歳。寄生虫学者で「笑うカイチュウ」など多くのユーモラスな著作で知られた。
船戸順、5月26日死去、82歳。俳優。映画、舞台、テレビで幅広く活躍した。妻の岩井友見とともにCMなどに出演したことも多かった。
茂木清夫、6日死去、91歳。地震学者で地震予知連絡会長を務めた。東海地震と浜岡原発の危険性を警告した。
大和岩雄(おわ・いわお)、20日死去、93歳。52年に「人生手帳」を創刊、若者の悩みを投稿する人生雑誌として成功した。61年に「愛と死をみつめて」がベストセラーになった。その後古代史研究を始め多くの著作がある他、民間古代史学者が発表できる雑誌を刊行した。僕は「大和書房」を昔から知っていたが「やまと」なのか「だいわ」なのかずっと疑問だった。「おわ」だったとは知らなかった。
大野茂、21日死去、71歳。元関脇玉の富士で、前片男波親方として玉春日らを育てた。
ベニグノ・アキノ、24日死去、61歳。前フィリピン大統領。暗殺された父とマルコス政権打倒後の大統領コラソンとの間に生まれ、2010~16年に大統領を務めた。
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立花隆と小林亜星ー2021年6月の訃報①

2021年07月09日 23時27分29秒 | 追悼
 いつものように毎月の訃報特集をまとめて置くけれど、かなり多くの訃報が月末に集中したので数回に分ける。最初に書く立花隆小林亜星はそもそも6月の訃報ではない。この二人には直接のつながりはないけれど、それでも何となくこの二人の名前を聞くと、「昭和」というムードが感じられる。実は4月、5月に亡くなっていたということで、まとめて書くことにする。

 評論家、ジャーナリストの立花隆が2021年4月30日に亡くなっていた。80歳。今「たちばな・たかし」を検索すると、「立花孝志」が出てきてしまう。ジャーナリストの立花隆の名も、そう言えば最近聞かなかった。病気だったという話も聞いたような気がする。本名が橘隆志と言うことを今回初めて知った。樹木葬されたという話。
(立花隆)
 僕も当然この人の名前は、1974年の文藝春秋11月号で知った。その「田中角栄研究」はあまりにも細かくてざっと読んだだけだった。よく田中内閣崩壊のきっかけと言われるが、田中角栄本人はむしろ同時掲載の児玉隆也寂しき越山会の女王」で、越山会(田中角栄後援会)の「金庫番」佐藤昭(さとう・あき)の存在が暴露されたことに衝撃を受けたと言われる。「佐藤昭」というから男かと思っていたら、実は女性で子どもまである愛人だった。細かい金の流れを知っているはずで、野党は国会招致を要求した。それに耐えられなかったのだという。立花の指摘した「金権疑惑」については、よく調査して説明すると言って辞任して、その後何の説明もなかった。今に至るも自民党の政治家は同じ行動をしている。

 1976年には同じ文春に「日本共産党の研究」を連載、戦前の日本共産党のスパイ事件やリンチ事件を追求した。当時共産党委員長だった宮本顕治を取り上げたため、共産党は反撃の大キャンペーンを行った。今回も「赤旗」は訃報を報じなかったというから、まだ遺恨があったのか。戦前の共産党の実情は、今となっては大方の関心を呼ばないだろう。ソ連崩壊で多くの文書が公開され、野坂参三が100歳を越えて除名されたりした。様々な闇が存在したのは間違いない。当時「アメリカ性革命報告」という本も書いていたので、そういう退廃的、反道徳的な関心を抱くものが反共文筆家の本質だと書いてる人がいた。当時の左翼のレベルはそんなものである。
(立花隆の若い頃)
 僕にとって一番役立ったのは1975年の「中核vs革マル」。内ゲバ真っ只中で「革労協」分裂の歴史を追究した勇気ある書だ。田中角栄や日本共産党も大敵だが、ホントに襲撃されそうなのはこっちだろう。詳しくは知らなかったことが、この本で理解出来たことは多い。お互い罵り合っていた両派だが、世紀の変わる頃から同じ集会でビラを配ったりしていた。公表されてないけれど、秘密裏に「手打ち」があったらしいと聞いたことがある。当時の大学生には単行本を買う意味があったが、今では特に読みたいと思うテーマでもないだろう。

 こうして政治的テーマを多く扱った70年代から、一方では朝日ジャーナルに「ロッキード裁判傍聴記」を延々と連載しながらも、次第に科学ジャーナリストとして活動することが多くなった。訃報に「知の巨人」と書いたマスコミが多いが、巨人は立花ではなく立花が取材した相手の方である。立花隆は「知的好奇心の巨人」だが、自ら学問したわけではない。最高に面白かったのが「サル学の現在」(1991)で、利根川進博士にインタビューした「精神と物質」は凄いけれど難しかった。読んでない本が多いが、読んだ中では以上の2作がベストだと思う。なお、ジブリのアニメ「耳をすませば」で父親の声をやっている。政治も科学もどんどん変わるので、父花隆の本がどのぐらい読まれ続けるのか、今の僕には判断できない。

 作曲家、作詞家で俳優、タレントとしても活躍した小林亜星が5月30日に死去、88歳。この人はものすごく有名だったが、そう言えば最近全然名前を聞かなかった。その巨体で知られていたが、1974年にそんな小林亜星を「寺内貫太郎一家」(向田邦子脚本)で俳優として起用したのは、演出の久世光彦である。いや、すごい慧眼だった。僕はドラマはちゃんと見てなかったが、評判はすぐに聞こえてきた。そしてクイズなど多くのテレビ番組に出演した。だから誰でも知ってる人だっただろう。
(小林亜星)
 作曲家としては「北の宿から」が一番有名だと思う。あるいは「ピンポンパン体操」。しかし、一番活躍したのはアニメとCMだった。「狼少年ケン」「怪物くん」「ひみつのアッコちゃん」「魔法使いサリー」など皆この人だった。それ以上に凄いのはCMソング。レナウンの「ワンサカ娘」や「イエイエ」に始まり、「この木なんの木」(日立)、「どこまでもゆこう」(ブリジストン)、「ふりむかないで」(ライオン)、「酒は大関こころいき」、サントリーウィスキー各種…。どれもメロディが浮かんでくる。高度成長はいいことばかりではなかったが、それでも「明日の方が良くなる」と信じていられた時代の多幸感が歌に詰まっている。懐かしいな。
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「戦後教科書運動史」を読み、俵義文氏を追悼する

2021年07月08日 22時33分38秒 | 追悼
 2021年6月7日に俵義文氏が亡くなった。80歳。「子どもと教科書全国ネット21」事務局長を長く務め、人生のほとんどを教科書問題に尽力した人である。俵氏には多くの著書、パンフ等があるが、教科書や政治状況は変わってしまうので、今読むのも大変だ。しかし、2020年12月に平凡社新書から「戦後教科書運動史」が刊行された。これは俵氏の集大成的な本だが、出たときには分厚いので敬遠してしまった。(新書ながら400頁を越え、値段も1600円もする。)訃報を聞いて追悼の意味で読んだが、戦前からの教科書の歴史を簡潔に学ぶことが出来る。長くて大変だけど、類書がないので多くの人に一読を勧めたい本だ。

 類書がない第一は教科書労働者の視点で書かれていることだ。僕の場合、教科書問題への関心は「歴史教員」としてだが、俵氏の場合は教科書会社に勤務したことから関わりが始まったのである。僕は教科書会社の労働者の立場から教科書問題を考えたことがなかった。教科書会社で働く人が、文部省(当時)の検定方針に合わせて、どんどん労働強化されていった様は驚くしかない。俵氏が自分の会社だけでなく、採択のライバルである他社の労働組合とも連帯して闘った経過が書かれている。
(俵義文氏)
 俵氏は1965年に起こされた家永三郎氏の教科書訴訟を支援し、その経過を感動的に振り返っている。家永氏は実証主義的な学風で知られる日本思想史家だが、戦争に反対出来なかった自らの過去を厳しく見つめていた。多くの教科書執筆に関わり、そのたびに理不尽な検定に振り回されていた。その内容があまりにもひどいので、教科書検定の違憲違法性を正面から問う裁判を始めたのである。家永氏の提訴した教科書訴訟は、第1次、第2次、第3次と3回あるが、第2次訴訟の判決が1970年7月に最初に出た。(第一次訴訟は検定制度そのものの憲法判断を問題にしたが、第二次訴訟は具体的な検定意見を問題にしたので早く出たのである。)

 その第1審判決(杉本判決)は原告側全面勝訴だった。「教育権は国ではなく、国民にある」と明確に判断して教育行政にも大きな影響を与えた。裁判所に駆けつけた多くの支援者が、判決を聞いていかに感動したか、俵氏は多くのケースを書き留めている。特に杉本裁判長の記者会見の内容は永遠に伝えていくべきものだ。「先生方が困難な環境で教育にあたっておられる。その姿勢は大切にしなくてはならない。(中略)みんなが、国も、われわれも、先生方をバックアップしていくことが大切ではないか。」という言葉は、今こそ傾聴すべきものだろう。

 それにしても、それまでの検定は実にいい加減なもので、戦争の悲惨な面を教えさせないという露骨なホンネが見て取れる。長くなるからここでは触れないが、是非本書で確認して欲しいと思う。教科書訴訟は戦後史の中でも非常に大きく重要な裁判だった。しかし、国の生活保護行政を告発した朝日訴訟は教科書にも載っているのに対し、文部省の検定を訴えた教科書訴訟は載っていない。終結して20年以上経つので、社会科教員でも詳しく知らない人がいるだろう。かつては多くの本が出ていたが、コンパクトに紹介する本書の意義は大きい。こういう裁判があったことも伝えていきたいと思う。
(家永三郎氏)
 教科書訴訟はその後最高裁で検定は合憲という判決になってしまった。しかし、具体的な検定意見には違法があったことが最高裁で確定した。裁判の支援組織を改組して「子どもと教科書全国ネット21」となり、俵氏が事務局長を務めた。そして2000年に長く勤めた教科書会社を定年2年前に早期退職して専従となった。その頃右派勢力「新しい歴史教科書をつくる会」が自ら教科書をつくる動きがあって、その教科書が検定に合格しそうだという段階にあった。これに危機感を覚えて、大きな反対運動を起こす必要を痛感したからである。

 僕もこの「つくる会」には大きな危機感を覚えた。教科書は市販されたが、とても検定に合格できるようなものとは思えなかった。歴史の教員として見逃せないと思って何度か集会にも参加したと思う。そこで俵氏の講演も聞いたが、とても情熱的で判りやすいものだった。2001年の採択では、公立では東京都と愛媛県の養護学校(=当時、現在は特別支援学校)に止まった。まさかその後に東京都が中高一貫校を大量に作り、都立だから都教委が採択する=「つくる会」教科書を説明なく採択するということになるとは思わなかった。そして中高一貫化される最初の学校が、自分の母校(白鴎高校)だったことから、自分もこの問題に直接関わることになった。

 自分のことはここではこれ以上触れないが、本書では今も続く問題の焦点が簡潔に押さえられている。俵氏のエネルギッシュな活動が今も思い浮かぶ。本書で判ることは、右派勢力は戦後ずっと「戦前への回帰」を目論見続けてきたということである。特に1979年に「元号法制化」に成功してから、右派勢力は「日本会議」等にまとまって戦略的に一歩一歩進めてきて、「教育基本法」の改悪、そして最終的には「憲法改正」へとプログラムを持っていることだ。それは「陰謀」ではなく、あからさまに語られていることだ。日本の戦後教育史を左派的な立場で総括した本だけど、立場を越えて読まれる必要がある。これを読んで初めて判ることも多いと思う。まさに今必要な本を最後に残してくれたことに感謝したい。最後は病床でまとめられた貴重な本である。
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ジョン・ネイスン「ニッポン放浪記」、抜群に面白い回想録

2021年07月07日 23時01分51秒 | 〃 (さまざまな本)
 ジョン・ネイスン(John Nathan、1940~)の「ニッポン放浪記」(Living carelessly in Tokyo and Elsewhere: A memoir、2008)を読んだ。こんな面白い同時代メモワールも少ないだろう。特に戦後日本の文壇裏面史として興味深い。前沢浩子訳で岩波書店から2017年に刊行されたが、2800円もするから、地元図書館にあるのを借りてきた。返す前に感想を書いておきたい。

 ジョン・ネイスンは先月見た勅使河原宏監督「サマー・ソルジャー」の脚本を書いた人である。そのことは「サマー・ソルジャー」、脱走米兵のリアルー勅使河原宏監督の映画②で書いた。この映画は前に見ているし、三島由紀夫の評伝が未亡人の怒りを買ったという話も覚えている。だから前に名前を聞いてたはずだが、どんな人だか意識したことはなかった。読んでみたら、60年代の日本文学に関する実に面白い話が満載だったけれど、それだけではなかった。ライシャワードナルド・キーンを継ぐ屈指の日本研究者になることもできたのに、様々なことにチャレンジし人生が迷走する。ある意味では「失意と断念の人生」を送った人だった。
(ジョン・ネイスン)
 例えばプリンストン大学の終身教授だったのに、映画界に進出したくて退職してしまう。日本人の妻とアメリカに暮らしていたが、幼い子どもが生まれたばかりなのに、大みそかにドラッグパーティに出かけてしまう。この本では、あの日が自分の人生の分岐点だったと後悔している。しかし、それはほとんどの人の人生に起こることだろう。顧みて一筋の道をたゆまずに歩んできた、なんて人の方が珍しい。それにそういう人生には飽き足らないのがネイスンという人である。だからこそ、ニューヨーク育ちのユダヤ人が日本語を学んだのである。漢字を見て興味を持ったのだという。そしてハーバード大学でライシャワーの講義を受けた。

 1961年に初めて来日した。津田塾大学で講師をする話が面白い。延々と電車とバスに乗って(郊外の小平市にある)、若い女子大生の真っただ中へ。当時独身の外国人講師は初めてだったそうで、大学当局は心配だった。ネイスンは英語劇でシェークスピアを指導する。彼によれば、皆熱心でヴァッサー女子大(現在は共学)と遜色ないレベルになった。もちろん彼に熱を上げる学生も出てくる。悩みも多かったが、60年代はまだ「性の解放」以前である。翌年になって、ある学生から「美人でボヘミアン」の高校時代の友人に会ってみないかと誘われた。それが東京芸大で美術を学んでいた小田まゆみだった。結婚を考えるようになるが、母親が大反対。そこで日本大使だったライシャワー夫妻に一緒に会って貰う。そして何とか結婚できたのだった。

 最初にこの結婚の行く末を書いてしまうと、ネイスンはその後東大初の外国人学士入学生になった。妻とともに青春を楽しむが、やがて徴兵を逃れるためにもアメリカの大学へ戻らなくてはならなくなる。アメリカで二人の男の子が生まれるが、60年代の疾風怒濤の中で二人に間にもすきま風が吹くようになり、やがて結婚は破綻した。小田まゆみはニューヨークで美術家として認められ、やがてハワイに移って広大な「ジンジャーヒルファーム」というアートやヒーリングの場を作り、環境運動家、平和運動家としても活躍している。「女神」をモチーフに創作を続け、「日本のマチス」とも呼ばれているという。ホームページがあって作品が見られる。
 (小田まゆみと「女神」の一作品) 
 ネイスンに戻ると、若くして三島由紀夫の「午後の曳航」の翻訳者に選ばれ、三島に気に入られた。第3章は「三島由紀夫」で交流の模様が描かれる。三島は次に「絹と明察」を翻訳して欲しい、ノーベル賞を取る手助けをして欲しいと言われる。しかし、実はその時には他に翻訳したい本があった。大江健三郎の「個人的な体験」で、第4章が「大江健三郎」。大江は当時安部公房と親しく、ネイスンも二人と会うようになり大きな影響を受けた。「個人的な体験」は大江健三郎の初の翻訳で、名訳と言われている。ノーベル賞対象作でもあり、ノーベル委員会は英語で読むわけだからネイスンの貢献は大きかった。(しかし、その後ネイスンは大江と離れてしまい、ストックホルムのノーベル賞授賞式で10年ぶりで会うことになる。)
(英訳「個人的な体験」)
 こうして書いていくと長くなるので先を急ぐ。三島に言われてネイスンが「新派」の舞台に立ったことがある。「唐人お吉」で水谷八重子(初代)を相手にハリスを演じた。ネイスンには学者や翻訳家に止まらず、自ら表現者になりたい意欲が強かった。どこも出版してくれない小説を何作か書いて自費出版したりしている。そういう中で「個人的な体験」を映画化する話が持ち上がり、ネイスンがシナリオを書いた。監督に安部公房とのつながりで知っていた勅使河原宏が選ばれる。「砂の女」の評価が高かったのである。しかし、資金が集まらず企画が迷走、残念ながら中止になった。

 そして代わりにベトナム戦争からの脱走米兵を描く映画製作の話が持ち上がった。それが「サマー・ソルジャー」だったのである。シナリオも映画製作も苦労するが、何とか製作されたものの日米ともにあまり大きな評価を得られなかった。シナリオに協力した鶴見良行を「最左翼の歴史家」などと書いてある。(鶴見良行が「最左翼」なら、大江健三郎は何というべきか。)勅使河原は安部公房原作の映画のように「アイデンティティを失った現代人」を描きたかったが、ネイスンはもっとドキュメンタリー的に作りたかったらしい。この作品のネイスンは事実上の「共同監督」だったという。この映画で日本の映画人と親しくなって、それが後の仕事につながった。
(「サマー・ソルジャー」関係者と岩国錦帯橋で)
 「サマー・ソルジャー」撮影終了後にソウル・ベロー(1976年ノーベル文学賞受賞)が来日し、ネイスンは米大使館からガイドを頼まれた。ベローの日本滞在時の行動は感心しないが、それでも何とか過ごしていた。そしてベローはネイスンを「最良のスコーの夫」だと評した。「スコー」が判らなかったので尋ねたところ、「裕福だが自信を持てない東部の御曹司が、自分が特別な人間だと思うためにインディアンの女性と結婚して保留地で暮らす」、そんな男のことだという。ベローがそんな差別的人間だとは思わなかった。ベローも余計なことを言ったものだ。これがネイスンの心に刺さった。つまり「異国情緒」ではない仕事をして認められたいと思って、ネイスンは日本を離れるのである。日本文学だってもちろん「世界」につながっていたというのに。
(「他人の顔」撮影中に安部公房と)
 以後映画会社を作って、一時は「金まみれ」のバブルを経験する。映画と言っても結局ハリウッドで脚本家になれず(それでもカリフォルニアに住んでコッポラやルーカスにも会ってる)、ビジネス用のビデオやテレビ向けのドキュメンタリーを作ったのである。ケンタッキーフライドチキンの日本進出を追った映画はエミー賞を得た。また朝倉彫塑館前にあって朝倉文夫に弁当を毎日届けていた仕出し屋を描く「フルムーン・ランチ」(満月弁当の英語題)も賞を取った。勝新太郎のドキュメントも作って、「シナトラ一家」みたいな勝の取り巻きが興味深い。そしてソニーの歴史を撮ることになった。(後に本もまとめている。)なかなか活躍しているけれど、結局は皆日本絡みではないか。日本企業の世界進出があって、ネイスンの出番もあった。そして会社はやがて破綻し、再婚して二人の子があったので、カリフォルニア大学サンタバーバラ校に職を得たのである。
(勝新太郎と)
 ネイスンが望んだ穏やかな人生は現実には実現しなかった。むしろ別れた妻がハワイで心の平安を見つけたのかもしれない。若くして三島、安部、大江ら世界文学の巨匠と知己となったのだから、彼らの翻訳と研究だけでも世界トップの研究者となれたと思う。しかし、もしそういう「日本学者」として高く評価されても、自分は作家や映画脚本家として世界に知られたかもしれないのに、一生を翻訳と研究で費やしてしまったとネイスンは思ったに違いない。人間の気質的な部分は変えられず、ネイスンは苦い人生を送ったに違いない。途中から「この人の人生は楽しいけれど、苦い」と判ってくる。前半の青春の輝きが失せていく。でも一緒にお酒を飲むと楽しそうだし、実にたくさんの人物が綺羅星のごとく点描される。実に面白い読書体験だった。
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勝者なき都議選ー2021東京都議会選挙

2021年07月06日 23時06分20秒 |  〃  (選挙)
 2021年7月4日に東京都議会議員選挙が行われた。結果をどう考えるかは悩ましい問題だが、まず投票率が低かったことを取り上げたい。前回(2017年)の51.28%から、今回は42.39%に下がった。区部では港区の33.78%を最低に、中央、渋谷、江戸川が30%台になった。多摩地区でも立川、青梅、府中、昭島、福生、羽村、あきる野、武蔵村山、東久留米等で3割台で、最低は瑞穂町の31.23%。地方議員選挙は一般的に投票率が低くなりがちで、コロナ禍で選挙運動が全般的に低調だったから、僕も低投票率を予想していた。東京は数日間梅雨寒が続いていて、当日も小雨が降り続いていた。そのような様々な事情があったとしても、3人に一人しか選挙に行かないというのは危機的な状況ではないか。
(都議会選挙の結果)
 いつもなら東京の新聞は翌朝トップで都議選の結果を報じるが、今回は熱海市で発生した大規模な土石流がトップ記事だった。その横でおおよそは「自公で過半数ならず」を見出しにするところが多い。大方の事前予想では、「都民ファーストの会」が大幅に落ち込む見込みで、自民党は良ければ50台に届くかも、全員当選で23議席の公明党と合わせれば、過半数の64議席(定数は127議席)は堅いと思われていた。自民党は結局33議席で、第一党にはなったものの公明党と合わせても56議席に止まった。都民ファーストの会は31議席で、現有議席から15も減らした。しかし悪くすれば一ケタという予測もあったのだから、健闘したという評価も出来る。

 公明党は何とか全員の23人が当選したが、かなり厳しく最後に滑り込んだ選挙区もいくつかあった。出口調査では数議席は危ないと出ていたが、これは公明党支持者に期日前投票の利用者が多いことを考えると、そんなに落ちるとは思わなかった。低投票率による当選ラインの低下に助けられた要因が大きいと思うが、総選挙に向けて厳しい状況だろう。なお、公明党の総得票数は63万票ほどで、前回の73万票から10万票減らしている。
(日本テレビ系の出口調査)
 一方、共産党は19議席と1議席増となった。堅調な選挙区もあるが、細かく見れば全都で勢いがあったとまでは言えない。立憲民主と選挙区調整を行ったこともあるが、総得票数は前回の77万から63万に減らしている。立憲民主党は15議席で、8議席増となった。しかし、都議会第5党でかつて民主党時代に都議会第一党、第二党だった頃の勢いを取り戻したとは言えない。各選挙区を見ると共産がトップ(新宿、文京、大田)、立憲民主がトップ(中野、立川、三鷹)などもあるが、ほとんどのところでは都民ファーストの会の方が上になっている。

 7つある1人区を見てみる。常に自民党が勝つ島部を除くと、残りは好調な党派が独占することが多かった。2009年は民主党、2013年は自民党、2017年は都民ファーストの会である。しかし、今回は都民ファーストの会=3(千代田、青梅、昭島)、自民=2(中央、島部)、立憲民主=1(武蔵野)、無所属(立憲民主、共産等の支持)=1(小金井)で、見事に各勢力で分け合っている。なお、無所属が4人当選しているが、小金井は今見たように国政野党系の共闘、品川、江戸川、府中は都民ファーストの会の離党組である。
(2009,2013,2017年の都議選結果)
 自民党は「それなりに底堅い」とは言うものの、中野、豊島などでは3人区の中で4番目に落ち込んだ。品川、目黒のような複数擁立の共倒れもあるが、他の複数擁立区では江東、板橋、葛飾、江戸川などで僅差で一人が落選した。(中野、豊島では2千票差ぐらいで落選したが、3位の当選候補はいずれも公明党だった。もう少し投票率が高かったら自民と公明が入れ替わったのかもしれない。)自民党は選挙戦略だけとは言えない「不人気」があったように思われる。菅内閣の支持率が低い以上当然とも言えるが、選挙中の「ワクチン職域接種の受付中止」が影響したとも言われる。それとともに小池知事の入院、それを「自業自得」と評した麻生財務相発言が「都民ファースト支援効果」になった可能性が高いと思う。自民党の「自業自得」である。

 「都民ファーストの会」は小池知事が最終日に演説はしないながら応援に入った。これは僕の予想通りで、減りすぎては困るということだろう。自公で過半数を取れず、議長をどこが出すか(常識的には第一党の自民党)、今後の都議会も混乱が予想されるが、自公で過半数となるのは知事として困るということだろう。都民ファースト現職が男女で複数いた選挙区では、世田谷、足立のように女性候補しか再選されなかったところがある。小池知事支持の女性票(恐らく中高年)があるのではないか。ただ八王子のように自民二人が当選して、都民ファーストの現職2人が共倒れしたところもある。今回の結果は一概には言えない。

 共産党立憲民主党は「棲み分け効果」を一定程度発揮したが、反政権票の受け皿として総選挙に弾みが付いたとまでは言えない。前から強かったところで底堅いが、新たな勢いがあるという感じはしなかった。それでも「議席を増やした」ところに注目すれば健闘なのかとも思うが、政権奪取の見通しは難しい。僕が困ったなと思ったのは、立憲民主党が「五輪を中止・延期させる最後の機会」などと呼びかけていたことである。正直言って、もうこう言うのは止めて欲しいと思う。都議会に中止させられる権限があるとは思えないし、あったとしても時間が遅いだろう。

 そういう問題もあるが、今回立憲民主の立候補者は全部で28名しかいない。中止を求めている共産党は全部で31名の立候補だった。島部のように絶対当選できない選挙区も含めてである。もし全員が当選したとしても全部で59名だから過半数に達しない。都議会で「五輪中止派」が過半数を取れないことが事前に判っているのに、どうして都議選で五輪を中止出来るのか。都民ファーストは「無観客開催」を主張していたので、東京新聞は共産、立民と合わせて「五輪見直し派が過半数」と報じている。これはどう見ても「牽強付会」と言うべきだろう。「自民・公明・都民ファースト」で「開催支持派が過半数」と言うならまだ判るけれど。「中止」と「無観客」を同等に見るのは論理的に無理だ。データを自分の見たいように読むのは止めたいと思う。
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感動的な「デニス・ホー ビカミング・ザ・ソング」

2021年07月05日 20時48分47秒 |  〃  (新作外国映画)
 デニス・ホー(何韻詩、1977~)と言われても知らなかった。香港を代表するポップスターだという。僕は香港の映画や音楽に詳しくない。デニス・ホーは映画や舞台でもずいぶん活躍していたようだが、やはり一番は歌手として中華圏を代表する活躍をしていた。「デニス・ホー ビカミング・ザ・ソング」はそんなデニス・ホーの歌手人生が転変していく様を彼女に密着しながら描き出す感動的な記録映画である。作ったのはスー・ウィリアムズという監督で、デニス・ホーと2017年に出会って絶大な信頼を得て映画を作ったという。

 大歌手・女優のアニタ・ムイの影響を受け、2003年にアニタが子宮頸がんに亡くなると大きなショックを受ける。しかし、そんな中でも素晴らしい音楽を作って大陸でも多くのファンを獲得した。しかし、デニス・ホーはそこに止まらなかった。2012年にLGBTパレードに参加し、その会場で自らレズビアンであることを告白した。そして2014年に起こった「雨傘運動」にも参加、香港の自由を守るために立ちあがったのである。運動の中で逮捕されたこともあるが、自ら一番最後に釈放されることを望む。知名度のある自分が最初に釈放されると残った人がどうなるか心配だから最後まで残ったのである。
(一時逮捕されたことも)
 しかし、そんなデニス・ホーは以後大陸での活動が不可能になった。それどころか大手会社との契約も更新されず、インディーズとして活動していくしかなくなった。収入は9割減となったが、それでも自主的にコンサートを開くとチケットはあっという間に売り切れた。コンサート前のメイクも自分ですることになる。そして2019年の「逃亡犯条例」に反対する大デモにも加わり、国連人権委でも証言する。何故か日本の報道ではデニス・ホーの名前を聞かなかった気がするが、このような人がいたんだ。自分にとって「自由」な道を歩んで行って、「不自由」ながらも得られた「精神の自由」。そこで歌われる名曲の数々は感動的で圧倒される。
(自分自身の道を探し求めていたと語るデニス・ホー)
 香港の政治的な困難を考えるための映画であり、LGBT問題を考える映画でもある。しかし、そういう問題を考える映画という以上に、素晴らしい音楽ドキュメンタリーだった。そしてさらに「自分自身の道」を探し求める映画でもある。必見の感動作だが、東京ではシアター・イメージフォーラムでの朝一回だけ。渋谷からも表参道からも遠いので、大雨や猛暑の日は行きたくない。朝早く行くのも大変だと思っているうちに上映1ヶ月を過ぎた。各地ではこれから上映されるとことが多い。大学生など若い人に是非見て欲しい映画だ。
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木下恵介監督の「この天の虹」、50年代の八幡製鉄所

2021年07月03日 23時27分16秒 |  〃  (旧作日本映画)
 神保町シアターで木下恵介監督の「この天の虹」(1958)という映画を見た。もう上映は終わっているのだが、記録しておきたい。木下作品の中でも上映機会が少なく、今回初めて見た。傑作を発見したわけではなく、むしろ時の経過に伴って「トンデモ映画」化していると思う。日本が本格的に高度成長する直前をタイムカプセルに詰めたような映画だった。1901年に作られた官営八幡製鉄所を受け継ぐ1958年の八幡製鉄所のすべてを描くような映画で、「映像考現学」的な価値がある。
(この天の虹)
 「この天の虹」という題名はなんだろうと思うと、製鉄所から出る七色の煙を虹とみなすということだった。カラー映画で本当に色の付いた煙が出ている。しかし、これはまずいでしょ、公害でしょ、色が付いてる煙なんておかしいと思ったが、当時の労働者はその虹を誇りに思っているというトーンで映画が進行する。冒頭から5分程度はドラマに入らず、工場見学である。溶鉱炉の作業がきちんと紹介されていく。これは記録的価値が高いと思うが、劇映画としてはどうなんだろうか。ところどころで、登場人物が山に登って八幡全景を見下ろすが、その煤煙の様子を今では肯定的に見ることが難しい。
(映画の中に出て来る八幡全景)
 映画の本筋に入る前に解説しておくと、八幡(やはた)は映画製作当時は一つの市だった。1963年2月10日に小倉門司戸畑若松と対等合併して北九州市となった。県庁所在地以外で初の政令指定都市だった。今は八幡東区、八幡西区に分かれている。官営八幡製鉄所は1934年に民営化されて「日本製鐵」となった。戦後の1950年に八幡製鉄富士製鉄分割されたが、1970年に合併が認められ「新日本製鐵」となった。2012年に住友金属と合併し「新日鐵住金」、2019年4月1日に名称変更して再び「日本製鉄」と改名した。120年の歴史の中で20年しかなかった「八幡製鉄」時代の工場や労働者の生活が映画に残されている。

 笠智衆田中絹代が演じる影山という夫婦のアパート(社宅)に、相良修高橋貞二)とその母(浦辺粂子)が仲人を頼みに来る。今では仲人を頼むとしても、結婚が決まった後のことだろう。しかし、この映画ではまず結婚の申し込みを仲人に頼むのである。相手は帯田千恵久我美子)である。影山、相良、帯田の父(織田政雄)と兄(大木実)は皆現場の工員だけど、千恵は秘書課に務める事務員である。千恵の母親は(夫と息子も同じなのに)工員風情に嫁にやれるかといって断る。断られるのは相良も覚悟の上なのだが、思いが募って申し込みだけはしたいと思ったのである。彼は職員旅行で京都・奈良を訪ねた時に千恵を見初めたのである。

 千恵は大学出の有望な若手職員町村田村高廣)と一緒にダンスホールへ行って踊ったりしている。千恵は結婚したいらしいが、町村にはまだそんな気がしないらしい。興味深いのは独身寮があるのに、町村は下宿していること。下宿先の奥さん(小林トシ子)は町村を好きになってアタックしている。一方、影山家にも下宿人がいて、須田川津裕介)は相良を先輩として慕っていて、千恵が結婚を断った話を聞いてしまい怒ってしまう。そんな時に影山家の一人息子(小坂一也)が仕事を辞めて帰ってきてしまう。彼は身体的条件で八幡製鉄を受けられず、須田たち工員になれた人はうらやましいと言う。しかし、須田は毎日同じような仕事が続く仕事に飽きている。そんな中で相良先輩の恋が実ることだけが希望だったのである。
(職員食堂の千恵)
 ここで判ることは、製鉄所には「職員」「工員」「工員以下」という紛れもない「身分差別」があったのである。それは当たり前すぎて誰も相対化出来ないぐらい身に染みついている。工員たちは「恵まれた社宅アパート」に住んでいる。それは今見ると驚くほど狭くて、とても恵まれていると思えないが、当時としては「社員の特権」だったのだ。しかし、当然「定年退職」の後には出なくてはならない。だから下宿人を置いたりしているんだろう。職員と工員の「文化格差」を象徴するのは、カレーライスの食べ方だ。相良は須田と出掛けた時にカレーライスにソース(つまり食堂に置いてあるウスターソースを)ジャブジャブ掛ける。須田はそういう食べ方は田舎者の食べ方だと千恵が言っていたと注意する。いやあ、昔はソースを掛けて食べる人がいたのか。

 有望社員である町村には部長が姪と会ってみないかと勧めてくる。実質上の見合いは毎年会社が夏に開く「水上カーニバル」。会社の福利厚生事業で行われるフェスティバルらしい。そこで姪(高千穂ひづる)と会ってみるが、ピンと来ないで抜け出してしまう。翌日姪と一緒に河内ダムにドライブする。これは八幡製鉄所の工業用水を確保するためのダム湖なんだという。そこにレクリエーションセンターという建物がある。ここはアントニン・レーモンド(帝国ホテル建設時にライトに付いてきて、日本で日光のイタリア大使館別荘や東京女子大本館など多くの建物を設計した人)が設計したと解説される。この建物は今は西南女子大というところが所有するが「廃墟」化しているらしい。そこで姪も見合いと思わず来たと告げる。
(レーモンド設計のレクリエーションセンター)
 町村はブラジル行きがほぼ決まっているが、それを千恵には告げていない。しかし、町村は今になって千恵が結婚相手にふさわしいと思う。一方、相良の申し込みを何故断ったのかと須田が乗り込んできて、千恵を責め立てる。まあ、その後も多少のすったもんだが続くのだが、もういいだろう。「結婚相手をどう決めるのか」という小津安二郎的テーマが語られるんだけど、小津の映画では初めから同じ階層どうしの結びつきが前提になっている。しかし「この天の虹」では八幡製鉄所をめぐる重層的な階級関係が語られている。しかし、いくら何でも「仲人を立てて打診をする」なんて当時としてもおかしくはないか。上司のお膳立てじゃなくて、自分が好きになったんだから。そこが「50年代」であって、すでに「太陽族映画」はあったけれど実情はそんなものだったのか。

 この映画では溶鉱炉や社宅以外に社員用病院、社員用スーパーマーケット、社員食堂などが紹介される。時々公園に行って町の全景を見せる。劇映画としてはマイナスだろうが、記録的価値を高めている。当時の結婚や仕事に関する考え方も今では興味深い。ブラジルに行くというのは、ベロオリゾンテに合弁で作られたウジミナス製鉄のことで、今もブラジル2位の製鉄会社となっている。木下恵介はものすごい多作で作風も多彩だから、まだ見てない映画が何本かある。「二十四の瞳」「喜びも悲しみも幾年月」などで知られるが、感涙映画ではないシビアな映画にも傑作が多い。なお、主演の一人相良を演じた高橋貞二は戦後の松竹で佐田啓二、鶴田浩二と並ぶ「松竹三羽烏」と言われ、50年代の松竹映画では活躍していた。1959年11月に飲酒運転でベンツを横浜市電に衝突させて亡くなった。今では古い映画を見る人しか知らないだろうが、惜しい人だった。
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国家を越えられない「共産党」ー中国共産党100年を考える②

2021年07月02日 22時55分55秒 |  〃  (国際問題)
 1回目は文化大革命まで書くつもりが途中で終わってしまった。「栄光と悲惨」の悲惨まで行けなかった。僕が幼い頃には中華人民共和国は「文化大革命」の真っ最中で、「紅衛兵」のニュースが新聞やテレビにあふれていた。「紅衛兵」は「毛主席語録」を手に掲げながら「造反有理」を主張して革命の最前線に立っていた。というか、そういう風に見えていた。だから、ある種「カッコいい」存在に見えたのは間違いない。「紅衛兵」がいかにとんでもない暴力を振るって、知識人を圧迫して殺したか。党内の抗争に利用されて、殺しあったか。それどころか、「紅衛兵」の中にも身分差別が横行していたか。そういうことを僕はまだ知らなかったのである。
(毛主席語録を掲げる紅衛兵)
 僕はその「毛主席語録」を中学生の時に読んでみたことがある。別に少年マオイストだったわけではなく、単に世界中で評判になっていたから、どんなものか知りたかったのである。日本でも本屋の店頭に並んでいて、「赤尾の豆単」をもう少し小さくした程度だから中学生にも買える値段。しかし、これは全く面白くない本だった。まあ抗日戦争期の延安で行われた講話は、戦時中だから割り引いて読むべきかもしれないが、まったく「自由」とか「人権」という発想がないのである。こっちも何も判ってないけれど、この世界では生きていけないと直感させるものがあった。
(毛主席語録)
 今になってみると、中国共産党は中華人民共和国建国以来、権力争いに明け暮れていた。文化大革命だけが間違っていたのではなく、50年代の「反右派闘争」こそ最大の誤りだった。その時期の「大躍進」政策で数千万人が餓死したと言われる。1959年に開かれた廬山会議で毛沢東を批判して解任された彭徳懐国防部長の方が正しかった。彭徳懐がいかに硬骨漢だったか、「彭徳懐自述」という自伝が残されている。しかし、そのような「悲惨」をもたらした最大要因は何なのだろうか。毛沢東の独走を止められなかったのは、「共産主義」に原因があるのか。それとも中国の歴史的、政治的、文化的要因によって毛沢東が事実上の「皇帝」になったからだろうか。

 この「中国共産党の統治」は事実上中国史に続く「皇帝政治」なのだと言う人はかなりいる。初代皇帝が毛沢東で「建国」をした。二代皇帝が鄧小平で「改革開放」で強国への道を開いた。そして第三代皇帝を目指しているのが習近平だという理解になる。ソ連が崩壊してロシアになっても、結局プーチンの独裁みたいな政治が続くわけだから、結局は「歴史的伝統」の方が強いという考え方も一理ある。僕にははっきりとした結論が出せない。ソ連だけでなく世界中のどこでも、「社会主義」を目指す党が権力を握った後で起こったのは「伝統的国家主義」への転向のようなものだった。
(1978年10月に来日した鄧小平)
 本来マルクス主義では共産主義社会では「国家の廃絶」が実現するはずだった。共産主義と言えば「インターナショナル」のはずだ。国際的な階級的連帯を誇っていたはずが、現実には中国共産党が典型だが「愛国」を呼号している。「愛国」の名の下に異論を封じている。これは「共産党」なのだろうか。しかし、共産党(系の政党)が今も政権を握る中国、ヴェトナム、朝鮮、キューバなどでは、そもそも帝国主義時代には「国家」がなかった、あるいは事実上の植民地だった。共産党が権力を握ることによって、世界史の中で初めて本格的な「国民国家」を創設できたのだった。

 「共産主義」というのは、非圧迫民族が国家を作り「富国強兵」を実現するためのイデオロギーとして一番機能するということだろうか。だがそれは「共産主義」と言えるのだろうか。いや、別に定義の問題には関心がなく、「これは本当の共産主義ではない」とか言う気はない。ただ言葉の正確な意味として、「市場経済」を進め株式市場が存在する中国は「資本主義」だろう。名前は「共産党」だけど、共産主義革命を進める前衛政党ではなく、経済発展を進める「愛国政党」、つまり日本で言えば自由民主党みたいな政党になっていると思う。中国の現段階は「国家独占資本主義」に近く、このままでは「内在的な要因」による「破滅」、まあ日本の「バブル崩壊」のようなものを避けられないのではないか。

 ただし、中国の方が用心深く、強権的で、最後には人民に武器を使用する「唯銃主義」を発動できる。ここまで大きくなった中国経済が「崩壊」したときの世界的な影響は計り知れない。残された問題は「戸籍差別」「ジェンダー」「格差」だろう。中国を支配する共産党の最高指導部、それは中央政治局常務委員会である。現在は7人いるが全員男性。それどころか歴代で女性は一人もいない。閣僚や報道官には女性も起用されるが、本当の奥の院は「女人禁制」なのか。昔の日本には「中国には公害問題はなく、女性差別もない」などと大真面目に主張している人がいたのである。共産党が何でも解決したと本気で思い込んでる人がいた。革命幻想が消えてみれば、中国共産党は国家主義政党になったと思う。
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栄光と悲惨の百年ー中国共産党100年を考える①

2021年07月01日 22時46分34秒 |  〃  (国際問題)
 2021年7月1日に、中国共産党結党100周年の祝賀集会が北京の天安門広場で行われた。そうするとまるで1921年7月1日に結党されたように思ってしまうけれど、中国共産党第一次全国代表大会(と今呼ばれている秘密集会)は7月23日から31日にかけて行われた。公開で開ける集会ではないから、上海のフランス租界にあった党員の自宅で開かれた。初代の委員長に陳独秀が選ばれたが、大会には出席していない。当初のメンバーには日本への留学経験者が多かったが、留学体験のない毛沢東も長沙代表として出席していた。各省の代表13名に加えて、コミンテルンの代表2人も出席していた。当時において、共産党を結成するというのは、ソ連が指導する国際共産主義運動の一国支部を作ると言うことだった。
(結党100年祝賀集会)
 うっかり勘違いしている人もいるかもしれないが、中国は「中国共産党の独裁」だけれども、「中国共産党の一党独裁」ではない。「人民共和国」だから(つまり「社会主義共和国」ではない段階だから)、共産党と協力関係にある「民主党派」が存在する。共産党と民主諸党派は「全国人民政治協商会議」というのを開いて、政治的な重要決定を行うことになっている。民主党派というのは、中国国民党革命委員会、中国民主同盟、中国民主建国会など全部で8つある。僕が不思議なのは、タテマエとは言え未だそれらの党派は存続していることだ。革命前の段階ならともかく、現在ではそんな党派に入るよりも、みんな共産党に入党したいだろうに。

 習近平指導部になって、2018年の憲法改正で「中国共産党の指導は、中国式社会主義の最も本質的な特徴である」とされた。この「共産党の指導性」は、実はそれまでは憲法上明記されていなかった。この問題は単なるタテマエ上の問題ではないと思う。中華人民共和国が中国共産党の指導の下、いかに素晴らしい経済成長を遂げたとしても(「社会主義市場経済」が成果を挙げたとしても)、「台湾省」が「未解放」のままでは「社会主義段階に到達した」とは宣言出来ないだろう。習近平体制が国家主席として3期目に入るとするならば、「台湾問題」が解決すべき重大問題として浮上するのは間違いない。それがどういうものかは安易な想定は出来ないが。
(祝賀集会で演説する習近平主席)
 ところで中国共産党の100年をどう考えるべきだろうか。本来ならマルクス主義では高度に発達した資本主義国家で、資本主義の矛盾が最高度に達して革命が起きるはずだった。しかし、現実に起きた社会主義革命は、遅れた農業国や植民地にされた地域が多かった。ロシア自体がヨーロッパでは遅れた国家で、第一次世界大戦に事実上敗北する中でロシア社会民主労働党(多数派)のクーデタが起こったのである。1922年にロシアを中心に「ソヴィエト社会主義共和国連邦」が出来た。ソ連は世界革命を目指し各国の共産党を「指導」した。それは「事実上の命令」関係で、中国共産党もその例の一つである。そして間違った指導で、多くの混乱が起こり指導部は絶えざる抗争と分裂が起こった。1935年の遵義会議毛沢東の指導が確立し、真の意味での中国共産党結党はその時点だろう。
(共産党の「長征」)
 何で中国共産党が政権を獲得できたのか。それは「抗日戦争」があったからだ。日本の侵略に対して、国民党と合作して抵抗するという方針を打ち出したことで都市知識層・学生らの支持を集めた。また規律正しい軍隊が農民の支持を集めた。日本の兵隊の残した記録では、敵としては「八路軍」(「新四軍」もあったが、日本兵はまとめて「パーロ」と呼んだ)が恐ろしいと認識されていた。日本軍が「点と線」しか支配できない中、共産党系の支持が広がっていった。特に華北で共産党の根拠地が多く作られたが、それは長いこと掛けて日本軍が「満州国」に隣接した華北の国民党勢力を弱体化させていったのだから当然だろう。(しかし、南部では米軍の援助を受けた国民党軍の戦闘力も侮れず、今まで国民党の抵抗が軽視されてきた部分もあると思う。)
(1949年に中華人民共和国建国を宣言する毛沢東)
 日本の敗戦後は「満州国」にソ連が侵攻して、そのまま支配した。事実上共産党の「根拠地」がソ連の軍事力で作られたのと同じである。これが共産党が内戦に勝利した最大要因だろう。結局日本軍が中国革命をもたらしたのである。この歴史のアイロニーを理解せず、「歴史認識」問題を起こして中国共産党を「支援」する「保守派」が日本にはいっぱいいる。そういう「保守派」が中国を批判しても、中国にとっては追い風みたいなもんだろう。「抗日戦争」に勝利したことが、中国共産党の最大の存在価値となっているのである。そして成立した中華人民共和国は「中華人民」にとって何だったのだろうか。毛沢東なくして革命はならなかったが、毛沢東が最高指導者だったために何億人が無惨な死を迎えたことだろう。(続く)
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