「教員免許更新制」を文科省が廃止しようとしても、「夫婦別姓」のように自民党内の反対で頓挫することはないのだろうか。前回最後にそう書いた。「夫婦別姓」は世界中の国でそうなっているのだから、日本だけ取り入れない大きな利点がないとおかしい。しかし、日本の「保守派」は「夫婦同姓」であることに「イデオロギー的価値」を見出している。だから「イデオロギー的原理主義」の立場から、絶対反対を主張するわけである。
「教員免許更新制」も教育政策上の費用対効果を考えて、あまり存在意義がないならば廃止すればいいだろうと常識的には思う。しかし、この更新制はどのような目的で成立したのだろうか。教育を良くしようと思って、やってみたら思ったような効果がなかったといったものなのだろうか。僕はそうではないと思う。むしろ学校に大きな損害を与えるとしても、「イデオロギー的価値」のもとに実施されたものなのではないだろうか。
ここに一つの資料がある。先に読んだ俵義文「戦後教科書運動史」に引用されていた安倍晋三前首相の講演である。日本教育再生機構の機関誌「教育再生」の2012年4月号、つまり民主党から政権を奪取し第2次安倍政権が成立した直後に掲載されたものである。ちょっと長くなるが引用する。
教育基本法を改正したこについてですが、日本が占領時代に様々な法律や体制が作られー憲法も旧・教育基本法もそうですー、戦後、この長く続いてきた体制や精神を含めて、私は「戦後レジーム(旧体制)」とよんでいますが、この「戦後レジーム」から脱却しなければ、日本の真の独立はありえないというのが私の信念です。(中略)旧い教育基本法は立派なことも書いてますが、日本の教育基本法でありながら日本国民の法律のようには見えません。日本の「香り」が全くしないのです。まるで「地球市民」を作るような内容でした。(中略)
しかし、新・教育基本法では、人格の完成とともに日本のアイデンティティを備えた国民を作ることを「教育の目標」を掲げています。その一丁目一番地に「道徳心を培う」と書きました。伝統と文化を尊重し、郷土愛、愛国心を培うことを書きました。関連法も改正し、教員免許更新制や、指導が不適切な教員の免職を含めた人事の厳格化も行い、頑張った先生が評価される「メリハリのある人事評価」を目ざしました。主幹教諭・指導教諭を付けて、校長・教頭だけだった管理職も増やしました。
「教育再生」は安倍政権の教育政策のキーワードである。第一次安倍政権では「教育再生会議」が設置され、第二安倍政権で「教育再生実行会議」が設置された。その「教育再生会議」を調べてみると、最終報告(2008年1月31日、すでに福田康夫内閣になっていた)で「教員の質の向上」の中で「教員免許更新制、教員評価、指導力不足認定、分限の厳格化、メリハリある教員給与(部活動手当の引上げ、副校長、主幹教諭の処遇など)」と書かれている。教員免許更新制そのものは、2007年6月に第1次安倍内閣で教育職員免許法の改正が実現していた。上記の他の点も東京都では他府県に先駆けて実働化していたものが多い。
(第2次安倍内閣で設置された「教育再生実行会議」)
「教育再生会議」の最終報告は、引用した講演で安倍氏が自分の業績として挙げているものばかりである。そして「教員免許更新制」は「教員評価」(校長による勤務評定)や「教員の階層化」と同列に置かれている。つまり教員の「分断」政策の一環だったということがよく判る。どうして教員を「分断」する必要があるのか。それも上記講演で判るだろう。児童・生徒に「愛国心」を培い、「世界市民」ではない「日本のアイデンティティを備えた国民を作る」ためには、「人事の厳格化」が必要なのである。そして第二次安倍政権で作られた「教育再生実行会議」では「道徳の教科化」が行われた。
先の講演が掲載された「教育再生」という雑誌は、日本教育再生機構が出していた。これは「新しい歴史教科書をつくる会」が各地の教科書採択で苦戦する中で、「右派的色彩が強すぎるから」として内部対立が起こり、2006年に分裂して出来た組織である。安倍氏のブレーンとして知られる八木秀次氏らが作って、育鵬社(産経新聞の子会社扶桑社の、教科書発行のために作った子会社)から教科書を発行している。自民党が野党だった時代にも安倍氏を支え、2012年2月には大阪で安倍氏、八木氏と当時大阪府知事の松井一郎氏がシンポジウムを行った。その時のシンポでは「地域の再生は教育再生から」と大きく書かれている。
(2012年2月の大阪集会)
「再生」という言葉は、今はダメだけど昔は良かったというときに使う。じゃあ、いつなら良かったと言うのだろう。戦後教育はすべて「戦後レジーム」の産物だから全否定するとなると、どうしても「戦前教育の復活」になる。戦前の国家主義的教育の時代が良かったというのだろう。歴史では天皇ばかり教え、「修身」(道徳を教える)があり、「教育勅語」を有り難く戴いていた時代である。だから、「教育勅語には良いところもある」とか言い出すのである。これが「教育再生」の本質だと思う。(ちなみに「レジーム」は「体制」であって、「旧体制」ではない。旧体制をフランス語で言いたいなら「アンシャン・レジーム」と言うべきだ。)
「教員免許更新制」はこのようにイデオロギー的な背景がある政策である。だから文科省が「廃止」を目指しても、自民党内の了承が得られない可能性も考えておかなければならない。そのためには「教員の資質向上」という、それ自体は教員自身も含めて誰も異論がない問題で、真に意味がある制度を周到に設計する必要がある。と同時に「真の教育再生」に向けた戦略も練っていかなければならない。
「教員免許更新制」も教育政策上の費用対効果を考えて、あまり存在意義がないならば廃止すればいいだろうと常識的には思う。しかし、この更新制はどのような目的で成立したのだろうか。教育を良くしようと思って、やってみたら思ったような効果がなかったといったものなのだろうか。僕はそうではないと思う。むしろ学校に大きな損害を与えるとしても、「イデオロギー的価値」のもとに実施されたものなのではないだろうか。
ここに一つの資料がある。先に読んだ俵義文「戦後教科書運動史」に引用されていた安倍晋三前首相の講演である。日本教育再生機構の機関誌「教育再生」の2012年4月号、つまり民主党から政権を奪取し第2次安倍政権が成立した直後に掲載されたものである。ちょっと長くなるが引用する。
教育基本法を改正したこについてですが、日本が占領時代に様々な法律や体制が作られー憲法も旧・教育基本法もそうですー、戦後、この長く続いてきた体制や精神を含めて、私は「戦後レジーム(旧体制)」とよんでいますが、この「戦後レジーム」から脱却しなければ、日本の真の独立はありえないというのが私の信念です。(中略)旧い教育基本法は立派なことも書いてますが、日本の教育基本法でありながら日本国民の法律のようには見えません。日本の「香り」が全くしないのです。まるで「地球市民」を作るような内容でした。(中略)
しかし、新・教育基本法では、人格の完成とともに日本のアイデンティティを備えた国民を作ることを「教育の目標」を掲げています。その一丁目一番地に「道徳心を培う」と書きました。伝統と文化を尊重し、郷土愛、愛国心を培うことを書きました。関連法も改正し、教員免許更新制や、指導が不適切な教員の免職を含めた人事の厳格化も行い、頑張った先生が評価される「メリハリのある人事評価」を目ざしました。主幹教諭・指導教諭を付けて、校長・教頭だけだった管理職も増やしました。
「教育再生」は安倍政権の教育政策のキーワードである。第一次安倍政権では「教育再生会議」が設置され、第二安倍政権で「教育再生実行会議」が設置された。その「教育再生会議」を調べてみると、最終報告(2008年1月31日、すでに福田康夫内閣になっていた)で「教員の質の向上」の中で「教員免許更新制、教員評価、指導力不足認定、分限の厳格化、メリハリある教員給与(部活動手当の引上げ、副校長、主幹教諭の処遇など)」と書かれている。教員免許更新制そのものは、2007年6月に第1次安倍内閣で教育職員免許法の改正が実現していた。上記の他の点も東京都では他府県に先駆けて実働化していたものが多い。
(第2次安倍内閣で設置された「教育再生実行会議」)
「教育再生会議」の最終報告は、引用した講演で安倍氏が自分の業績として挙げているものばかりである。そして「教員免許更新制」は「教員評価」(校長による勤務評定)や「教員の階層化」と同列に置かれている。つまり教員の「分断」政策の一環だったということがよく判る。どうして教員を「分断」する必要があるのか。それも上記講演で判るだろう。児童・生徒に「愛国心」を培い、「世界市民」ではない「日本のアイデンティティを備えた国民を作る」ためには、「人事の厳格化」が必要なのである。そして第二次安倍政権で作られた「教育再生実行会議」では「道徳の教科化」が行われた。
先の講演が掲載された「教育再生」という雑誌は、日本教育再生機構が出していた。これは「新しい歴史教科書をつくる会」が各地の教科書採択で苦戦する中で、「右派的色彩が強すぎるから」として内部対立が起こり、2006年に分裂して出来た組織である。安倍氏のブレーンとして知られる八木秀次氏らが作って、育鵬社(産経新聞の子会社扶桑社の、教科書発行のために作った子会社)から教科書を発行している。自民党が野党だった時代にも安倍氏を支え、2012年2月には大阪で安倍氏、八木氏と当時大阪府知事の松井一郎氏がシンポジウムを行った。その時のシンポでは「地域の再生は教育再生から」と大きく書かれている。
(2012年2月の大阪集会)
「再生」という言葉は、今はダメだけど昔は良かったというときに使う。じゃあ、いつなら良かったと言うのだろう。戦後教育はすべて「戦後レジーム」の産物だから全否定するとなると、どうしても「戦前教育の復活」になる。戦前の国家主義的教育の時代が良かったというのだろう。歴史では天皇ばかり教え、「修身」(道徳を教える)があり、「教育勅語」を有り難く戴いていた時代である。だから、「教育勅語には良いところもある」とか言い出すのである。これが「教育再生」の本質だと思う。(ちなみに「レジーム」は「体制」であって、「旧体制」ではない。旧体制をフランス語で言いたいなら「アンシャン・レジーム」と言うべきだ。)
「教員免許更新制」はこのようにイデオロギー的な背景がある政策である。だから文科省が「廃止」を目指しても、自民党内の了承が得られない可能性も考えておかなければならない。そのためには「教員の資質向上」という、それ自体は教員自身も含めて誰も異論がない問題で、真に意味がある制度を周到に設計する必要がある。と同時に「真の教育再生」に向けた戦略も練っていかなければならない。