星のひとかけ

文学、音楽、アート、、etc.
好きなもののこと すこしずつ…

3月になりました。吾輩は、猫を読んでいます・・・

2017-03-04 | 文学にまつわるあれこれ(漱石と猫の篭)
夏目漱石の新しい全集 定本『漱石全集』が刊行されたので、 第1巻の『吾輩は猫である』の本読みを始めて 1ヶ月経ちました。。

かつて 大学で卒論のテーマを 漱石にしようか、 ポーの日本受容にしようか、、 あと 何だったかな、、 考えたものもあったのだけど、 とにかく全作品を読んでからでないと始まらない、、というわけで 当時の漱石全集ぜんぶに眼を通して (1ヶ月以上朝から晩までひたすら読んでた気が…)

でも 『吾輩は…』は わたしには手に負えない!! と、、 そのとき以来、 ほとんど読み返したことはなかったのでした。 なにしろ 膨大な英文学や、 英文学どころか古代ギリシャだの ローマだのの哲人の言葉とか出てくるし、、
漫才みたいで面白いにはちがいないのだけど、、 そのやりとりの半分くらいは(難しくて) ちんぶんかんぶんだったし、、 (それは今でも大差ないですが…)

ここ近年、 100周年という感じで 新聞に『三四郎』や『こころ』が再掲載されたりして、 それらを再び読み返したり、、 そんな中で 新しい全集刊行、と聞いたので、、 では そろそろ、 とうとう? 『吾輩は・・・』を読んでみようか、と、、。 でも、 独りではムリ、、 全集の詳細な注釈の助けを借りて、、 それと あちこち検索しながら、、 ネットの恩恵に預かりつつ、、

ま、、 とにかく 全部、 読んでみよう、、 何を思うかも 解らない、、 解るか 解らないか、も わからない、、 でも とにかく最後まで。。

そろそろ読まないと、 読まずに終わっちゃうことになるかもしれないし・・・(笑)と。。。 決意!


誰のためでもなく、、 何かの目的のためでもなく、、


、、 あと 何ヶ月かかるかな、、。 でもそれでいいのだと 思う。




日々の進捗状況は twitter のほうに毎日書いてます、、
https://twitter.com/salli_neko

 ***

おととい、、かな? ラモスさんの会見みてたら涙でちゃった。。 あんなに元気に ボールも蹴れるようになって良かったですね、、

病気のあとの失意や恐怖、、 回復するまでの本人と周囲の頑張り、、 苦しさつらさにくじけそうになってしまうこと、、たくさんあるから。。 ラモスさんのように回復して まだまだ生きる、って仰る姿を見るのはすごく嬉しい。。
自分も病気はたくさんしたけど、、 自分の家族にも、 ラモスさんと同じようなケースあったから、、。。 健康な人ほど、、 病気になったあとの落ち込みから脱するのって すごく厳しいから。。。

ミスター長嶋さんもずーっと頑張っておられますものね、、尊敬します。。 好きなもの、 行きたい場所、 やりたいことがあるって、、 やっぱり強さになるんだな、、と思う。

、、イチローさんも大事無くて良かった! もう、、選手生命にかかわるような怪我になってしまったら、、 ほんと恨んじゃうところだったよ、、 相手の人を。。  WBCも頑張って欲しいしね~~、、 なんだか イチローさんのチームメイトの スタントンやイェリッチが出場する米国の方も楽しみにしちゃいそうなんだけど…(笑


春が来ました。

お外へも出よう~~。


きょうは (だいぶ遅れたけど) お誕生日を祝って貰います。

LOVE

『三四郎』-『ハイドリオタフヒア』-「偉大なる暗闇」 おぼえがき

2015-03-05 | 文学にまつわるあれこれ(漱石と猫の篭)
新聞再掲載の続いている 漱石先生の『三四郎』も大詰めです。

、、それにしても、、一日一回分ずつ 何日もかけて読んでいくと、 はっと気づかされる事がいっぱいで、 ほんと 漱石先生のたくらみ(←企みでは言い方が悪いですね、 仕掛け? 謎懸け? 暗号?)には 驚かされるばかりです。

、、けど、 本来どんな読み方でも良いと思うのですよね。 大学生になった三四郎の成長物語として、でも良いし、 「新しい女性」として描かれる美禰子に着目するも良いし、 明治時代の本郷界隈の情景に想いをはせるのも良いし、、

ただ現在の自分の興味としては、 今までわからないまま読んでいた事柄がちょっとでも謎解きできたら嬉しい。 「ターダー・ファブラ」だの「ハイドリオタフィア」だの、 漱石はしょっちゅうペダンティックな言葉や、 外国文学の知識を作品中に使いますが、 その「意図」に少しでも接近できたら嬉しい。 「広田先生」の不思議な夢の意味、などもね。。。

 ***

今回、 広田先生が三四郎に渡す本『ハイドリオタフィア』の記述の中で、「content with six foot」(六尺に満足する)という語句をヒントにして、

 三四郎(95)前回、広田先生の病気見舞に三四郎は樽柿を買ってきた。7回で子規が樽柿を十六食ったという話を覚えていたのだろう。で、はっと思った。「六尺の狭きもアドリエーナスの大廟(ハドリアヌス帝の巨大な墓)と異なる所あらず」…樽柿を伏線に子規の『病床六尺』を追悼したのか? (twitterより)

、、と気付いたり、

与次郎が演説会でさかんに繰り返す 「ダーター・ファブラ」の語源、 ホラティウスの諷刺詩を読んで、

 Quid rides? Mutato nomine, de te fabula narratur
- Why are you laughing? Change the name, and the story would be yours.

この意味から、 「偉大なる暗闇」の論文を三四郎が書いたものと誤報された事件について「ダーター・ファブラ」が伏線だったか? と考えてみたり、

 三四郎(104)「何故、君の名が出ないで僕の名が出たものだろうな」…63回「ダーター・ファブラのために祝盃を挙よう」「もう一つ。今度は偉大なる暗闇のために」…名前を変えればお前の事だ…ダーターファブラの笑いはこの事件の暗示だったの!?…たぶんあの演説会の中に犯人はいるね (twitterより)

、、自分なりに面白い考察が出来ています(それぞれはどうぞ twitterをご覧下さいませ)
salli_星の破ka片ke

 ***

さて、 今日の本題。

不思議な魅力のある広田先生=「偉大なる暗闇」が、 三四郎に渡す不思議な古い本『ハイドリオタフヒア』、、 これについては 学生時代から興味を持っていたのですが、、



上記写真、 左から、 「ハイドリオタフヒア、あるいは偉大なる暗闇」という大変参考になる論考の載っている 飛ケ谷美穂子氏の 『漱石の源泉』(慶應義塾大学出版会 2002年)、 

Sir. Thomas Browneの Religio MediciHydriotaphia の翻訳書 『医師の信仰・壺葬論』(生田省悟・宮本正秀訳 松柏社 1998年)

一番右が、 漱石も熊本時代に取り寄せて原書を読んだ Theodore Watts-Dunton の Aylwin の初翻訳書、『エイルヰン物語』(戸川秋骨訳 大正4年、写真の本は大正15年再販本)

これらと、 現代の利器 ネット検索で得た情報で、 少しずつわかってきたことを 慌ただしくおぼえがきにしておきたいと。。。 きちんとした文章にする時間がありそうもないので、 ほんと おぼえがき程度ですみません。

 ***

飛ケ谷さんの著書では、 漱石が熊本五高時代の、1897~98年頃に『ブラウン全集』全3巻を取り寄せて読んだ事が調査されています。 、、が、ここでは飛ケ谷さんの論考とは重ならない事について 書いてみたいと思います。

漱石が何故、ブラウンに関心を寄せたか、と考えればそれはおそらく(前にもこのブログに書きましたが) 五高時代にテキストとして使っていた ド・クインシーの『オピアム・イーター』中で、 ブラウンの『医師の宗教』が言及されているからでしょう。

  I do not recollect more than one thing said adequately on the subject of music in all literature; it is a passage in the Religio Medici {14} of Sir T. Brown, and though chiefly remarkable for its sublimity, has also a philosophic value, inasmuch as it points to the true theory of musical effects.

{14} I have not the book at this moment to consult; but I think the passage begins―“And even that tavern music, which makes one man merry, another mad, in me strikes a deep fit of devotion,” &c.
  (http://www.gutenberg.org/files/2040/2040-h/2040-h.htmより)

 「あらゆる文学の中で、音楽について適切に語られた言葉は一つしか思い出せない。それはT・ブラウン卿の『医師の宗教』の中の一節である。(注14)それは主として崇高な文体ゆえに非凡なものであるが、音楽的効果に関する真の理論を示唆している点で、哲学的価値をも含んでいる。

注14:今、手もとに同書がないので参照できないが、確かその一節はこんな文章で始まっていたと思う―――「そして、人を愉快にも気狂いにもする、あの[俗悪]な酒場の音楽でさえ、私の身内に一種発作にも似た深い敬虔の念を惹き起こす」云々
         (野島秀勝訳『トマス・ド・クインシー著作集』より)

原典、ブラウンの『医師の宗教』では第九節にこの文章があります。

For my selfe, not only from my obedience but my particular genius, I doe imbrace it; for even that vulgar and Taverne Musicke, which makes one man merry, another mad, strikes in mee a deepe fit of devotion, and a profound contemplation of the first Composer, there is something in it of Divinity more than the eare discovers.
 (http://penelope.uchicago.edu/relmed/relmed.htmlより)

、、じつはこの文の続きの箇所にも、 漱石作品に影響を与えたのでは?と思われる一節が続くのですが、 それは置いておいて、、
、、こんな感じに、 ド・クインシーもその文体を 「sublimity」と讃えたブラウン卿の著作に、 当時ド・クインシーを教えていた漱石も、関心を寄せたのでしょう。

もう一つ、 漱石が熊本時代にわざわざ取り寄せた Theodore Watts-Dunton の『エイルヰン』にも、ブラウン卿への言及が出てきます。 

I have never been a reader of philosophy, but I understand that the philosophers of all countries have been preaching for ages upon ages about resignation to Death―about the final beneficence of Death―that 'reasonable moderator and equipoise of justice,' as Sir Thomas Browne calls him.  
  (http://www.gutenberg.org/cache/epub/13454/pg13454.htmlより)

 私は哲学を味ふ人間ではありません。併しあらゆる国々の哲学者は、過去幾代も幾代も、死なるものに諦めて服従すべき事、死が最後の恩恵を與ふるものなる事――サア・トマス・ブラウンの所謂『正當なる緩和者、正義の均衡』である事を教へて居たと了解します。(戸川秋骨訳)

 注記:上記 Aylwin 原文の下2行に下線を施しましたが、東北大学所有の漱石蔵書「Aylwin」の p.453に、このように下線が引かれ、さらに右欄外にチェックするように縦線も書かれていた点も確認済みです。
 画像が公開されていないので載せることはできませんが、東北大学漱石文庫データベースの↓この本です。
  (http://dbr.library.tohoku.ac.jp/infolib/meta_pub/CsvSearch.cgi)

ブラウンの原書では『医師の宗教』38節に 『正當なる緩和者、正義の均衡』である「死」―という部分があります。
 When I take a full view and circle of my selfe, without this reasonable moderator, and equall piece of justice, Death, I doe conceive my selfe the miserablest person extant

 ***

、、このような経緯を経て、漱石がブラウンに関心を持ち、全集を読むに至ったと考えられるのですが、 では、『三四郎』に出てくるのは 何故、最初に触れた『医師の宗教』ではなくて 『ハイドリオタフヒア』なのか。。。

広田先生の弁によれば、 「此著者は有名な名文家で、此一篇は名文家の書いたうちの名文であるそうだ。広田先生は其の話をした時に、笑ひながら、最も是れは私の説じゃないよと断られた」(十の二)

、、それが誰の説なのか、は私も解りませんが、三四郎が読む末節 「朽ちざる墓に眠り、伝はる事に生き、知らるる名に残り・・・此願も此満足も無きが如くに果敢(はか)なきものなり・・・ 六尺の狭きもアドリエーナスの大廟と異なる所あらず。成るが儘に成るとのみ覚悟せよ」、、、 やはり、この部分が『三四郎』の物語には重要だったのでしょう。

病床六尺の中で、 最期の最期まで生き切った友、子規への想いも込められているでしょうし、 漱石が熊本で書いた『エイルヰンの批評』は、1899年に「ホトトギス」に発表しているので、 子規らも読んだでしょうけれど、 病の床にあっては原書を読むことも出来なかったでしょうし、 熊本の漱石が子規の元へ出掛けてその話をじかにする時間も無いままだったでしょう。

『エイルヰンの批評』では、 主人公と離れ離れになってしまう少女「ヰニー」のことを、 「ハムレット」の中で狂気に陥ってしまう恋人「オフエリア」や、 ド・クインシー『阿片常用者の告白』で生き別れになってしまう少女「アン」に喩えたりして漱石は書いています。(下のデジタルライブラリーで読めます) 
いずれも、 子規や、ホトトギス同人の間では、 「オフエリア」「アン」と言えばすぐに解る、 きっと学生時代から互いの会話に登場していたお気に入りの女性像だったのではないでしょうか。 (子規や寅彦宛ての書簡にも登場します) この辺りに、 広田先生の夢の少女も関係がありそうですね。

、、、だからきっと、 子規も小説『エイルヰン』を読みたかったことでしょうし、 そこからさらに漱石が読み進めた トマス・ブラウンの『ハイドリオタフヒア』の内容も、 子規に話してあげたかったことでしょう。 、、だから 死して横たわる場所、を表した一文「content with six foot」のくだりを読んだ時、 すぐに子規を想い出したに違いありません。

『エイルヰンの批評』近代デジタルライブラリー
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/957315/119

『エイルヰン』もすごく長い物語ですが、デジタルライブラリーにあります。 秋骨先生曰く、「ラファエル前派の画を小説にしたというのが適評ではないか」という、 幻想的、超自然的なファンタジー小説です。 ちなみに、作中に登場する画家のモデルは、 D・G・ロセッティ。
(http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/950219) 

 ***

、、ところで、 広田先生の人物像を評する与次郎の論文 「偉大なる暗闇」という語句について、 先の飛ケ谷さんの著書では、 『ハイドリオタフヒア』第二章中の「A great obscurity」という箇所を挙げておられますが、 それとは別に、あくまで私の想像として、、

やはり三四郎が読んでいた末節付近から少しだけ遡って最終章の、、 人間の生きる意味の貴さを謳った部分、、
 Life is a pure flame, and we live by an invisible sun within us.
(生命は清らかな炎であり、私たちは目に見えない内なる太陽によって生かされている)
   (同上 生田・宮本訳)

、、この部分の 「an invisible sun」を挙げてみたいと思います。 「暗闇」ではないけれども、 「見えざる太陽」=「偉大なる暗闇」、 つまり、世間で名を上げるとか、 大学教授になるとか、 そうではないけれども、 豊饒な知識を持ち、 自分の学問にこつこつと取り組んでいる広田先生の「内なる太陽」、、此処を重視してみたいな、と思っているのです。
Hydriotaphia (http://pages.uoregon.edu/rbear/browne/hydriotaphia.html)

この一文は、Thomas Browne の Quotes(引用集)でも取り上げられている名句なのでしょう。
(http://www.goodreads.com/author/quotes/53520.Thomas_Browne)

そして、「invisible sun」と言えば、、(突然、ロックの話題になるのですが…)
The Police の曲に 「Invisible Sun」があります(Wiki>>
これは、 北アイルランド紛争の時代、ベルファストでハンガーストライキによって受刑者が命を落とした事件に触発されたものと、 スティングは説明していますが、 ザ・ポリスのこのアルバムだけ持ってなかった私は、この歌を覚えてません。 政治的内容ゆえ、あまりラジオとかでもかからなかったのでしょうか…
上記 Wikiの中では、 この「Invisible Sun」の語源として トマス・ブラウンについても言及されています。

The Police - Invisible Sun

 ***

話が逸れました。
広田先生は三四郎に『ハイドリオタフヒア』を渡して、 何を伝えんとしたのでしょうか。。。 先生は『ハイドリオタフヒア』の意味を説明する代わりに、、 昼寝の夢の話をしますね。。 そこがまた、、 わかりそうでわからなそうな、、課題です。

さて、、 『ハイドリオタフヒア』で三四郎が読む部分に、 墓に投げ入れる花として「アマランサス」が出てくるのですが、、 それについての話も、、

それはまたの機会に。。。

長々、おつかれさまでした。


トマス・ド・クインシーに関する過去ログ>>

『三四郎』の乞食と迷子と、『An Attic Philosopher in Paris』

2015-01-14 | 文学にまつわるあれこれ(漱石と猫の篭)
また今年も、 朝日新聞で連載が続いている『三四郎』について、少し書いてみましょう。

三四郎が 広田先生、野々宮さん、美禰子、よし子 と連れ立って 菊人形見物に出掛ける場面(五の五~五の六)で、 一行は多くの見物人が通る道端で「乞食」を見かけます。

 「誰も顧みるものがない。五人も平気で行き過ぎた」

そして、 各人の感じ方が書かれます。 

 「(お金を)遣る気にならないわね」とよし子がすぐにいった。・・・
 「ああ始終焦っ着いていちゃ、焦っ着き栄えがしないから駄目ですよ」と美禰子が評した。

 「あまり人通が多過ぎるからいけない。山の上の淋しい所で、ああいう男に逢ったら、誰でも遣る気になるんだよ」 ・・・と場所が原因とみる広田先生

 「その代り一日待っていても、誰も通らないかもしれない」と野々宮はくすくす笑い出した。

 「三四郎は四人の乞食に対する批評を聞いて、自分が今日まで養成した徳義上の観念を幾分か傷つけられるような気がした。」

、、、田舎から出たきたばかりの三四郎には、この四人の反応がいかにも軽薄あるいは身勝手で、不道徳なものに映ったのでしょう。 でも、すぐに我が身を振り返ってみて、 自分が乞食の前を通った時、

 「一銭も投げてやる料簡が起らなかったのみならず、実をいえば、寧ろ不愉快な感じが募った事実を反省して見ると、自分よりもこれら四人の方がかえって己れに誠であると思い付いた」

、、、さらにしばらく行くと、今度は迷子の女の子が泣きながら自分の御婆さんを探していて、、 今度も皆、往来の人を含め、「心を動かしている」ようだけれども、「誰も手を付けない」

 「今に巡査が始末をつけるに極っているから、みんな責任を逃れるんだね」と広田先生が説明した。

 ***

この「乞食」と「迷子」への無関心は、都市の群集心理の現れと言えるかもしれませんし、 彼らのエリート意識の表れかもしれませんし、 明治という文明社会が充溢することによってもたらされた人々の意識の変化によるものかもしれません。

のちに、広田先生は三四郎との会話の中で、 先生世代(明治二十年代の青年)と、 現代(明治四十年代)の青年の自我意識の違いについて、 「利他主義」(言い換えれば「偽善家」)と、 「利己主義」(言い換えれば「露悪家」)という差異についての話をします。(七の三)

この「利他」「利己」の意識の違いは、 先の「乞食」と「迷子」のエピソードの解釈にも当然無関係ではないと思われますし、 『三四郎』という作品の中では、 旧来の価値観に培われたまま都会へ出た三四郎と、 新時代の空気の中で育った女性・美禰子との 恋愛の先行きにも大きく影響する とても大事なキーであるように思えます。

 ***

さて、、(ここからが今日の本題)



漱石先生が 熊本五高時代に生徒たちに英語のテキストとして使用していた本に、 エミール・スーヴェストルの An Attic Philosopher in Paris: Emile Souvestre (1850)という本があります。 邦訳では 『屋根裏の哲人』(木村太郎訳 岩波文庫)が現在、古本で入手可能なものです。 (スウヴェストゥル作、と表記)

スーヴェストルは仏の作家なので、 漱石が使用したのは英訳の本でしょう。 スーヴェストルについては こちらのwikiを>>

『屋根裏の哲人』は小説ではなく、 エッセイと言っていいのでしょう、 パリの屋根裏部屋を借りて住んでいる著者が、 日々、隣人や町の人々の暮らしや、 自らが体験したり、 人から聞いたりしたエピソードを、 ひと月一話、12か月の随想にまとめたものです。 時代は19世紀半ば(私は歴史に詳しくないですが) 仏も産業革命によって 新興ブルジョワジーと 貧困層の格差が拡大しており、 屋根裏の著者は主に貧者たちの話や暮らしぶりを綴りながら、 彼らのつましい暮らしぶりに心を寄せ、 同情し、 常に我が身を振り返りつつ自省の念を深くする、、といった内容になっています。

この本の 四月の章「互ひに愛し合はう」の中に、 「乞食」と「迷子」のエピソードが描かれているのです。 四月、美しい季節が訪れ、 豊かな物で溢れ、仕事を終えた人々が夕べの楽しみに街へ繰り出すさ中、、 
彼が出会った「乞食」、そして「迷子」に関して、 著者がどう行動し、 どんな観想を綴っているかは書かないでおきます。 

 ***

漱石が 『三四郎』の中に 「乞食」と「迷子」のエピソードを菊人形見物に絡めて登場させたことと、 熊本五高時代に『屋根裏の哲人』を教科書として生徒と共に読んでいたこととは、 決して無関係ではないと思えます。 スーヴェストルの 極めて高潔な(そうであろうと自戒する)姿勢=利他主義にもとづいたエッセイは、 学生に教えるには大変道徳的で良い教科書だったかもしれませんが、 裏を返せば「偽善的」とも言えるでしょう。 著者は、 貧しき者に同情し、 正しい行いに努めてはいますが、 観察者でもあり、 それを綴ることが自らの糧にもなる「哲学者」であって、決して社会の変革者たらんとするわけではないのですから。

漱石はその「矛盾」というか、「傍観者」の姿勢にも気づいていたことでしょう。 そして、 その後の英国留学を経て、 19世紀末のロンドンの富と貧、 美と醜の隣り合わせの都市を体験し、 そこで生れる英国文学の歴史を研究して、 あの『文学論』を著することになり、、 ある程度繁栄を成し遂げた明治41年の 『三四郎』の中で、 「利他主義」と「利己主義」について広田先生に語らせることになるわけですね。

虚実をないまぜにして言ってしまえば、、 熊本五高で『屋根裏の哲人』をテキストに 「乞食」と「迷子」の道徳観を学んだ三四郎が、 東京へ出てきて、 菊人形見物の日に「乞食」と「迷子」に出会い、 熊本で読んだこととは全く異なる感想を、 都会人種の野々宮や美禰子らから聞くことになる、、ということです。

 ***

「利他主義(altruism)」については、、全集(2002年版)の注解にもありますが、 明治44年の「文芸と道徳」という講演の中で漱石は

 「吾々は日に月に個人主義の立場からして世の中を見渡すようになっている。…略… 我が利益のすべてを犠牲にして他のために行動せねば不徳義であると主張するようなアルトルイスチック一方の見解はどうしても空疎になってこなければならない」

、、と、現代(明治末期)の状況を考察しています。

 ***

最後に資料として、、

「An Attic Philosopher」のことは、 八波則吉「漱石先生と私」(漱石全集月報)に 「…夏目先生から教はつた一年間に、『アツチツク、フイロソフアー』や、『オピヤム、イーター』や、『オセロ』など皆ジ、エンドまで読んだ…」とあり、

1898.3.28 の試験問題(東北大学漱石ライブラリ http://dbr.library.tohoku.ac.jp/infolib/user_contents/soseki/images/img15-18.jpg) の長文読解(4-7,10-11)は An Attic Philosopherからの出題と思われます。
*追記 上記URLが変更になっていましたので、以下に訂正します。(2017.2.9)
http://www.i-repository.net/contents/tohoku/soseki/images/img15-18.jpg

余談ですが、、 現在ではほぼ誰も読まなくなった(と思われる)『屋根裏の哲人』ですが、、 古本では昭和25年の版が最後のようで、 その頃までは版を重ねて読まれていた様子。。 検索をしたらこちらの本↓に出会いました。

『昭和の青年友を愛し、国を愛し、ソロモンに没す』 著者: 秋山新一
、、戦地に赴いた青年の日記のようです。 スーヴェストルの読書記のページが見られます(google books>>

今日の『三四郎』(七の三)の中で広田先生が

 「われわれの書生をしている頃には、する事為す事一として他(ひと)を離れた事はなかった。凡(すべ)てが、君とか、親とか、国とか、社会とか、みんな他(ひと)本位であった」

と三四郎に言います。 上記の秋山青年の時代はまさに、 国の為、君の為、、 その一途な思いで自身を律しつつ、『屋根裏の哲人』を読んだのでしょう。 

『三四郎』の冒頭で、 広田先生に「亡びるね」、、と言わしめた漱石が、 あの大戦の時代まで生き長らえていたら、、 何を言いたかっただろうと、、 ふたつの本を読みながら考えています。

 --- もし最後までお読みいただいた方がいらしたら、、 お疲れ様でした。 ありがとうございます ---

『三四郎』と 寅彦と 子規と…

2014-12-05 | 文学にまつわるあれこれ(漱石と猫の篭)
漱石の『心』につづいて、 今は『三四郎』が日々 新聞に連載されています。
大学時代に『三四郎』はよく開いたけれど、 一日に一回の掲載分だけ読む、というゆっくりした読書とは全く違っていたので、 見えなかったものや、 思いつかなかったことなどが、 しばしば頭に浮かんで面白いです。

大学後に 多少は読んだ本も(ちょびっとは)増えたから、 少しは知識も、、加わったし…(?)

物語は、 そろそろ「よし子」さんが登場したところだから、 しばらく前に思った事を少し書いておこうかな。。 師走の日々はすぐに追い立てられてしまうから。。

 ***

野々宮宗八さんのモデルは寺田寅彦。 野々宮さんの年齢は30歳くらいだから、 ちょうど『三四郎』掲載の明治41年の寅彦の年齢がそのまま当てはまるようになっている。

野々宮さんには妹「よし子」がいて、 女学生だからたぶん十代。 随分年の離れた妹さんということになる。 だからか、 野々宮さんはよし子を子供扱いして、 「馬鹿だから」とか、 「僕の妹は馬鹿ですね」とか(3回も)言っている。 昔よんだ時は、 あんな可愛らしい妹を「馬鹿」「馬鹿」と(軽口にしても)ひどいじゃない、と思ったけれど、、

今年、 再び寅彦の随筆集を開いて、あっと思った。。。 何度読んでも、 いつも泣いてしまう 『団栗』、、、 胸を病んだ奥さんを植物園へ連れて行ってあげる話。 、、まだ数えの19にもならない奥さんは、 子供のようにどんぐりを拾って喜ぶ。 いつまでも拾うのをやめないので、 寅彦は

「もう大概にしないか、ばかだな」

と声をかける。 、、此処を読んで、あっと気付いた。 そして『団栗』の掲載年を見たら、 明治38年4月 ホトトギス、とあった。 同じ年、 漱石もホトトギスに『猫』の連載をしている。 当然、 漱石も寅彦の随筆を早速読む立場にあったし、 『猫』にも「寒月君」として登場して、 バイオリンを買う話などで取り上げられている。
、、そっか、、 

「よし子」さんのあの年齢と、子供らしいあどけなさの造形は、 野々宮さんの「妹」ではなく、 亡くなったまま年をとらない「奥さん」なのかもしれない。 

そう思ったら 「馬鹿だから、よくこんな真似をします」という、病院からの悪戯の電報も、 「馬鹿」という言葉も、 とてもとても深くて、 愛情あるものに思えて、 また泣けてきてしまった。 『団栗』では、 庭の梅の木に二輪ほど満開の花を見つけて近づいて見ると、 千代紙の花がくっつけてあって

「おおかた病人のいたずららしい」

と書かれている。 こんな愛らしい、 まだほんの少女のような奥さんを偲んで、 漱石がそっと「よし子」さんを似せて書いたのかもしれないと思った。 だから入院から始まる「よし子」だけれども、 小説の中では病気はすっかり良くなっていく。

寅彦と、 その奥さん「夏子」のことが こちらに詳しく載っていました↓
http://www.asahi.com/travel/traveler/TKY200801110159.html

昔は、 家同士の決める結婚が普通にあったにせよ、 14歳と18歳の結婚… 熊本五高の時にもう寅彦は妻帯者だったとは。。 そして『団栗』のラストの一文で、 私も謎だった 「始めと終わりの悲惨」、、の意味が、 これでようやく解り、、 一層胸がつまる想いでした。

 ***

もうひとつ、 漱石が『三四郎』に忍び込ませた思い出のひとつに、 子規の思い出があるのでは、と思っている。 冒頭の、 広田先生との列車での出会いで、 「子規は果物が大変好きだった」と、 柿をたくさん食べた逸話を話している。

広田先生と子規がどうして知り合いなのか、 何の説明もないままだけれど、 きっと漱石はそれをただ書きたかったのだろう。

そして同じく「よし子」さんに関して… ちょうど、 今日掲載のところ、、。 三四郎が「よし子」の家を訪ねると、 よし子は 庭の柿を写生している。 此処も子規へのオマージュかもしれない。

さらに、『三四郎』の終わりの方で、 三四郎がインフルエンザで寝込む時、、よし子が蜜柑の籠を持ってお見舞いにやってくる。 そして三四郎の枕元で、 蜜柑を剥いて食べさせてくれる。

子規の 『くだもの』というエッセイがある。 そこに、 明治28年に子規は奈良に立ち寄り、 宿で御所柿を食べたという部分が載っている。 その宿の下女が柿を剥いてくれるのだが、 

「年は十六、七位で、色は雪の如く白くて、目鼻立まで申分のないように出来ておる」

と書かれている。 「生れは何処かと聞くと、月か瀬の者だというので余は梅の精霊でもあるまいかと思うた」 とまで書いている。 精霊かと思うほど、 その少女が愛らしく記憶に残ったのでしょう。。。

この文章は明治34年にホトトギスに掲載とある。 漱石は留学中で英国に居たまま、 子規は翌年亡くなった。 

 ***

『三四郎』は23歳。 漱石と子規が出会った数えの年。 そして、 明治34年は 漱石が留学をした年(33で出発し、 英国到着後すぐに34になる)、、そして、 子規が病の床で上記の『くだもの』を書いていた年。 寅彦が病身の奥さんを連れて、 『団栗』を拾った思い出の年も、 明治34年。

、、きっと、 そんなこんなのさまざまな思い出と、 亡き人たちへの美しい追想を、 そっと『三四郎』の中の「よし子」という少女に投影して、 ふたりの親友への思いやりの気持ちを込めているのではないかな、、と そんな想像をしています。


正岡子規 『くだもの』 青空文庫>>

寺田寅彦 『どんぐり』 青空文庫>>

本当の事実は人間の力で叙述できるはずがない…

2014-08-11 | 文学にまつわるあれこれ(漱石と猫の篭)
、、と、、 続けて 戸川秋骨先生と 漱石先生の話になるのですが、、

本当に秋骨先生には教えられること一杯です、 大感謝!です。
 
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今朝、 秋骨先生のエッセイ「自叙伝の面白さ」(『朝食前のレセプション』収載)を読んでいたら、、

 「…ハイネは、 人間に真実の告白なんて出来るものではない、 悪事にしても大抵は自分の都合のよいやうにばかり書いている、といったやうな鋭い皮肉をいってゐる」 とあった。。

 (あ!! これだ!!) とハタと気付いたのは、 漱石の『硝子戸の中』最終章

 「聖オーガスチンの懺悔、ルソーの懺悔、オピアムイーターの懺悔、――それをいくら辿って行っても、本当の事実は人間の力で叙述できるはずがないと誰かが云った事がある」 

という一文。。 かつて此処を読んだ時にも気になっていたが、、 「誰かが」とは「漱石自身」の作った言葉なんじゃないか、、と漠然と思っていた。

、、で秋骨先生が言及された ハインリヒ・ハイネの、、『告白』という著作。 私は独逸語は読めないので英語のサイトからコピペしてみます、、

 And even with the most honest desire to be sincere, one cannot tell the truth about oneself. No one has as yet succeeded in doing it, neither Saint Augustine, the pious bishop of Hippo, nor the Genevese Jean Jacques Rousseau--least of all the latter, who proclaimed himself the man of truth and nature, but was really much more untruthful and unnatural than his contemporaries.
    (http://www.readbookonline.net/readOnLine/63359/)

秋骨先生が「ハイネは…」と言っているのはこの辺りの事ですね。 漱石全集の索引では、 英文学ノートの中にいくつか「Heine」への言及があるようなので、 著作に触れていたのかもしれません。

さらに、、 漱石が何度か 『思ひ出す事など』や『明暗』の中で言及している ドストエフスキー。 その「地下室の手記」にも ハイネが言った同じことへの記述があります。

 「ついでにいっておくが、ハイネは、正確な自叙伝なんてまずありっこない、人間は自分自身のことではかならず嘘をつくものだ、と言っている。彼の意見によると、たとえばルソーはその懺悔録のなかで、徹頭徹尾、自己中傷をやっているし、見栄から計画的な嘘までついている、ということだ。ぼくはハイネが正しいと思う」
        (新潮文庫 江川卓訳 10章より)

「聖オーガスチン」のことは↑此処には出てきていないので、 漱石はハイネの説を使っていると思われます。 或いは、 ドストエフスキーを通じてハイネをひも解いたのかもしれませんし、、 でもいずれにしても 「オピアムイーター」は出てきませんね。 しかし、、『告白=confession』と言ったら、 漱石にとっては「オピアムイーター」は欠かせません。 『思ひ出す事など』で、漱石が死の淵にあった時の記憶を綴っている箇所で、 ドストエフスキーの事が書かれますが、 それと同時に想起されているのも ド・クインシーの『オピアムイーター』で描かれた阿片幻想でした。(20章~)

ちなみに、、 5月28日に書いた「夏目漱石と戸川秋骨と、トマス・ド・クインシー」で言及されているのも 『思ひ出す事など』の23章です。 ド・クインシーの『告白』が何かにつけて漱石の頭に浮かんできていたことがうかがえますね。

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話が少し逸れました。
最初の 『硝子戸の中』の漱石の文。 、、「聖オーガスチンの懺悔、ルソーの懺悔」 ここに 「オピアムイーターの懺悔」を加えたのは漱石自身なのかと思います。 だから「誰かが云った」というのは、 ハイネでもあり、 ドストエフスキーでもあり、、 漱石自身の「本当の事実」を著述することへの認識のあり方を示しているのかな、、と思います。

この『硝子戸の中』の前には、 先生の遺書(告白)を主題とする『こゝろ』があり、 自伝的小説とされる『道草』があり、、 「事実」を著述するとはどういうことかを、 漱石は考えていた筈なのですから。

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今ここに書いたことは、 本当に今朝見つけたばかりの、 ほんのとっかかりに過ぎない事なので、(でも貴重なとっかかりを与えて下さった秋骨先生に感謝!) 、、『心』の先生が、 何を「告白」し、 どんな「事実」を遺書という形で伝えようとしたのか、、 まだまだまだまだ わからないことばかりです。

でも いそがない。。 漱石先生は墓の前で百年待っていてくれる人ですもの。。 小さな星の片、、(手がかり)を また見つけていきましょう。

秋骨先生、、ありがと。 また教えて下さいね。

島崎藤村の『春』…『こゝろ』の時代

2014-08-11 | 文学にまつわるあれこれ(漱石と猫の篭)
藤村の『春』、、昨日読了。。

私、 藤村については『若菜集』の詩に親しんだくらいで、 小諸の記念館にも行った筈なのに、 藤村の小説はまったく無知、、(学科の必要性で『破戒』くらい目を通したか…?)

そもそも 『春』を読もうとしたのも、 前回までに書いた戸川秋骨先生が藤村と同級で、 共に『文学界』の同人でもあり、、 20代前半の彼らの交流が『春』に自伝的に描かれていると知ったから、、。

北村透谷については『著作集』の文庫を持っていて、 ロマン派詩人のことや、 文学のあり方など、 その錐のように鋭い論調に感心したりしていたものだけれど、、 その透谷と 藤村・秋骨・平田禿木などの 横のつながりが全くわかっておらず… (←近代文学やったろうに・恥)

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自伝的小説というか、 それぞれモデルの存在する小説を、 なぜにわざわざ名前を別につけて書かねばならないのか、 その辺が小説家でない私には解りかねるのですが、、 登場人物の名前がちっとも覚えられずに、 いちいち後ろの注釈を見ては、 誰のことなのか探しつつ読むのは面倒でした。。

たぶん、 当時(新聞掲載時)は、 そんなことより一編の小説として読まれたのでしょうけど、 現代から見る関心は、 当時実在した人物関係であって、 当時の実際の文学事情や、 交遊事情なのだから 読み方が変ってしまうのは仕方ないです。 

そして、 今、 『春』を読もうとした理由は、 何と言っても 今100年目として新聞掲載中の、 漱石の『心』で語られている 先生およびKが、学生生活を送ったまさに同じ時代が、 藤村の『春』だから。。。 漱石と北村透谷は同い年。 透谷が25歳で自殺することも 『春』の重要な題材になっていますが、 その同じ時代の学生の野望や情熱や恋や未来を 先生とKも背負っていた筈なのです、、 よね?

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『春』を読んですごく面白かったのは(面白い、は失礼かもしれませんが)、、 藤村を取り巻く『文学界』同人の仲間たちが、 じつに親身に、 常に互いを心配し、 苦悩であれ恋心であれ互いに包み隠さず打ち明け、 それを手助けしようとする者あり、 行き詰った時には(金銭面でも)なんとか手を差し伸べようとする者あり、、。。 自分で自分に刃を突き立てんとする程に苦悩している透谷でさえ、、 友の前では気遣いを見せる、、、 こういう密な繋がりというのは、 ある意味幸せなことだなぁ、、と。 どんなに藤村自身は追いつめられたり、 どん底の精神状態であるように描かれていても、、、 やはりそれは幸せな事なんだよ、、と思ってしまう。(現代の大学生の「ぼっち飯」とか、、 そっちの方が淋しいじゃないか)

最後のシーンでは、 やはり仲間が前途を祈ってくれるんだものね。。。

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『心』の先生にも、、 というか、 漱石にも 確かに友情を育んだ学友はいたと思うのです。 先生とKの関係だって、 同郷で幼少から仲の良かった親友なんですから。。。 だけれども、 漱石は学友との思い出は書かなかった。 唯一青春小説らしい『三四郎』ですら、 未知の世界との出会いは描いても、 友情は描かなかった。 、、子規という親友がいたのにね、、。 、、或いは子規を失ったからなのかな、、。。

それは、 小説に対する藤村と 漱石の認識の違いもあるでしょうし、 でも『心』の先生が、 「明治の精神」と遺書に記している裏には、 漱石の若き日への並々ならぬ想いがあるはずだと思うのです。

それを想いながら『心』のつづきを読むためにも、 『春』を読んでみて少しは参考になったかな、、と思うのです。

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蛇足として、、 個人的にすごく興味のあった 秋骨先生の若き日が知れたのは貴重でした。 そんな純愛があったなんて、、 晩年のすっとぼけたエッセイからは想像もつきませんが、 お人柄はよく想像がつきます。 ますます秋骨先生、、 好きになりました。

夏目漱石の『三四郎』と、 戸川秋骨の「ぐうたら先生」

2014-06-19 | 文学にまつわるあれこれ(漱石と猫の篭)
前回、 漱石と秋骨先生とド・クインシーの繋がりのこと書きましたが、、 昨日の新聞掲載の『心』に、 たまたま中学校教員の月給の話が載っていたので、 前から気になっていたことを。。。

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秋骨先生の「漱石先生の憶出」の中に、 「引越」の部分が出てきます。 以下引用、、

  それから後三十八年に、私が地方の高等学校をやめて東京に帰って来てから、就職若しくは仕事を求めて、私は千駄木の先生のお宅を尋ねたが、その時は非常に親切に扱はれ、いろいろの指導を受けたのであった。以後それが縁となって、恐らく先生はうるさく思はれたかも知れない程、屡々訪問を重ねるやうになったのである。千駄木町から南町へ来られる前かと思ふが、私の家へも来られて、一緒に大久保に貸家を探したこともあった。或家が貸家になるといふ事を聞いて居り、且つその家賃までも概そ何ほどと、私が耳にして居たので、その家を外から先生に見て頂きながらその話をした。・・・(後略)

、、これを読んだ時は、 秋骨先生とそんな交流があったのか、、と 『三四郎』の広田先生の引越しの場面を思い出しながら、、 あの中にも

 「今日は大久保まで行って見たが、やっぱりない…」 と、与次郎が話すところがあったのを思い出していた。 ちなみに野々宮さんは大久保に住んでいて、 わざわざ遠く東大まで通っている。(秋骨先生の住まいも大久保)

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その後、 秋骨先生の 「ぐうたら先生」というエッセイを読んで驚いた。。 「ぐうたら先生」とは、 秋骨先生の中学の恩師で、 その頃(?)から、 東大入学までの数年間を書生として同居していた先生のこと。 なんか、『三四郎』の広田先生に居候している 与次郎みたいな関係じゃないですか。。

 「僕(秋骨)が今文学士になって高等学校の先生になって居るにも拘はらず、なほその十数年を一日の如く中学の先生で通して居るのみならず、その十数年前大学を卒業した当時新調したといふ、その時の新式で今では職工の外あまり来て居るものもない位な、背広を着て通って居るのである」

、、、ね? 天長節も近いというのに「夏服」を着たまままの広田先生みたいでしょ? 違っているのは、 広田先生は高等学校、 ぐうたら先生は中学校、 与次郎が「十年一日の如しと言うが、もう十二三年になるだろう」と言う辺りまで、 似ている。

さらに、、 「ぐうたら先生」は、、

 「僕(秋骨)は一度戯言(じょうだん)半分揶揄(からかい)半分に、先生何故奥さんをお迎えならんのですと尋ねて見た。先生は只ニヤニヤして計り居て何とも答へない。例の失恋の結果でゝもあるのですかと、少し乱暴であったが単刀直入に切り込んで見た。処が先生それでも矢張ニヤニヤして居て答へなかったが、稍や暫くして、君、お釈迦様や耶蘇の妻君になれる女があるかねぇと言はれた。此れには僕も少し驚いた・・・(略)

、、う~む、、ますます広田先生に似てきた。。 その上 ぐうたら先生、 「日頃から口癖のやうに、まあ日本では親鸞聖人か芳澤新吉かといふのだからネ、と言って居る」と。。。

、、私は宗教に詳しくはないので 「親鸞聖人」をWikiで見たら、、 「六角堂」で百日参籠の間に 「夢告」があったのだそう。。。(Wiki>>

「広田先生」が夢の中でたった一度会ったきりの女性(女の子)の話を 三四郎にする点については、、 多々説があるようですし、 私も思うところがあるので、「親鸞聖人」の夢のお告げと関係があるのかはわかりませんけど、、

でも、、 秋骨先生が、 漱石先生の引越し探しを手伝っている間に、 自分が東大に入るまで居候していた このお嫁さんを貰わない「ぐうたら先生」の話を、 漱石にしていたのだと想像すると、 すごくすごく楽しいですね。

あ、、 そうそう、、 ちなみに漱石が南町に引越したのは 明治40年9月、 『三四郎』は明治41年9月からの掲載、だそうです。 秋骨先生と「ぐうたら先生」の同居は、 もっと前、、明治20年代のことですが、 ぐうたら先生の月給は「六十円」だったそうです。

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秋骨先生の数々のエッセイ、、 なんと 国立国会図書館の「近代デジタルライブラリー」で全部読むことが出来ます。 
http://kindai.ndl.go.jp/

『三四郎』好き(私が一番好きなのは広田先生)としては、、

秋骨先生が明治41年(1908)に出版した 『時代私観』の中の 「電車とイプセン」、、(なんとイプセン文学の新感覚と、 電車飛び込みという世情を絡めて論じてます)

とか、、

大正2年(1913)出版の『そのまゝの記』に入っている 「丸善回顧」や「日記 六月五日 浮夜床」(ここにも大久保での轢死や放火事件のことなど)、、それからこの「ぐうたら先生」 などなど、、

漱石の創作時代を共に感じるには、貴重な文章がいっぱい収められているように思います。 、、ほんと、 漱石とも気が合いそう。。 

新聞の『心』の連載はまだ続いてます。。 日々感じた事はツイートの方に載せてます。 ぼちぼちぼち、、と、、 ゆっくり私も漱石再読をつづけていきましょう。。。

夏目漱石と戸川秋骨と、トマス・ド・クインシー

2014-05-28 | 文学にまつわるあれこれ(漱石と猫の篭)


『こころ』の朝日新聞掲載から、ちょうど100年だということで、今、 朝日に『心』の連載がふたたびされていますが…

それについてはまだ日々連載中なので、、『こころ』ではなく、

つい想い出したように、 戸川秋骨先生のエッセイを このところ読んでいます。 秋骨と漱石のつながりについては、ずっと前に一度書きました(>>

現在刊行のもので読めるのは、みすず書房の『戸川秋骨人物肖像集』くらいで、 その中に 「知己先輩」と「漱石先生の憶出」という文章が入っています。(上の写真にあるのは、大正~昭和初期に刊行された秋骨の本の一部)

秋骨先生のことを全然知らないので、最近になってやっと経歴など調べてみたら、 漱石より4歳年下、 まるで漱石と入れ替わるように、成立学舎に学んだり、 東京帝国大学英文科に入ったり、、 卒業後、漱石が熊本五高にいる頃には、 山口の高等学校で教授、、 で、、 そんなすれ違いだった二人の初対面が、 漱石が英国留学が決まった時の送別会で 食事の席が隣だったそうです、、、(上記本参照)

だから、 寺田寅彦のような教え子という立場でもなく、 作家同士でもなく、 しいて言えば英文学の学者仲間、、ということでしょうか。。

漱石が英国から戻った後には、 秋骨は山口の教師をやめ、東京へ戻り、、 漱石宅に「地位=仕事先」の相談に行ったそうです。 漱石は東大で教えながら兼任で 明治大学でも教鞭をとっていたのですが、 そこを辞したのが1907年、、 同じ年から秋骨は明治大学の講師になっているので、、 もしかして漱石の斡旋で後任になったのでしょうか、、(調べてはいませんが)

二人はかなり親しかったようですが、 文書として記録されているものが少なくて、、 上記のエッセイでは、 最後に会ったのが『明暗』執筆中のこと。。 20~30分も話して、 『明暗』のことやら、デカダンのことやら話したとありますが、、 秋骨先生のエッセイだから仔細なことはなんにも書かない。。 何を話したのかなぁ、、、『明暗』の謎に少しでもつながりそうな話なら、 みんな咽から手が出るほど聞きたいでしょうに。。。

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英文学者だから当たり前でしょうけど、、 秋骨先生のエッセイを読んでいると、 ほんとに漱石と趣味が近いのがよくわかります。 きっと会話も楽しかったでしょうけど、 そういった何を話した、とかは全く書かれてなくて、、

でもひとつだけ 大発見!!(私にとっての、ね)

秋骨先生の、昭和6年発行の『英文學覚帳』の中に 「デイ・クインジ雑談」という文があります。

  「凡そ英文學中幾多の大家の内にあつて、その作物に對し自分が多大な感興と尊敬とを抱く人として、第一に挙げだいものはデイ・クインジである」

、、から始まる文章です。「デイ・クインジ」すなわち Thomas De Quinceyのこと。。 ド・クインシーを漱石が愛読していたのも今では良く知られていますね。

、、で、 秋骨先生、、 ド・クインシーの『告白』(阿片常用者の告白)の中で気に入った一文が、 自分のノートブックに記されていた、、と。 その部分を挙げています、、(↓http://www.gutenberg.orgからコピペします)

But who and what, meantime, was the master of the house himself? Reader, he was one of those anomalous practitioners in lower departments of the law who―what shall I say?―who on prudential reasons, or from necessity, deny themselves all indulgence in the luxury of too delicate a conscience, (a periphrasis which might be abridged considerably, but that I leave to the reader’s taste): in many walks of life a conscience is a more expensive encumbrance than a wife or a carriage; and just as people talk of “laying down” their carriages, so I suppose my friend Mr. --- had “laid down” his conscience for a time, meaning, doubtless, to resume it as soon as he could afford it.

、、訳は面倒なので省きますが、 秋骨先生が面白がっている点を要約すると、 「この人は、困窮した時に荷物を "laying down"(捨てる、手放す)と同じように、 しばし "conscience"(良心、道義心)を手放したのだ、 無論、 可能になったらすぐに取り戻すだろうが」、、 という部分。 
はなから「良心」が無いと言っているのではなく、 たまたまその時は「良心」を持つ余裕が無かった、、と見るド・クインシーの「皮肉」を面白がっているわけです。

、、で 想い出すのが、 漱石の『思ひ出す事など』(二十三)

  「…或る人の書いたものの中に、余りせち辛い世間だから、自用車を節倹する格で、当分良心を質(しち)に入れたとあったが、質に入れるのは固(もと)より一時の融通を計る便宜に過ぎない…」

、、昔この部分を読んだ時に、 すぐド・クインシーを思い出したのですが(全集の注には「或る人」のことは載っていませんでした)、、 まさか秋骨先生まで 全く同じ箇所を面白がっていたとは、、 可笑しくて可笑しくて、、。 漱石とこの話、、 していたのかしら、、 いえ、 きっと二人共 全然そんな事たがいに知らないまま、だったのでしょうね。。

現在掲載中の『心』にも、むりやりこじつけますと、、

今日の部分(28)
 「平生はみんな善人なんです、少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざという間際に、急に悪人に変るんだから恐ろしいのです…」

という「先生」の台詞、、(たぶん漱石自身の底にある、人間認識)にも どこかつながるような気もしますね。。。

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さらに、 ちょっとマニアックな種明かしをしますと、、 ド・クインシーの『告白』という本は、 漱石が熊本時代に、 英語の教科書として使っていました。 その頃の試験問題が、 東北大学の漱石文庫データベース(http://dbr.library.tohoku.ac.jp/infolib/meta_pub/G0000002soseki)中にある、 熊本五高の試験問題に載っています。(だからしっかり文の内容を記憶してたんですね)

http://dbr.library.tohoku.ac.jp/infolib/user_contents/soseki/images/img15-43.jpg
(追記:URLが変わっていたので以下に変更します。2017.2.8)

http://www.i-repository.net/contents/tohoku/soseki/images/img15-43.jpg?log=true&mid=2300000359&d=1486564906605
↑こちらが証拠。 問Ⅵにほぼ同文で載ってます。。 私は英語教師でも学者でもないので批評は出来ませんけど、、 この試験問題(この筆記体)で出されたら学生さんは大変だろうなぁ。。。 だいたい『告白』って、、教科書に向く本なのでしょうか、、?? 昔の学生さんは立派だったのでしょうね。。

、、と 話が逸れましたが、 漱石先生と、 秋骨先生、、 もっと繋がりが詳しく見えてくると、 さらに面白いことが色々とわかってくるような気がします。 誰か、 ひも解いて下さらないかしら、、、 

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小説(しかも英文学の影響を受けた作品)を 一般の人々が読むようになって、 ようやく100年余り。。 人知も情報もグローバルになった今だからこそ、、 漱石が言わんとしていたこと、、 やっと実感を以って読み取れるのかもしれないなぁ、、、いや、、 不勉強な自分じゃ まだまだかなぁ、、、

と思いつつ、 新聞に少しずつ載っていく 『心』を読んでいます。 

久々の漱石話、、でした。

レオニード・アンドレーエフの『ラザロ』と 漱石の『硝子戸の中』

2013-05-29 | 文学にまつわるあれこれ(漱石と猫の篭)
東京芸大美術館での 『夏目漱石の美術世界展』始まっているようですね。 いつ見に行こうかと考え中。。

公式サイト(>>)に出品リストが載っているのを見て、 洋画についてはだいたいどの作品にどんな絵が言及されていたかを 思い出すことができるけれど、 日本画の方は知識がちっともないので、 抱一くらいしかわからない。
伊藤若沖なんて どこに出てきたっけ…? 『草枕』かな。。

見に行く前に ざっと読み返した方がいいのか、 カタログ買ってきて後でおさらいするか、、 考え中。

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ところで、、 しばらく前になるけれど、 バベルの図書館 ロシア短篇集に入っている アンドレーエフの『ラザロ』を読んで、、 一体どうしてアンドレーエフは こんな作品を書いたんだろうか、、と考え込んでいて、、

アンドレーエフについてはずっと前に書きました、 漱石の『それから』に出てくるので、、(>>

で、、『ラザロ』とは、 聖書に出てくるように 死後4日ののちにイエスによって蘇ったという人物。 その物語をアンドレーエフは、 再生や復活の物語としてではなく、 まるで墓場からあらわれた死者の恐怖小説のように描いている。 3日間葬られていた肉体はすでに腐敗しかけ、 青黒く膨張し、 性格も以前のような快活なラザロではなく、 当初は蘇りを祝福して集まってきた人々も みな次第に離れていき、 ラザロは孤独と暗黒だけの世界に去っていく。 まったく救済のない物語。。。

アンドレーエフは、 漱石も恐怖をおぼえながら読んだという『七死刑囚物語』を書いた人だから、 根本的に暗い人なのか、 人間や社会のすべてを憎んでいるような厭世的な人なのか、、 だから『ラザロ』みたいな救いのない小説を書いたんだろか、、 などとつらつら思っていたそのころに、、

レオニード・アンドレーエフの肖像画をネットで見つけて、、 (イリヤ・レーピンの描いたものだった) 、、それがなんだかとっても意外な相貌だった。。 「Leonid Andreev」でググっていただければ、 たくさん画像が見れると思います (写真も多数残っているいるようです)、、 まぁ 端正な美青年。。 たしかにちょっと神経質そうな雰囲気もあるものの、 肖像画だけ先に見た人なら、 まさか『ラザロ』のごとき暗黒な世界を書く人とは思わないんではないかしら・・・

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で、、 今回 漱石の美術展のことでまた漱石とアンドレーエフの事を 思いだして、、(美術展にアンドレーエフは関係ありません)

ふたりとも全くの同時代人で、 まるで兄・弟のような年齢なのですね。 漱石(1867年 - 1916年 享年49)、 アンドレーエフは4歳年下(1871年 - 1919 享年48)

そう思ったら、 アンドレーエフという人が(肖像を見たからか) 急に『それから』の代助か、 『行人』のお兄さんみたいに思えてきた。。。 というか、 とても漱石自身に似ている人、 と思えてきた。

「修善寺の大患」のあと、 漱石が書いた 『硝子戸の中』に病気からあとの心境を書いた部分がある。


 「私がこうして書斎にすわっていると、来る人の多くが「もう御病気はすっかり御癒(おなお)りですか」と尋ねてくれる。 私は何度も同じ質問を受けながら、何度も返答に躊躇した。そうしてその極いつでも同じ言葉を繰り返すようになった。 それは「ええまあどうかこうか生きています」という変な挨拶に異ならなかった。」(30)

、、周知のとおり、 漱石はこのあとも胃潰瘍などに苦しみ、2年足らずのうちに亡くなってしまうので とても「元気」と言える状態ではなかったのでしょう、、 漱石はその後、 「どうかこうか生きています」という挨拶をやめて、 「病気はまだ継続中です」と改めることにした。


 「私はちょうど独逸が連合軍と戦争をしているように、病気と戦争をしているのです。 今こうやってあなたと対坐していられるのは、天下が太平になったからではないので、塹壕の中に這入って、病気と睨めっくらをしているからです。 私の身体は乱世です。 いつどんな変が起こらないとも限りません」
  或人は私の説明を聞いて、面白そうにははと笑った。 或人は黙っていた。 また或人は気の毒らしい顔をした。・・・


、、ふと 『ラザロ』について、 このときの漱石の気持ちを思い出したのでした。。。 この時の漱石の気持ち、、 私もすごくよくわかります。 「もうすっかりいいの?」 「元気そうだね」、、 たいがいの人は優しい気持ちでそう言ってくれるのでしょうけれど、 切り傷がすっかりきれいに治るのと違って、 いろんな病気や手術をした人は その後もずっとずうっと病と向き合いつつ、 表向きの仕事や生活は 「普通に」 していかなきゃならない日々が続く。。。

病気に限らず、 大震災や、 大きな事故とか、 心身に大きな負担をおった人にとって、 「もうすっかりお直りですか?」 なんて言えるものではないのだ。 それ以前の状態とはまったく同じようにはなれないのだと思う。。。 「元通りになったね」 「元気そうだね」 、、 悪意はなくてもそういう励ましに、 「全然そうじゃない」と苦しい思いをする人も本当にたくさんいるんだろう。

そういうことなんじゃないかな、、 『ラザロ』の物語とは。。。 復活を無邪気に喜ぶ周囲のひとびとと、 いったん極限の状況を体験してしまったラザロとの、 解り合えない歪み、、 悲しみ。。 だから、 ラザロは口を閉ざしたまま たったひとりで苦しみに耐えているのかと。。

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漱石蔵書にアンドレーエフは5冊くらいあるようだけれど、 たぶん『ラザロ』は読んでいないかな、、。 

漱石はこののち、 書斎の『硝子戸の中』から「微笑」しつつ、 自分の事さえも「他人」をみるようなこころもちで、 おだやかに「世間」を眺めている心境に至る。。 「則天去私」、、という心境。

アンドレーエフという人の背景をほとんど知らないので、、(革命後はフィンランドに亡命したらしい、、) 晩年の人生がどうだったかわからないけれど、、 今度、 最後の作品というのを読んでみようと思っている。

TVを見てて思ったこと、、「坂の上の雲」最終話の「漱石」

2012-01-04 | 文学にまつわるあれこれ(漱石と猫の篭)
3年にわたる「坂の上の雲」のドラマ化、、 最終回はその日に見れなかったので お正月に見ました。 この3年、ほんとうに楽しませてもらったし、 俳優さんたちも、 ロケの見事さも、 すばらしいものでした。

が、、 ちょっと細かいことを…

先に見ていた友が、、 「漱石が出てきたんだけど… あんな話するかなぁ、、って思ったんだけど、、 見てみて」、、と。。。

《あんな話》、、というのは、 正岡子規の家にホトトギスの同人が集まっている席に、 漱石が『吾輩は猫である』の原稿を持って現れ、 そこで漱石が「大和魂」を茶化す発言をして 子規の妹・律になじられる、、、というもの。

「命懸けで戦地にいる軍人を馬鹿にしているみたいだ」、、と責める律に、 漱石は、、「文学者などはいざとなったら軍人を頼るしかない… その妬みです」と言って 「謝ります」と手をつく、 というシーン。


漱石がこの時期、 子規庵に行ってあんな風にぺらぺら喋るかしら、、というのがひとつ。

律に責められて、「謝ります」、、なんて言うかしら、、というのがひとつ。

そもそも英国から帰って来た後の漱石が、 子規と戯れていた学生時代の雰囲気のままなのはおかしい、、 というのもひとつ。。

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ちょっと検索してみたら、 このシーンは変だ、 と仰るブログなどがたくさん出てきました。 そうですよね。。 総合すると、 司馬さんの原作にはこのシーンは無くて、 今回のドラマ独自の脚色らしい。 漱石が「謝る」のはおかしい、 という意見もほとんどでした。

件の《大和魂》に関する漱石のことばは、『吾輩は猫である』の第6章に出てくる内容とおなじだったと思います。 『吾輩は…』は『ホトトギス』に連載されたから、 原稿を持ってきた漱石が、 つい先ほどまで面白おかしく書いていた原稿のノリで 《大和魂》を茶化すようなことを口走ったと、、 そういう脚色にしたと想像してみましょう。。

そこまではまぁいいとしても、 「自分などは結局は軍人を頼みにするしかない…」 と言って、手をついて「謝る」というのは、 漱石を読む人のほとんどが違和感を覚えるのではないでしょうか。 ましてや、 のちの文章で、 いっときの戦勝国になった日本への懐疑をさまざま書き残している漱石ですし、、、

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《大和魂》という言葉は、 漱石作品の中で、 ほぼ同じ時期にもう一度出てきます。 『吾輩は…』の翌年、 明治39年1月に発表された 『趣味の遺伝』という作品。

物語はいきなり 殺戮の幻想シーンからはじまる。 、、、歩きながら幻想に耽っていた語り手「余」が 我にかえると、 兵士たちの凱旋の行列にいきあたる。 旅順からの凱旋兵の列。。 それを見て「余」はさきほどまでの自分の幻想を、 こう思う…

「戦争を狂神の所為(せい)の様に考えたり、 軍人を犬に食われに戦地へ行く様に想像したのが急に気の毒になって来た」、、

、、つまり、 兵士たちが犬に喰われるシーンから物語は始まるのです。

そして、 色の黒い、 胡麻塩髯の将軍、 すなわち「乃木大将」とおぼしき人物の凱旋に、 通りの人々が「万歳」の声を上げる。 、、しかし「余」は… 

「将軍の髯の胡麻塩なのが見えた。その瞬間に出しかけた万歳がぴたりと中止してしまった。何故?」

、、、そして《大和魂》という言葉は、 将軍が通り過ぎたあとの、 兵士たちの場面で出てきます。

「…所へ将軍と共に汽車を下りた兵士が三々五々隊を組んで場内から出てくる。 …いずれもあらん限りの髯を生やして、 出来るだけ色を黒くしている。 これ等も戦争の片破(かたわ)れである。 大和魂を鋳固めた製作品である。 実業家もいらぬ。 新聞屋もいらぬ。 芸妓もいらぬ。 余の如く書物と睨めくらをしているものは無論いらぬ。…

、、、「坂の上の雲」で 漱石が「文学者などは結局は軍人を頼みにするしかない」と言った点と、 共通する表現とも言えます… が、そうなのでしょうか。。 、、この点は、 それぞれお読みになって判断いただければ、、と。。。

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第2章は、 旅順で戦死した友人の「浩さん」についての話になります。 「余」は「松樹山の突撃」の様子を想像し、 「浩さん」の最期の様子を想像します。 長い文章ですので、 ところどころだけ拾い上げますが…

「…塹壕に飛び込んだ者は向へ渡す為に飛び込んだのではない。 死ぬ為めに飛び込んだのである。… 横わる者だって上がりたいだろう、 上りたければこそ飛び込んだのである。 いくら上がりたくても、 手足が利かなくては上がれぬ。 眼が暗んでは上がれぬ。 胴に穴が開いては上がれぬ。…

「…寒い日が旅順の海に落ちて、 寒い霜が旅順の山に降っても上がる事は出来ん。ステッセルが開城して… 日露の講和が成就して乃木将軍が目出度く凱旋しても上がる事は出来ん…」

 ***

、、このあと、 物語の筋は少々変わった展開になっていきます。 これも 漱石流の 妙な芸術論やら、 しまいにはややこしいスピリチュアルな話などになっていきますので、 大筋だけ、 ごくかいつまんで書きますが、、 

戦死した「浩さん」の墓参りに行くと、 見たことのない若い女性とすれ違う。。 「浩さん」の墓には白い菊が供えてある。 、、後日、 「浩さん」の家で母親から「浩さん」の遺品である日記を見せてもらうと、 そこには、 決戦を前にして仮眠中に「女の夢」を見たと書かれていた。 郵便局で一度見かけただけの女だという、、

、、そして 「余」は人づてに女のことを調べていくと、、、 結局は、 郵便局で一度見かけただけの女のほうも、 「浩さん」のことを慕っており、 それで墓参りをしていたのだと、、、 そういう 出来すぎた物語なのですが… 


物語の最後はこのように終わっています。

「余は色の黒い将軍を見た。…ワーと云う歓迎の声を聞いた。 そうして涙を流した。 浩さんは塹壕へ飛び込んだきり上って来ない。 誰も浩さんを迎に出たものはない。 天下に浩さんの事を思っているものはこの御母さんとこの御嬢さんばかりであろう。 余はこの両人の睦まじき様を目撃する度に、 将軍を見た時よりも、 軍曹を見た時よりも、 清き涼しき涙を流す。…」  

 ***

抜粋ばかりなので、 もし関心のある方はぜひ 『吾輩…』の他に、『趣味の遺伝』も読んでみてください。 

、、なんだか、、 ここまで書いてみて思うのです。 最初の「坂の上の雲」の話に戻って、、 漱石は、 たぶん ひとりひとりの 軍人のためになら「謝る」かもしれません。 ひとりひとりの軍人に対して、 自分は無力だと思うかもしれません。

でもそれは、 「塹壕へ飛び込んだきり上って来ない」 無数の兵士のことが頭にあるから、、 なのでしょう。


ひさしぶりに 漱石について書いてみました。

ロンドン漱石記念館に、

2010-08-20 | 文学にまつわるあれこれ(漱石と猫の篭)
漱石の銅像ができた、、と 今朝の新聞に載っていましたね。(asahi.com>>) 110年前に英国留学をしていた、 〈イケメン漱石〉の像、、だそうです(笑)

、、で、 その話はちょっと置いて、、

 ***



そもそもは、、『怪奇幻想の文学〈6〉啓示と奇蹟』 (新人物往来社・1979年) という本を図書館から借り、、 これは短編小説集なのですが、 この中の面白い作品のことをちょっと書こうかな、、 と 思っていて、、、 では書籍の情報をリンクしよう、と Amazonを見てみたらば、、、

古書にとんでもないお値段がついていた。。。(うっわぁ、、驚!)

『怪奇幻想の文学〈6〉啓示と奇蹟』 (Amazon.co.jp) 定価1200円

30年以上も前の本ではありますが、、、 これでは誰も読めないぢやないか。。。(泣) ちなみに、 この本の解説をしているのは、 故英文学者の由良君美先生なのですが、、 由良さんの本をためしにあたってみた。。。

『椿説泰西浪曼派文学談義 増補版』 (青土社・1983年) Amazon.com 定価1800円

由良さんといえば、 英文学の中でも 幻想・怪奇文学の紹介者として、、 仏文学の澁澤龍彦さん、独文学の種村季弘さん、と並ぶ博覧強記の方。 澁澤本は、 今でも文庫などで若い人もたくさん読むと思うけれど、、 英文学にはあまりに絶版が多すぎる。。

、、と 愚痴っても仕方ないので、、 古書に何万円もお金の掛けられない私たち、 もっと公共図書館を利用しましょう! 絶版書だって立派に書庫に眠ってます。。 (ほんとに眠ってるのが 哀しい、、) 近隣の図書館に無くても、 国会図書館や都立図書館からだって取り寄せられますもの。

さて、 『椿説泰西浪曼派文学談義 増補版』の目次は
 
類比の森の殺人
夢のフーガ
衆魔と夢魔
四元素詩学
自然状態の神話
サスケハナ計画
ランターズ談義
ベーメとブレイク
啓示とユートピア
ゴヤとワーズワス
幻想の地下水脈
ヘルマフロディトスの詩学
ミミズク舌代
悪夢の画家
イギリス絵画漫歩
伝奇と狂気
ゴシック風土
ヴィクトリア時代の夜
ロマン派音楽談義

 ***

由良さんの本はとても手に入りにくいので、、 その直系のお弟子さんである 高山宏先生(wikiがあった>>)の 「超」面白い 「超」英文学の本を。 これなら今でも入手できるでしょ。。。

文学が、 科学や 産業技術や 美術や 交通や 娯楽etc と同じ地平のものである、、という、 本当に当り前と言えばあたりまえの、、 でも ほとんどの学校の先生は誰も教えてくれなかった事を 目からウロコ状態にさせてくれる講義です。

、、で、 冒頭の話に繋がりますが、 110年前に漱石がロンドンへ留学して、 地下鉄も、 劇場も、 美術館も、 自転車も、 公害も、、 明治の日本と違うなにもかもに吃驚して、、 これでは文学書ばかり読んでいたって ブンガクはわからん! と思い知った、、という その事とおんなじ話なのです。  

『奇想天外・英文学講義―シェイクスピアから「ホームズ」へ』  (講談社選書メチエ・2000年)

目次
第1章 シェイクスピア・リヴァイヴァル
  アンビギュイティ/エリザベス朝と一九二〇年と一九六〇年代は似ている/表象と近代
第2章 マニエリスム - 驚異と断裂の美学
  薔薇十字団/絵と文字の関係
第3章 「ファクト」と百科 - ロビンソン・クルーソーのリアリズム
  だれも知らない王立協会/断面図とアルファベット順
第4章 蛇行と脱線 - ピクチャレクスと見ることの快
  「見る」快楽/造園術
第5章 「卓」越するメディア - 博物学と観相術
  手紙と日記と個室/テーブルと博物学/観相術の流行/デパートの話をばちょっと
第6章 「こころ」のマジック世紀末 - 推理王ホームズとオカルト
  レンズとリアリズム/オカルティズムへ
第7章 子供部屋の怪物たち - ロマン派と見世物
  幻視者キャロル/怪物学とグロテスク
エピローグ - 光のパラダイム

 ***

上記の本を、 主に その時代の〈視覚〉の発明・発見と文学の関係 を中心に詳説したのがこちら。 話は17世紀から19世紀末に亙ります。

『目の中の劇場―アリス狩り II 』 (青土社・1995年) 定価3600円

目次
星のない劇場
王権神綬のドラマトゥルギー -遠近法の政治学
目の中の劇場 -ゴシック的視覚の観念史
庭の畸型学 -凸面鏡の中の〈近代〉の自画像
迷宮の言語都市 -アンチ・ピクチュアレスクの一形式
光学の都の反光学 -ディケンズとザ・ピクチュアレスク
〈視〉に淫す -ヘンリー・ジェイムズの〈窓〉
死の資本主義 -マガザン・ド・デーユ周辺
悪魔のルナパーク

、、貴重な図版や 参考文献の紹介もどっさり。 数ある高山センセイの本の中でも 一番お世話になった本です。 、、とは言え、 こちらも入手困難ですから、 文庫本で出たこちら↓が、 ほぼ内容的に重なっているのではないかと思われます。(私は未読ですが)

『近代文化史入門 超英文学講義 (講談社学術文庫)

 ***

夏目漱石が ウォルポールやベックフォード、 アラン・ポーといった幻想怪奇小説を結構好きだったというのは、 今ではわりと知られていますし、 上記『目の中の~』の最後に 〈ルナパーク〉 とありますが、 〈遊園地〉、、 つまり 劇場や、 水族館や、 博覧会みたいなものも含めた意味での娯楽施設で余暇を楽しむことに、 19世紀末のロンドン市民は夢中になったわけですが、 そういうのも漱石の 『虞美人草』に出てきますよね。

、、、 というわけで、 最終的には 国民的作家 漱石先生に戻って来ました。 目からウロコの英文学史に触れたら、 漱石作品を読みなおしてみては、、? 

きっと 目からウロコ、、だと思います。
 


光線の圧力: 『三四郎』

2010-06-16 | 文学にまつわるあれこれ(漱石と猫の篭)
きのう、 メロトロンさんからコメントをいただいて、、 

宇宙を永遠に旅する「ボイジャー」のことを思い浮かべていた矢先、、 こんなニュースが載ってました。 「宇宙のイカロス 太陽光で輝く姿」、、(asahi.com>>

、、、そうでした、 この「イカロス」は、 宇宙でヨットのように帆をひろげて、 光を受けて進むのでした。。。 風もない宇宙で、、 どうやって? と最初おもったら、、 「光の圧力」を帆に受けるんですって。。。 光に「圧力」って、、あるの?? そんな話題をTVでやっていましたっけね。

「光の圧力」で思い出しました。 夏目漱石の『三四郎』の中で、 三四郎が 野々宮さんの「光線の圧力」の実験を見せてもらうシーン。 確か、 野々宮さんは 東大の物理学の院生で、 研究室でひたすらその光線の粒子を 箱の中で飛ばす実験をしていたのでしたね。 、、この 野々宮さんの実験は、 漱石のお弟子さんで物理学者だった 寺田寅彦さんから聞かせてもらった話を使ったのだということでした。

、、そのあと三四郎は、 今で言う「三四郎池」のほとりに来て、、 野々宮さんの実験は 現実世界に何の関係があるのか全くわからないけれども、、 なんとなく自分も 「いっそのこと気を散らさずに、 生きた世の中と関係のない生涯を送ってみようかしらん」、、などと思うのです。 、、、そんな三四郎がふと眼をあげると、、 池の向こうの丘に、 夕日をうけて 着物に団扇をかざした女のひとが立っている。。。 (その女性が美禰子なんですけど)、、 さっきまで野々宮さんの生き方に感化されそうになっていた三四郎は、 やっぱりすぐに「現実世界」に引き戻されてしまうのです、、、 若いね(笑)

『三四郎』の季節はめぐっていくのですけど、、、 なんだか 三四郎は夏の小説、 という感じがします。 三四郎池の鬱蒼とした緑、、 美禰子が落として行った白い薔薇、、 三四郎と奇妙な出会いをした (でも私がいちばん好きな)広田先生の大好物の 水蜜桃。。。 

、、話 逸れました。

漱石の時代には、 野々宮さんの行なっていた「光線の圧力」の実験は、 いったい現実世界となんの関係があるのか まだまだ わからない時代でしたが、、 100年たって、 光の圧力は 立派に宇宙帆船「イカロス」に現実に利用されることになったのですね。。。 寺田寅彦さんも、 そして漱石も きっと、 興味津々でこの話題を耳にすることでしょうね。

ひさしぶりに 寺田寅彦さんの随筆も、、 読みたくなりました。

、、 そうそう、、こんな本もありましたね、、、
漱石とあたたかな科学―文豪のサイエンス・アイ 』 小山慶太著 (Amazon.com)


漱石山房をめぐってあれこれ、、(漱石、スティーヴンソン、中島敦)

2008-02-10 | 文学にまつわるあれこれ(漱石と猫の篭)
金曜日の「芸術劇場」で、ロンドンのドゥルーリー・レーン劇場が取り上げられるとTV欄にあったので、見てみた。ドゥルーリー・レーンといえば、夏目漱石研究者ならばピンと来る筈ですが、倫敦留学時代に漱石が「眠れる森の美女」を観た劇場です。 私もそんな興味で見てみたのですが、「ロード・オブ・ザ・リング」の模様を少しやっていて、巨大な舞台装置にさまざまな光の演出で(何十億円とかって言われてましたね)、、すご~い! 観てみたい~と思いました。。 伝統的に、ミュージカルを主とした劇場なのでしょうか。

漱石は、、といえば、、

  夜田中氏トDrury Lane Theatre ニ至ル Sleeping Beauty ヲ見ン為ナリ
  是ハ pantomime ニテ去年ノクリスマス頃ヨリ興行シ頗ル有名ノ者ナリ
  其仕掛の大、装飾ノ美、舞台道具立ノ変幻窮リナクシテ、、、(略)
           (明治34年3月7日の日記より)

、、と、そのきらびやかで美しい様子を、「極楽」のようだ、とか、「キーツ」や「シェリー」の詩の描写を具現したようだ、とか、、大満足して観たようです。日記の中で漱石は「パントマイム」と書いてますが、当時のパントマイムというのは今とは正反対で、歌や踊り、装飾も華やかで、巨大セットが上下するような、時代の最先端の視覚芸術だったようですね。。。 なるほど~、現在のドゥルーリー・レーン劇場のロード・オブ・ザ・リングなんかも、漱石大大好きのような、そんな気がします。なんたってファンタジー好き、アーサー王大好きの漱石ですから。。『三四郎』の中にも、広田先生が外国の劇場について、三四郎に話す場面がたしかありましたね、、。

 ***

と、、そんな矢先、、今度は、新宿区の「漱石公園」に、漱石が晩年を暮らした家「漱石山房」をもとにした「ベランダ回廊」が再現された、と朝日新聞の東京欄に載ってました。「漱石山房」については、前に一度書きました。あのバルコニー風の「回廊」がとっても私には興味があって、「どうして漱石はこんな南国趣味の家に住んだんだろう、、」って前にも書いてますが、、(>>)、、じつは、この「謎」には、私流の勝手な想像がありまして、、

あ、その前に、その「回廊」とは、、こういうものです。


こちらが再現された「回廊」




こちらが「漱石山房」



漱石は、スコットランドの作家、R・L・スティーヴンソンが大変好きでした。スティーヴンソンと言えば、『宝島』や『ジキル博士とハイド氏』が有名で、日本では少年少女が読む方が多いですが、『彼岸過迄』の中でも書かれてますが、スティーヴンソンの『新アラビア夜話』を漱石は大変興味深く読んでいて、中でも「自殺クラブ」に出てくる青年貴族のように、大都市の深部へ潜入して、其処で起こるどこか異常な出来事を覗いて見たい、、というわけで、ああいう短篇連作のような作品になったのですね。『ジキル…』にも通じる話ですが、、。

こういういわゆる「人間の自我の危機」みたいな作品を書いたスティーヴンソンが、肺結核療養の為もあって外国を巡り、晩年は南洋のサモアで現地の人々に慕われながら暮らした、、というのも、なんだか不思議な興味深い話です。
、、、で、、、私は「漱石山房」の写真を見た時から、勝手に、「きっとこれはスティーヴンソンの南国の家をイメージしたのかも!」と思っておりました。でも、、この家はべつに漱石が設計したわけでもなく、貸家を見つけて気に入って住んだものらしいですが、でも、、大きな芭蕉の葉といい、バルコニー風の回廊といい、その南国っぽさが気に入ったのでは?と、思ったものです。

さっき、たまたま、Robert Louis Stevenson を検索したら、wikipedia にスティーヴンソンがNYで過ごした別荘の写真が載っていました。それがとっても「漱石山房」に似てるの! 興味のある方はぜひご覧になってみて下さいな(wikipedia>>) 

ところで、スティーヴンソンと言えば、我が国の中島敦がスティーヴンソンの南洋生活を描いた、『光と風と夢』という作品があるのですね。中島自身も、スティーヴンソンに憧れ、パラオの通信員(でしたか?)として南洋で暮らしたのでしたね。『光と風と夢』、、ずっと読もうと思いつつ読めていないので、近いうちに必ず読みましょう。。 
スティーヴンソンと、夏目漱石と、中島敦、、、それぞれとても似たものを秘めた作家だと、思えます。。。 面白いですね~。

「東京」を楽しもうかな。。

2007-06-18 | 文学にまつわるあれこれ(漱石と猫の篭)
ここしばらく
「東京」にハマろうかと思っている。

というか、、去年までとにか~く忙しくて、街歩きする時間がなくて、
でもせっかく近代文学を少し齧ったのだから、明治・大正の「東京」の名残りを
楽しんでみたいな~、と考えていたの。

安直に言えば、
漱石の小説で、吾輩が喰っていた「空也餅」とか、食べてみたいな~、、みたいなことなの。
そうそう、たまたま先日、新聞にその「空也餅」のお店のことが載っていて、いまも銀座にあるのですが
「空也餅」は、冬の限定もの。
通年販売の「空也最中」も、2週間以上前に予約しないと買えない、って。。だから、開店と同時に閉店、なんだって。。
まあいいや、いつか予約してみよう。

食べ物屋さんはともかく、、明治・大正の小説に出てくる「東京」をもっと味わってみたくて。
しばらく前から、わりとそんな本や雑誌を、眺めています。
その中のひとつ、



東京「探見」-現役高校教師が案内する東京文学散歩/堀越 正光著

まずは、漱石ゆかりの、新宿・早稲田~四谷~市ヶ谷、そして、本郷~上野、あたりからかな。
新宿はまだ土地感があるのだけど、本郷のあたりは全然知らないのよね、、東大生にも縁無かったし(笑)
「三四郎池」にも行ったことないのよね。。

、、、と、そんなわけで、ぼちぼち楽しもうと思っている「東京歴史探訪」なのです。
つづきは、、また。


ソクラテスも、 プレトオも。。

2007-06-01 | 文学にまつわるあれこれ(漱石と猫の篭)
最近 とても人気の街 神楽坂。
TVで神楽坂の話題をやっているのをみて、
ふと、 昨夜よんだ本のことを思い出しました。

『戸川秋骨 人物肖像集』(みすず書房)

一般には今はほとんど知られていない文学者だと思いますが、
夏目漱石より3,4才年下、北村透谷や島崎藤村らと『文学界』の同人でもありました。
私は、 漱石のことをやっていた時、漱石が若き日に愛読した英国のロマンティックな小説『エイルウィン』を、戸川が翻訳したということで、その名を知りました。
でも、面白いことには、戸川秋骨は漱石と晩年まで深い親交があったにもかかわらず、漱石が『エイルヰン』を日本で初めて紹介をしたということは知らなかったそうです。漱石没後に翻訳を出版したとき、戸川秋骨はそのことを書いています。

基本的には英文学者、そして翻訳家で評論家でエッセイスト。
さきほど、藤村の名を出しましたが、藤村以降、自然主義文学といいますか、自らを「告白」するような小説が主流になっていくわけですが、戸川さんのエッセイを読んだ時、そういう狭さ、というか自己追求というようなものとは対極にある「広さ」をもった視点が、とってもユニークだったのでした。
ある意味、、 非常に「いいかげん」で、どこか飄々として、 でもとても大きな視野を持った エッセイ。

あ、、 神楽坂に話を戻しましょう。

「ソクラテス」というエッセイから。(以下、略しながらの引用です)

 ***

・・・何でも神楽坂を登り切って、右側の路次の奥・・・其処に西洋料理店があった・・・
・・私の記憶は極めてぼんやりして居るが、尾崎氏を訪れると、氏は必らず此処へ案内してくれたものであつた。・・・
・・尾崎氏はその快活な調子で、こうして食事をしながら、坐つて文学を談ずるのは面白いではないかと云ふやうな事を声高に語つて、頗る得意らしい風を見せた。・・・
・・私は丁度その時、詩人シエレエの訳になつたプレトオのシンポジヤムの、僅かに価十銭で売買されて居るカツセル本に収められてあるのを読んだ許りであつたので、尾崎氏に向つて、ソクラテスも門弟を集めて、饗宴を開きながら『愛』を論じたのですヨ、それが則ちプレトオのシンポジヤムです、と云つた。尾崎氏は大いに喜びいよいよ得意になつて、それは面白い、それでは此処をソクラテスといふ名にしようではないかと・・

 ***

と言い、内輪ではそのお店は「ソクラテス」と呼ばれた、ということが書かれています。ちょっと補足すると、その西洋料理店は、お座敷で洋食を出しているお店だったそうです。 ね? なんだか神楽坂ぽいでしょう? ちなみに、「尾崎氏」というのは「尾崎紅葉」のことです。

「お座敷」というのがここでは大事で、、 そうなのです、、 ゆっくり文学談義などするには、やっぱりお座敷がいいのです。私もこのくだりを読んで、故郷の「物書き」の仲間で何時間でも、お座敷で喋りつづけていた時間を思い出していたのです。「思い出して」、、というのは、私が今、そこへ行かれないから。。 先日も、仲間らはそういう時間を過ごしていたはずです。

で、ふと懐かしく思って、、 「物書き」の大将へ、電話をしてみました。 変わらないいつもの声。
ところが大将、、 なんとお孫さんの誕生の電話を今まっている所だ、って。。 3人目、ですって。。
きゃあ、、 お孫さんだって・・・!!!

それは失礼、と早々に話を切り上げ、 受話器を置く前に伝えました。

「秋にはきっと、 そっちに行かれるようになると思うから」

 ***

いつものお散歩コースに 紫陽花が色づきはじめました。
目に優しい 青 です。