星のひとかけ

文学、音楽、アート、、etc.
好きなもののこと すこしずつ…

counting the stars...

2007-08-01 | 文学にまつわるあれこれ(妖精の島)
8月になりました。

りんどうの青は、8月の夕闇色と、

旧盆をむかえる灯籠の走馬灯と、

ちろちろ燃える線香花火を 想い出させるから

ちょっとせつなくなる。

でも、 8月を象徴する好きな花だということはかわらない。

 ***

いま、読んでいる本。





デイヴィッド・アーモンド著、 金原 瑞人訳 『星を数えて』

このアーモンドさんの本は、前にも 『火を喰う者たち』や、『肩胛骨は翼のなごり』
について書きました(>>)。 
どれも、ヤングアダルト向け、というジャンルになっているけれど、、 なんとなく
青春まっただなかの人でなくても、ふと昔を振り返り、いまはいない誰かを思い出すことの多くなった
そんな世代の人にも、きっと心に触れる本ではないかと思う。

『星を数えて』、、は、
Amazonの説明文を読んでいただければ、わかるとおりの、19の物語。
、、アーモンドさんのこれまで読んだ本にも共通して感じていた、
とても強い喪失の記憶と、
でも、その喪失の記憶こそが自分を生かしてくれているような、救済のちから、、
その原点にあったものが、 この『星を数えて』に書かれていることだったんだな、
と気づかされる内容になっていると思います。

なんだかね、自分もそれと同じものを持っている気がするから、この本はあんまりスイスイ読めなくて、、
でも、、
8月だし、 私にとっても亡き人を想う月だし、
いい時に出会った本かもしれないな、と思うのです。。 

 ***

なんて、 追憶にしずんでいるわけではないのですよ。 今日は暑くなりそうですね!
これから用事を済ませがてら、
いつもの街をちょっとぶらぶらして来ようっと。

昨日とどいた、超ウレシイCD&DVDのお話は、またします~♪

8月って、なんだか短い気がしない、、?
夏を満喫されますように!

グラン・モーヌ -ある青年の愛と冒険-

2006-10-11 | 文学にまつわるあれこれ(妖精の島)
秋だから、
「本」や「映画」の話をたくさんしようと思う。

、、、大人になって、ずいぶん経ってからやっとわかったことだけれど、
子供時代を過ごした「場所」って、生涯、自分に影響するものなのですね。。
まえに書いたこともあるけれど、
私が育った場所には、小・中・高・大などなど、学校が7つほどもあったんです。
それから、大きな病院がふたつ。。
近所に、ぽつんと商店はあったけれど、いわゆる「商店街」というのが無くて、、
これは割と特殊なんだということに、相当経ってから気づきました。

秋の午後、、 思い出をたどれば、、
学校や病院を囲む土手には、金や赤の落ち葉が散り敷かれ、かえりみち、、
草の斜面を滑ったり、姫林檎の実をかじったり、、そんなのんびりした記憶ばかり。。
だって、覗いて見るお店とか、工場とか、なんにも無いんだもの。
その環境が、良いか悪いかはべつとして、、。少女の頃、オルコットが一番好きだったのも
19世紀のマサチューセッツという土地が、自分の想像力にはとてもしっくり来た為なのかもしれない、、と今になって思います。

 ***

『グラン・モーヌ』という小説は、そんな感じに、ちょっと似てる。1890年代のフランスの田舎が舞台。
物語の語り手、フランソワは15歳の少年。両親は教師で、赴任先の村に着いたばかり。
、、、かつて、古い小学校などには、校舎の敷地内に先生の家があったりしましたが、
フランソワが住むのも校舎兼住居。
朝になれば父と母が先生になって、村の子供たちが登校してきます。

物語は、フランソワの家(学校)に、オーギュスタン・モーヌという少年が寄宿生として預けられるところから始まる。
「私たちがあの地方を去ってからやがて15年になるし、二度と再びあすこへ行くこともないだろうと思う」
、、と、こんな回想録風に、すでに今は大人の〈私〉が15歳の記憶をたどるように綴られます。

母に連れられて来たはずのオーギュスタンは、挨拶の場にもいずに、どうやら屋根裏部屋を歩き回っている様子。。
〈私〉と家族のいる戸口にあらわれた彼は、「それは17歳くらいの、丈の高い少年だった」、、、
そうしておもむろに〈私〉を外へ誘い、屋根裏で見つけたという未使用の花火に火をつける。
自分より大人で、背が高く(だから大きな=グラン・モーヌなのです)、予想外の行動に出るモーヌに、
フランソワは憧れのような感情で魅了されてしまいます。

こんな始まりだと、なんだか少女漫画風の少年たちの物語なのかな、、と思ったのですが、、。
ある日、、毎年恒例で訪れる祖父母を出迎えるため、フランソワはお父さんに馬車で駅まで行くように命じられ、
ところが、お父さんが借りた馬車よりも、もっといい馬の引く馬車があるのを聞いたモーヌは
独り勝手にその馬車を御して、駅をめざして行ってしまうのです、、、そして、モーヌは行方不明に、、
乗り手のいない馬車だけが帰ってくるのです。
モーヌは、4日目に学校へ戻って来ました。道に迷っていたのでした。

その彷徨いの3日間の出来事について、、フランソワはモーヌから話を聞こうとするのですが、、。

この小説の魅力は、
書き手フランソワが15年間の記憶をたどって書いているかたちになっているので、わからない部分はわからない。
モーヌが次第に明かす話もまた、道を失って彷徨った記憶なので、おぼろげで、曖昧で、おとぎ話みたい。。
空腹と疲れと闇の中でモーヌが見るのは、古めかしい屋敷にむかって駆けて行くおめかしした子供。
、、、?、、、(なんだか、不思議の国のアリスみたいじゃない?)、、
そうなの、この屋敷での出来事は、まるでフェリーニの映画か、デレク・ジャーマンの描く不思議なパーティーみたい。。。
(これって現実なの? 疲れて見た夢なのかしら?)・・・さあ、ここからほんの少しネタばれ・・・

 ***

学校に帰り着いた後のモーヌは、それまでのモーヌではもうないのでした。
だって、、彼は、愛することを知ってしまったから。。
モーヌは、、その屋敷でとても美しいひとに出会ったのです。
そして、その夢か、現実か、わからないような〈祝宴〉のことをモーヌはフランソワに語り
ふたりはもう一度、その不思議な屋敷を見つけ出すこと、そして、たったひと言だけ言葉を交わしたひとを、
見つけ出そうと思うのです。
、、、(この展開は、まるで中世の騎士物語や、妖精物語、みたいね)、、、

はじめに引用したように、語り手のフランソワは、30歳くらいになっているわけです。
モーヌは、その後、どうなったのでしょう? その美しいひとに出会えたのでしょうか?
一方のフランソワの境遇は、今は?
、、、これらはみんな物語の後半で明かされます。。
すご~くロマンティックなお話です。 そしてそして、、(泣いてしまった、、モーヌにも、フランソワにも、、)

 ***

著者のアラン=フルニエは、この作品たった1作を書き上げ、第1次大戦に出征。
そのまま行方不明となりました。27歳の生涯でした。。
物語のように、彼の両親も、村の学校に住み込みで教える教師だったそうです。

、、、この小説は、1966年に映画化されているのですって。。
グラン・モーヌ役には、ジェラール・フィリップの名が上っていたそうですが、
アラン=フルニエの死後、著作の管理をしていた妹が
「モーヌをやる役者はその後、他の役をやってはいけないと」(解説・317頁)、、というわけで
本当に、モーヌ役のかたのフィルモグラフィーはごく僅か、、(IMDb>>)。
うゎぁ、絶対に見てみたい、、きっと見ます、なんとか見つけて。。(邦題は「さすらいの青春」)

おとぎ話みたいなんだけどね、、、お伽話のような現実だってあるんだってこと、、信じられる貴方へ、、。

グラン・モーヌ/アラン=フルニエ/みすず書房

愛蘭の宝石 :J.M.シング『アラン島』

2006-02-19 | 文学にまつわるあれこれ(妖精の島)
 

   来る日も来る日も霧がたれこめて一週間になる。僕は、流刑になって
  寂しさをかみしめているかのような、不思議な感覚をあじわっている。
      ・・・
   雨は降りつづいている。だが、今晩は食堂兼居間(キッチン)に若者が
  大勢集まってきて、漁網のつくろい作業がおこなわれ、密造麦焼酎(ポチ
  ーン)も一瓶、隠し場所から持ち出されてきた。・・・こいつは、霧に閉
  ざされ、忘れ去られた世界に住む住民たちを正気のまま保つために、運命
  が確保してくれた飲料であるように思われる。

                (J.M.シング『アラン島』栩木 伸明 訳

     ***

去年、読みたいと書いた『アラン島』第一部からの抜粋。
このアラン島は、グラズゴーの西にある大きなアラン島(Arran)ではなくて、アイルランドのダブリンの正反対の西の果て、ゴールウェイ湾から切り離された辺りにある小さな3つの島、ここがアラン諸島(Aran Islands)。

この本を読みながら、シングの若き日の先輩、イェイツ先生の声も入ってる「W.B.イェイツを唄う」を聴いていました。イェイツ先生からシングを教えてもらったから。。

百年前、シングが滞在した家は、今は展示館になっているのだそう。。
シングがこの島を訪れたのは、夏の間だけで、島の厳しい暮らしを本当に知った、とは言えないのだけれど、〈本土〉から来た自分たちとは違う階級の〈文士さん〉(当時27才くらい)は、なんだか島人たちから愛されたみたいです、、そんな様子が本から伝わる。

先の引用のつづき、、

    ***

   ようやく雨が上がり、太陽が輝いている。その明るい暖かさは島全体を
  宝石の輝きできらめかせ、海と空を輝かしい青い光でいっぱいにした。
   僕は岩のうえに寝ころんでやろうと思ってやってきた。ここからは北の
  大島(アランモア)の黒い断崖が正面に見え、右手にはあまりに青すぎて
  まっすぐ見ると目に痛いゴールウェイ湾が広がり、左手には大西洋が横た
  わり、くるぶしの直下には切り立った崖が落ち、見上げれば、カモメが大
  きな群れをなしておたがいに追いかけあっている。たくさんの翼が真っ白
  な巻き雲のようだ。

    ***

・・愛蘭土の西の涯て、、、
行けないかもしれないけど、、、行ってみたいなあ、、、。

John Millington Synge についてのサイト(英文)>>

北風の夜の物語 :シュペルヴィエル「ノアの方舟」

2005-12-17 | 文学にまつわるあれこれ(妖精の島)
寒波に覆われた週末。
北風がほんとうにつめたい。

本当ならこの秋から冬にかけてあった3種類くらいのイベントを
ぜんぶまとめて、ついでにクリスマスまで一緒にしたような
そんなお祝いディナーを。
赤と緑のクロスで飾られたテーブルに
こんな時にしか着れない、柊色のベルベットドレスで。。

 ***

シュペルヴィエルの『海の上の少女』からは、先日も引用をしたばかりだけど、、またしてしまおう。。物語は「ノアの方舟」。こんな話だ。
雨は降り止まず、世界は水に沈み始めた。。ノアはあらかじめ定められた生き物たちを方舟に乗せる。追いすがって舟に乗ろうとする生き物がいる。しかし、その者たちはみな沈んでいった、、、。ひとりの泳ぎ手が最後の生き残りだった。男は舟に乗せて貰おうと懇願するのではなく、水の中で「場所には不足がないことを示した」。舟の動物たちは(ノアも)、「隠れてこっそりと肉の塊を投げてやった」。

 ***

 神に与えられた、生に対するこれほどまでの信頼を目の当たりにしたならば、最も冷酷な神自身でさえたじろいでしまうに違いない。
 明らかに物言わぬ大洪水警察の一員らしい巨大な鮫が泳ぎ手に近づいて来た。そして寝返りを打つと、頭の下についた目で彼を取り調べ始めた。しばらくして何ひとつ咎めることもなく彼から離れると、天使に合図を送った。天使は棒で泳ぎ手の頭を軽く叩いた。すると男は・・・(略)
     (綱島 寿秀 訳)

 ***

なるほど詩人の書く物語だ、、。ノアの方舟をひたすら泳いで追うひとりの男、、これだけでも一冊の物語になりそう。
詩人は、見慣れた世界、、自分なりに理解している世界に、新しい意味を与えてくれる。
・・・いつかクイーンエリザベス号に乗ろう、、と先日たわいも無い事を喋っていた。。いつか、船に乗ったら、この泳ぎ手の男を想い出すかもしれない。
泳げない私は、真っ先に海底に沈んで、、何になるのだろう。。

鷹の井戸

2005-07-14 | 文学にまつわるあれこれ(妖精の島)
仕事へ行こうと、地下鉄の駅をめざしていたら
足首に激痛が・・・な、なんだろう?
もともと腱膜とかが脆い病気なので、脱臼やら、腱鞘炎やらけっこうやっているのだけど、、、ともかく脚を引き引き、電車に乗って、薬局で湿布剤買って、あわてて貼った。右脚の靭帯は前に痛めたので、左脚も痛めると歩けなくなっちゃうじゃないか、、、頼むよ。。

 ***

先日、草月ホールで、アイルランドの詩人イエイツが書いた能『鷹姫』を鑑賞した。
戯曲『鷹の井戸』が書かれるまでのことについては、松岡正剛さんが「千夜千冊」で書かれているので詳しくはこちらを>>

シテ、ワキ、のある伝統的な能とはちがって、歌い手の人たちが、お面を被って、泉をとりまく「岩」に扮しているところなど、なんとなく現代演劇みたいな所も少しありました。が、謡がこだまする様にどんどん盛り上がっていく中で、鷹と化した姫が水面を羽ばたき踊るように舞うあたりの高まりには圧倒されるものがありました。静寂と神秘の世界だけではないのですね。

アイルランドの伝説の英雄、クーフリンは、鷹姫の舞いに魅せられて、水底へ沈んでしまったのでしょうか、、、。謡の中にもそれらしい部分がありましたが、林の中の丸い空間というのは、妖精の世界と通じる場所のことですね、、、だから泉も、姫も、、みんな妖精の見せる幻なのかもしれませんね。妖精好きのイエイツらしい能でした。

機会があったら、もっともっとお芝居を見てみたいんだけどな。。
マヌエル・プイグ原作、今村ねずみさんの「蜘蛛女のキス」も見たかったな。。でも、ねずみさんのモリーナでは美しすぎない? それに、プイグの言葉の世界を、可視的な世界にすることはものすごいリスクがあるでしょう、、、でも、だからこそ、舞台として挑戦してみたいのでしょうね。。(舞台「蜘蛛女のキス」>>)

そんな私はまた、、お勉強に戻らなくては、、、っと。。

ちょっと真面目に翻訳の話。

2002-03-04 | 文学にまつわるあれこれ(妖精の島)
先週末から公開になった「指輪物語」について、日曜日の朝日新聞に慶応大の巽教授が評を書いていた。

私の中では、ファイナルファンタジーVIIIの頃にファンタジー小説のマイブームがあって、その頃「指輪物語」も読んでみたのだけれど、当時(といっても3,4年前)の出版界はファンタジーが全然売れない時代。紀伊国屋あたりまで行くのも面倒だったので、近くの図書館で古い「指輪物語」を借りたのだけど、どうも翻訳がしっくり来ない。まずは舞台である「中つ国」でひっかかった。そして妖精というか小人の国は「ホビット庄」・・「庄」って・・? 他にも「枝垂川」とか出てくると(いったいここはどこ・・?)って思ってしまって、頭の中にはアジア的風景しか浮かんでこない。。それで読むのを止めてその本の発行年を見てみたら、たしか昭和40年代だった。

ファンタジーの古典ともいえる「指輪物語」をさしおいて、現代の「指輪物語」とアメリカで評されたフィーストの「魔術師の帝国」シリーズを私は先に読み終えていたので、なんだかそっちの方が断然面白く感じられて、この翻訳はなんとかならないものか、と内心思ったものだった。

 さて2002年、ハリーポッターにつづいての「指輪物語」の公開で、今、書店からは「指輪物語」の第1巻が消え失せている(売り切れで)。新聞の評で巽教授は、例の翻訳(瀬田貞二氏訳)にも触れている。剣士アラゴルンは「馳夫(はせお)」として親しまれ・・本来「夜盗」の意であったBurglarを「忍びの者」として性格付けたのは、瀬田氏の創造的名訳だった、と。。

 う~ん、そうなのだろうか・・。ホビット族が「忍びの者」だとしたら、何か全員黒頭巾を被っているとしか思えないんだけど。でも巽教授がおっしゃるんだから、そうなのかなあ、と私もちょっと考えを新たにしようかと思ってはみたものの、「馳夫」は無いだろう、日本人じゃないんだから。
 そもそもこの物語の舞台となる世界「中つ国」は「ミドルアース」との意からきているのだけれど、漢字は日本人にとって音より先に意味を感じさせるから、「中」と「国」の二文字があるという点だけでなんとなくアジア的な印象を受けてしまうのは私だけなのかな。ゲーム世代なら敏感にわかるだろうけれど、ファイナルファンタジーVIIの世界は「ミッドガル」だった。フィーストの小説では「ミドケミア」だった。それらも元祖であるこの「ミドルアース」をきっと意識しているはず。そういう世界に馴染んだ世代にとっては「中つ国」より「ミドルアース」の方が、妖精、魔法使い、ドワーフなどが登場する世界のネーミングとしては相応しいと思えるはずなんだけど。。

それにあくまで個人的な見方だけど、登場人物の名前というのは、作者トールキンにとっていかに多くのことを託したものだろうかと想像したら、たとえ日本人にこの物語を広く伝える積極的意志があろうとも、変えちゃいけないような気がするんだけどな・・。そしてすでにファンタジーゲームで育った子供が大人になってゲームや小説を作る時代だもの、たとえ昭40年代当時は「創造的名訳」だったにしろ、今は違う、と思う。翻訳、というものの意義にも深くかかわるこの話、いかが思われますか???

 映画の紹介サイトでは、さすがに「馳夫」ではなく「アラゴルン」だった。ちょっとほっとした。