星のひとかけ

文学、音楽、アート、、etc.
好きなもののこと すこしずつ…

言語表現の実、、、

2005-08-19 | 文学にまつわるあれこれ(ほんの話)
この夏、とある授業に出ました。
その先生がたいへんに美しく、そして
美しさと一緒に、愛らしさというか、可愛らしさというか、両方を持った素敵な先生でした。
「私は○○にとても興味があってね、、、」という、その興味を追い続けて、プロフェッショナルになられた方。

そういうプロフェッショナルな人というのは別に学問に限らず、音楽家であれ、宇宙飛行士であれ、職人さんであれ、、、そういう方の特別なお話を聞かせて貰えるのは、私にとって、例えばジェフ・ベックのLIVEでギターを聴くのと同じくらい胸がときめくこと。で、その方が素敵に可愛らしいなんて、とても魅力的ではありませんか?

だから、卒業しても私はきっとどこかの講座に出かけていったりするんだろうな。最前線にいる方で、しかも誰かに自分が苦労して培った、その成果と楽しみを、快く受け渡そうとしている方のお話は、じつに楽しくて、嬉しいものなんですもの。

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今年はサルトル生誕100年にあたる。
と、新聞の読書欄にありました。『サルトルの世紀』ベルナール=アンリ・レヴィ著、と、『サルトル 「人間」の思想の可能性』海老坂 武著、が並んでいた頁。いつも気になる書評は切り抜いておくのだけど、最近は切り抜いたきり忘れてしまう事も多くて、、、むやみに溜まるだけだし、、覚え書きはブログへ、、。

サルトルの『嘔吐』には、JAZZのレコードをかけるとても重要な場面がある。あそこを読んだ時、とても違和感を覚えた記憶がある。タイトル(今思い出せないけど)が書かれていて、歌詞の一部も書かれていた。その曲が流れ始めると、、、嘔吐感が消えるのだ。。。サルトルもカミュも(確か)JAZZが好きなようだけれど、言葉の描写の中に、文字表現を超えた、あるひとつの曲(その曲が聴覚をとおして心理に及ぼす作用を含めて)を重要な試金石にしてしまうこと、、、そのことはすでに言葉による描写を放棄していない? 「実存は本質に先立つ」と言った人の意識は、この曲で嘔吐が消えた瞬間、本質のもとに身を投げていないかしら、、、? 私は哲学者じゃないからよくわからないけど。。。

三島由紀夫の『憂国』の映画フィルムが発見されたという。
今までも映画が全く観られていなかったわけではないですが、このフィルムを元にDVD化も考えているとか。。余り観たくない映画ではある。。
決して思想的にどうのという意味ではなくて、『憂国』(小説)には感動を覚えました、高校生の頃。もう十数年読んでいないけれど、おそらく今読んでも美しいと思うでしょう、、、だからこそ、、三島の映像あるいは、写真作品には、意味を見出せないのです、、彼のコンプレックス以外、、、。割腹の血と内臓見せて、『憂国』の何を表現します、、、? 三島は実存主義者ではありませんから、、、言語表現において本質を描いてしまった(描けてしまった)ものを、なぜ映像化しますか、、、ね。

・・・などと、20世紀を代表する文学者ふたり、、ふと思い出していました。

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NHK-BS。。。せっかく、久しぶりに渋谷サンにお目にかかれると思って楽しみにしていたのに、、、「こんばんわ、渋谷陽一です」っていつものお声が聴けただけじゃないですか、、、(笑)