『ひとさらい』大和書房 1979年 澁澤龍彦訳 (薔薇十字社刊 1970年もあり)
1926年 42歳のとき刊行。
タイトルのとおり、 子供をさらってくる男の話。 、、でも 悪質な目的で、というより、 不幸な境遇にある子供を自分の家に住まわせ、 何不自由なく暮らせるようにするのが目的。
この男=ビガ大佐の背景はあまり詳しく書かれないのだけれど、 南米の出身で政治的に失脚して国を離れ、 今はパリに住んでいる。 夫妻には子供が無く、 それも子供をさらう理由のひとつではあるけれども、、 かと言って 恵まれない子を助けたいという慈善の意思だけでもないようだ。。
「子供たちを盗んだのは、わたしの中のアメリカ人だ」、、という言葉が終わりのほうで出てくる、、 ここでの「アメリカ」とは「南米」ということ。 この作品でも 「南米的」な何かが主人公を突き動かしているのがわかる。。 家長的なもの、、 大家族のあるじになるという憧れ? それによって失脚した「大佐」という自分が補完されるということ?
読みはいろいろとできるだろうけれど、 澁澤さんがこの作品に惹かれたのはそんなところではないだろう。 <あとがき>で書いているのは、、「さらわれてくる子供がたくさん出てくるけれども、それらの子供を描き出す作者の筆がじつに卓抜で、やさしくて、また時にユーモラスでさえあるのは、詩人シュペルヴィエルが同時に散文作家としても、したたかな一面を持っている証拠のように私には思われる」、、 という「描写」の妙につきるのではないかな。。
澁澤さんが 「好ましい」と書いている最初の、 アントワアヌという子供がさらわれる場面でも、 連れ去られるアントワアヌは 自分の状況にとまどい不安になりながらも、 不思議な「夢見ごこち」にとらわれているように書かれている。 自分がこれからどうなってしまうのか、、 怖いというよりも、 どこかうっとりとした、、、
***
思わぬいきさつで、 大佐は少女をひきとることになるのだけれど、、
ここから大佐が、、変わってしまう。。 少女に恋してしまう。。。 立派な淑女に育て上げるつもりの家長でありながら、、、
「ナオミ」を見つめる谷崎潤一郎の眼、、というよりも、 この作品の大佐と少女はまさに「バルテュス」の絵! ずっとバルテュスの絵が頭から離れませんでした。 澁澤さんの翻訳だから尚更、、なのかな?
大佐の部屋のドアが開いているのを承知で、 そこから見えるソファで「狸寝入り」をする少女、、 などまさにバルテュス、、でしょう?
、、でも 松岡正剛さんによると、、 そのようにバルテュスに「病んだ精神身体」を見るのはまちがい、、だそうなのですが、、 (千夜千冊『バルテュス』>>)
***
バルテュスはさておき、、 養父という自分と 恋する男という自分のあいだでうろたえる大佐の姿も、、 やはり「南米的」なものと、 「パリ」的なものとのせめぎ合いとしてとらえることも出来そうです。 、、なぜなら、 最終的に大佐はほんものの「家長」となるべく 船に子供たちをのせて大西洋を故国へ帰ろうとするからです。
ですが・・・
、、澁澤さんは シュペルヴィエルを「ずいぶん意地わるなひとだと思う」と書いていますが、 そうやって苛まれうろたえる大佐を シュペルヴィエルが「意地わる」な眼で描いたと同じく、 澁澤さんも翻訳しながら「意地わるく」楽しんでいたに違いないと思えるし、 (みんな意地わるなんだから、、)と思いつつ 私も楽しんで読むのでした。
、、さらわれてきた子供のひとり、、 悪ガキのジョゼフもなかなか魅力的で、、 この作品はバルテュスの挿絵はムリとしても、 澁澤さん訳で、 誰かの挿絵で、 そういう美しい本になったら素敵だと思います。
金子國義さん… ちょっと刺激的すぎ?
1926年 42歳のとき刊行。
タイトルのとおり、 子供をさらってくる男の話。 、、でも 悪質な目的で、というより、 不幸な境遇にある子供を自分の家に住まわせ、 何不自由なく暮らせるようにするのが目的。
この男=ビガ大佐の背景はあまり詳しく書かれないのだけれど、 南米の出身で政治的に失脚して国を離れ、 今はパリに住んでいる。 夫妻には子供が無く、 それも子供をさらう理由のひとつではあるけれども、、 かと言って 恵まれない子を助けたいという慈善の意思だけでもないようだ。。
「子供たちを盗んだのは、わたしの中のアメリカ人だ」、、という言葉が終わりのほうで出てくる、、 ここでの「アメリカ」とは「南米」ということ。 この作品でも 「南米的」な何かが主人公を突き動かしているのがわかる。。 家長的なもの、、 大家族のあるじになるという憧れ? それによって失脚した「大佐」という自分が補完されるということ?
読みはいろいろとできるだろうけれど、 澁澤さんがこの作品に惹かれたのはそんなところではないだろう。 <あとがき>で書いているのは、、「さらわれてくる子供がたくさん出てくるけれども、それらの子供を描き出す作者の筆がじつに卓抜で、やさしくて、また時にユーモラスでさえあるのは、詩人シュペルヴィエルが同時に散文作家としても、したたかな一面を持っている証拠のように私には思われる」、、 という「描写」の妙につきるのではないかな。。
澁澤さんが 「好ましい」と書いている最初の、 アントワアヌという子供がさらわれる場面でも、 連れ去られるアントワアヌは 自分の状況にとまどい不安になりながらも、 不思議な「夢見ごこち」にとらわれているように書かれている。 自分がこれからどうなってしまうのか、、 怖いというよりも、 どこかうっとりとした、、、
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思わぬいきさつで、 大佐は少女をひきとることになるのだけれど、、
ここから大佐が、、変わってしまう。。 少女に恋してしまう。。。 立派な淑女に育て上げるつもりの家長でありながら、、、
「ナオミ」を見つめる谷崎潤一郎の眼、、というよりも、 この作品の大佐と少女はまさに「バルテュス」の絵! ずっとバルテュスの絵が頭から離れませんでした。 澁澤さんの翻訳だから尚更、、なのかな?
大佐の部屋のドアが開いているのを承知で、 そこから見えるソファで「狸寝入り」をする少女、、 などまさにバルテュス、、でしょう?
、、でも 松岡正剛さんによると、、 そのようにバルテュスに「病んだ精神身体」を見るのはまちがい、、だそうなのですが、、 (千夜千冊『バルテュス』>>)
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バルテュスはさておき、、 養父という自分と 恋する男という自分のあいだでうろたえる大佐の姿も、、 やはり「南米的」なものと、 「パリ」的なものとのせめぎ合いとしてとらえることも出来そうです。 、、なぜなら、 最終的に大佐はほんものの「家長」となるべく 船に子供たちをのせて大西洋を故国へ帰ろうとするからです。
ですが・・・
、、澁澤さんは シュペルヴィエルを「ずいぶん意地わるなひとだと思う」と書いていますが、 そうやって苛まれうろたえる大佐を シュペルヴィエルが「意地わる」な眼で描いたと同じく、 澁澤さんも翻訳しながら「意地わるく」楽しんでいたに違いないと思えるし、 (みんな意地わるなんだから、、)と思いつつ 私も楽しんで読むのでした。
、、さらわれてきた子供のひとり、、 悪ガキのジョゼフもなかなか魅力的で、、 この作品はバルテュスの挿絵はムリとしても、 澁澤さん訳で、 誰かの挿絵で、 そういう美しい本になったら素敵だと思います。
金子國義さん… ちょっと刺激的すぎ?