星のひとかけ

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ジュール・シュペルヴィエルの小説 2 『ひとさらい』

2013-02-07 | 文学にまつわるあれこれ(妖精の島)
『ひとさらい』大和書房 1979年 澁澤龍彦訳 (薔薇十字社刊 1970年もあり)
1926年 42歳のとき刊行。

タイトルのとおり、 子供をさらってくる男の話。 、、でも 悪質な目的で、というより、 不幸な境遇にある子供を自分の家に住まわせ、 何不自由なく暮らせるようにするのが目的。

この男=ビガ大佐の背景はあまり詳しく書かれないのだけれど、 南米の出身で政治的に失脚して国を離れ、 今はパリに住んでいる。 夫妻には子供が無く、 それも子供をさらう理由のひとつではあるけれども、、 かと言って 恵まれない子を助けたいという慈善の意思だけでもないようだ。。

「子供たちを盗んだのは、わたしの中のアメリカ人だ」、、という言葉が終わりのほうで出てくる、、 ここでの「アメリカ」とは「南米」ということ。 この作品でも 「南米的」な何かが主人公を突き動かしているのがわかる。。 家長的なもの、、 大家族のあるじになるという憧れ? それによって失脚した「大佐」という自分が補完されるということ?

読みはいろいろとできるだろうけれど、 澁澤さんがこの作品に惹かれたのはそんなところではないだろう。 <あとがき>で書いているのは、、「さらわれてくる子供がたくさん出てくるけれども、それらの子供を描き出す作者の筆がじつに卓抜で、やさしくて、また時にユーモラスでさえあるのは、詩人シュペルヴィエルが同時に散文作家としても、したたかな一面を持っている証拠のように私には思われる」、、 という「描写」の妙につきるのではないかな。。

澁澤さんが 「好ましい」と書いている最初の、 アントワアヌという子供がさらわれる場面でも、 連れ去られるアントワアヌは 自分の状況にとまどい不安になりながらも、 不思議な「夢見ごこち」にとらわれているように書かれている。 自分がこれからどうなってしまうのか、、 怖いというよりも、 どこかうっとりとした、、、

 ***

思わぬいきさつで、 大佐は少女をひきとることになるのだけれど、、

ここから大佐が、、変わってしまう。。 少女に恋してしまう。。。 立派な淑女に育て上げるつもりの家長でありながら、、、

「ナオミ」を見つめる谷崎潤一郎の眼、、というよりも、 この作品の大佐と少女はまさに「バルテュス」の絵! ずっとバルテュスの絵が頭から離れませんでした。 澁澤さんの翻訳だから尚更、、なのかな?

大佐の部屋のドアが開いているのを承知で、 そこから見えるソファで「狸寝入り」をする少女、、 などまさにバルテュス、、でしょう?

、、でも 松岡正剛さんによると、、 そのようにバルテュスに「病んだ精神身体」を見るのはまちがい、、だそうなのですが、、 (千夜千冊『バルテュス』>>

 ***

バルテュスはさておき、、 養父という自分と 恋する男という自分のあいだでうろたえる大佐の姿も、、 やはり「南米的」なものと、 「パリ」的なものとのせめぎ合いとしてとらえることも出来そうです。 、、なぜなら、 最終的に大佐はほんものの「家長」となるべく 船に子供たちをのせて大西洋を故国へ帰ろうとするからです。

ですが・・・

、、澁澤さんは シュペルヴィエルを「ずいぶん意地わるなひとだと思う」と書いていますが、 そうやって苛まれうろたえる大佐を シュペルヴィエルが「意地わる」な眼で描いたと同じく、 澁澤さんも翻訳しながら「意地わるく」楽しんでいたに違いないと思えるし、 (みんな意地わるなんだから、、)と思いつつ 私も楽しんで読むのでした。

、、さらわれてきた子供のひとり、、 悪ガキのジョゼフもなかなか魅力的で、、 この作品はバルテュスの挿絵はムリとしても、 澁澤さん訳で、 誰かの挿絵で、 そういう美しい本になったら素敵だと思います。

金子國義さん…  ちょっと刺激的すぎ?