、、と、、 続けて 戸川秋骨先生と 漱石先生の話になるのですが、、
本当に秋骨先生には教えられること一杯です、 大感謝!です。
***
今朝、 秋骨先生のエッセイ「自叙伝の面白さ」(『朝食前のレセプション』収載)を読んでいたら、、
「…ハイネは、 人間に真実の告白なんて出来るものではない、 悪事にしても大抵は自分の都合のよいやうにばかり書いている、といったやうな鋭い皮肉をいってゐる」 とあった。。
(あ!! これだ!!) とハタと気付いたのは、 漱石の『硝子戸の中』最終章
「聖オーガスチンの懺悔、ルソーの懺悔、オピアムイーターの懺悔、――それをいくら辿って行っても、本当の事実は人間の力で叙述できるはずがないと誰かが云った事がある」
という一文。。 かつて此処を読んだ時にも気になっていたが、、 「誰かが」とは「漱石自身」の作った言葉なんじゃないか、、と漠然と思っていた。
、、で秋骨先生が言及された ハインリヒ・ハイネの、、『告白』という著作。 私は独逸語は読めないので英語のサイトからコピペしてみます、、
And even with the most honest desire to be sincere, one cannot tell the truth about oneself. No one has as yet succeeded in doing it, neither Saint Augustine, the pious bishop of Hippo, nor the Genevese Jean Jacques Rousseau--least of all the latter, who proclaimed himself the man of truth and nature, but was really much more untruthful and unnatural than his contemporaries.
(http://www.readbookonline.net/readOnLine/63359/)
秋骨先生が「ハイネは…」と言っているのはこの辺りの事ですね。 漱石全集の索引では、 英文学ノートの中にいくつか「Heine」への言及があるようなので、 著作に触れていたのかもしれません。
さらに、、 漱石が何度か 『思ひ出す事など』や『明暗』の中で言及している ドストエフスキー。 その「地下室の手記」にも ハイネが言った同じことへの記述があります。
「ついでにいっておくが、ハイネは、正確な自叙伝なんてまずありっこない、人間は自分自身のことではかならず嘘をつくものだ、と言っている。彼の意見によると、たとえばルソーはその懺悔録のなかで、徹頭徹尾、自己中傷をやっているし、見栄から計画的な嘘までついている、ということだ。ぼくはハイネが正しいと思う」
(新潮文庫 江川卓訳 10章より)
「聖オーガスチン」のことは↑此処には出てきていないので、 漱石はハイネの説を使っていると思われます。 或いは、 ドストエフスキーを通じてハイネをひも解いたのかもしれませんし、、 でもいずれにしても 「オピアムイーター」は出てきませんね。 しかし、、『告白=confession』と言ったら、 漱石にとっては「オピアムイーター」は欠かせません。 『思ひ出す事など』で、漱石が死の淵にあった時の記憶を綴っている箇所で、 ドストエフスキーの事が書かれますが、 それと同時に想起されているのも ド・クインシーの『オピアムイーター』で描かれた阿片幻想でした。(20章~)
ちなみに、、 5月28日に書いた「夏目漱石と戸川秋骨と、トマス・ド・クインシー」で言及されているのも 『思ひ出す事など』の23章です。 ド・クインシーの『告白』が何かにつけて漱石の頭に浮かんできていたことがうかがえますね。
***
話が少し逸れました。
最初の 『硝子戸の中』の漱石の文。 、、「聖オーガスチンの懺悔、ルソーの懺悔」 ここに 「オピアムイーターの懺悔」を加えたのは漱石自身なのかと思います。 だから「誰かが云った」というのは、 ハイネでもあり、 ドストエフスキーでもあり、、 漱石自身の「本当の事実」を著述することへの認識のあり方を示しているのかな、、と思います。
この『硝子戸の中』の前には、 先生の遺書(告白)を主題とする『こゝろ』があり、 自伝的小説とされる『道草』があり、、 「事実」を著述するとはどういうことかを、 漱石は考えていた筈なのですから。
***
今ここに書いたことは、 本当に今朝見つけたばかりの、 ほんのとっかかりに過ぎない事なので、(でも貴重なとっかかりを与えて下さった秋骨先生に感謝!) 、、『心』の先生が、 何を「告白」し、 どんな「事実」を遺書という形で伝えようとしたのか、、 まだまだまだまだ わからないことばかりです。
でも いそがない。。 漱石先生は墓の前で百年待っていてくれる人ですもの。。 小さな星の片、、(手がかり)を また見つけていきましょう。
秋骨先生、、ありがと。 また教えて下さいね。
本当に秋骨先生には教えられること一杯です、 大感謝!です。
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今朝、 秋骨先生のエッセイ「自叙伝の面白さ」(『朝食前のレセプション』収載)を読んでいたら、、
「…ハイネは、 人間に真実の告白なんて出来るものではない、 悪事にしても大抵は自分の都合のよいやうにばかり書いている、といったやうな鋭い皮肉をいってゐる」 とあった。。
(あ!! これだ!!) とハタと気付いたのは、 漱石の『硝子戸の中』最終章
「聖オーガスチンの懺悔、ルソーの懺悔、オピアムイーターの懺悔、――それをいくら辿って行っても、本当の事実は人間の力で叙述できるはずがないと誰かが云った事がある」
という一文。。 かつて此処を読んだ時にも気になっていたが、、 「誰かが」とは「漱石自身」の作った言葉なんじゃないか、、と漠然と思っていた。
、、で秋骨先生が言及された ハインリヒ・ハイネの、、『告白』という著作。 私は独逸語は読めないので英語のサイトからコピペしてみます、、
And even with the most honest desire to be sincere, one cannot tell the truth about oneself. No one has as yet succeeded in doing it, neither Saint Augustine, the pious bishop of Hippo, nor the Genevese Jean Jacques Rousseau--least of all the latter, who proclaimed himself the man of truth and nature, but was really much more untruthful and unnatural than his contemporaries.
(http://www.readbookonline.net/readOnLine/63359/)
秋骨先生が「ハイネは…」と言っているのはこの辺りの事ですね。 漱石全集の索引では、 英文学ノートの中にいくつか「Heine」への言及があるようなので、 著作に触れていたのかもしれません。
さらに、、 漱石が何度か 『思ひ出す事など』や『明暗』の中で言及している ドストエフスキー。 その「地下室の手記」にも ハイネが言った同じことへの記述があります。
「ついでにいっておくが、ハイネは、正確な自叙伝なんてまずありっこない、人間は自分自身のことではかならず嘘をつくものだ、と言っている。彼の意見によると、たとえばルソーはその懺悔録のなかで、徹頭徹尾、自己中傷をやっているし、見栄から計画的な嘘までついている、ということだ。ぼくはハイネが正しいと思う」
(新潮文庫 江川卓訳 10章より)
「聖オーガスチン」のことは↑此処には出てきていないので、 漱石はハイネの説を使っていると思われます。 或いは、 ドストエフスキーを通じてハイネをひも解いたのかもしれませんし、、 でもいずれにしても 「オピアムイーター」は出てきませんね。 しかし、、『告白=confession』と言ったら、 漱石にとっては「オピアムイーター」は欠かせません。 『思ひ出す事など』で、漱石が死の淵にあった時の記憶を綴っている箇所で、 ドストエフスキーの事が書かれますが、 それと同時に想起されているのも ド・クインシーの『オピアムイーター』で描かれた阿片幻想でした。(20章~)
ちなみに、、 5月28日に書いた「夏目漱石と戸川秋骨と、トマス・ド・クインシー」で言及されているのも 『思ひ出す事など』の23章です。 ド・クインシーの『告白』が何かにつけて漱石の頭に浮かんできていたことがうかがえますね。
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話が少し逸れました。
最初の 『硝子戸の中』の漱石の文。 、、「聖オーガスチンの懺悔、ルソーの懺悔」 ここに 「オピアムイーターの懺悔」を加えたのは漱石自身なのかと思います。 だから「誰かが云った」というのは、 ハイネでもあり、 ドストエフスキーでもあり、、 漱石自身の「本当の事実」を著述することへの認識のあり方を示しているのかな、、と思います。
この『硝子戸の中』の前には、 先生の遺書(告白)を主題とする『こゝろ』があり、 自伝的小説とされる『道草』があり、、 「事実」を著述するとはどういうことかを、 漱石は考えていた筈なのですから。
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今ここに書いたことは、 本当に今朝見つけたばかりの、 ほんのとっかかりに過ぎない事なので、(でも貴重なとっかかりを与えて下さった秋骨先生に感謝!) 、、『心』の先生が、 何を「告白」し、 どんな「事実」を遺書という形で伝えようとしたのか、、 まだまだまだまだ わからないことばかりです。
でも いそがない。。 漱石先生は墓の前で百年待っていてくれる人ですもの。。 小さな星の片、、(手がかり)を また見つけていきましょう。
秋骨先生、、ありがと。 また教えて下さいね。