私の生活圏である一市二町では、季節ごとに様々なイベントが行われています。
そのほとんどが「土・日曜」「祭日」ですので、多くの観光客で混雑します。
(それが目当てすので当り前なんですが・・・苦笑)。
ですから、イベントがあることは知っていても、人ごみの中はいきたくない~~と、思って直接観たことのないイベントもたくさんあります(笑)。
そんな一つに「源 頼朝旗挙げ武者行列」があります。
毎年、「桜の満開の春」に行われるお祭りです。
なんと今年で78回目だそうです!
実行委員の一人でもある主人の親友から誘われたこともあって、晴天に恵まれた今日、「桜吹雪を浴びながら観るのも楽しいかなぁ~~」と、そのお祭りの一部を観てきました(笑)。
↓以下、「武者行列」関連の案内書よりの抜粋と、私の学んだ記憶から~~笑。
今から約830年前、湯河原(当時は土肥郷といいました)の地は、平安時代の末期、関東八氏のひとり豪族土肥次郎實平が、今の小田原周辺までを領地とし、荘園をなしていました。
治承4年8月17日、蛭ケ小島での頼朝挙兵は、この實平が一族をあげ、韮山の北条氏とともに戦略、挙兵、合戦を指揮したものです。
今の湯河原駅周辺が土肥の館の跡で、城願寺(駅裏手300m)は持仏堂でした。伊豆の挙兵後、この館で頼朝以下300余騎、鎌倉を目指す作戦を練り、軍備を整え石橋山合戦に出陣しました。
多勢に無勢、不幸にも源平第一戦に敗れ再度土肥の地に退去、椙山に逃れました。
数日間敵の目を逃れ、8月28日山から下りてきたところ土肥の館が焼けている状況を見て土肥実平が頼朝を勇気づけるため、「これは浄火である」「戦いに勝つ予告の火である」として、舞を舞ったと、源平盛衰記に書かれているのが「焼亡の舞」だそうです。
頼朝は實平の勇武機略思慮遠謀に助けられ、土肥の椙山で潜伏し数ヶ月を過ごしました。その後、房州に向かって真鶴より船を出し海上脱出をしました。
(頼朝が隠れていたと言われる岩屋は、両町に残っています。どっちが本物か、あるいは両方そうなのか・・・真相は歴史のみぞ知る?(苦笑)。
(なお、真鶴には、頼朝が出陣前夜、戦勝を願い部下の志気を高めるために宴を開き、「焼亡の舞(じょうもうのまい)」を舞ったといわれる場所が、「謡坂」という地名で残っています。
また、房州(千葉)に向かって船出をした「頼朝船出の浜」は、今、海水浴場となっています)。
そのわずか4カ月後、三万の大軍となり鎌倉入り、幕府樹立となりました。(時に實平73歳、頼朝34歳、遠平31歳。實平の高齢パワーに驚嘆)
日本の歴史の中で、この土肥郷約10日間が中世の武家政治発祥の機縁になったので、まさに「その時歴史が動いた」といえます。その後信長、秀吉、徳川幕府に連綿と続く歴史を偲んでください。(源平盛衰記、吾妻鏡に詳しく記述されています。)
この行列の武者には、「高校生」や「中学生」「歴史研究会」の方々に混じって「観光客の方々」も扮して頑張っていました。
立派な鎧兜をつけた武者たちの「焼亡の舞」「三献の儀」「名乗り」等の演技は、多くの見物人の前で堂々と行われました。
(平家びわに合わせて踊る焼亡の舞は、その音色とともに、静かながら力強いものでした)。
でもでも~~、
武者たちの「名乗り」は「素人」ならではの演技で、大笑い~~~♪
「名前を上下逆さま」に名乗ってみたり~~きゃははは。
堂々と大声で胸を張る武者がいたり~~~拍手。
蚊の鳴くような、小さな声だったり~~苦笑
大勢の見物客から「励ましの声」が飛び、「誉める声が」聞こえ、「感心する」言葉もあり~~~♪
大笑いした、楽しい時間でした~~♪
参加者の皆様、お疲れ様~~。
そのほとんどが「土・日曜」「祭日」ですので、多くの観光客で混雑します。
(それが目当てすので当り前なんですが・・・苦笑)。
ですから、イベントがあることは知っていても、人ごみの中はいきたくない~~と、思って直接観たことのないイベントもたくさんあります(笑)。
そんな一つに「源 頼朝旗挙げ武者行列」があります。
毎年、「桜の満開の春」に行われるお祭りです。
なんと今年で78回目だそうです!
実行委員の一人でもある主人の親友から誘われたこともあって、晴天に恵まれた今日、「桜吹雪を浴びながら観るのも楽しいかなぁ~~」と、そのお祭りの一部を観てきました(笑)。
↓以下、「武者行列」関連の案内書よりの抜粋と、私の学んだ記憶から~~笑。
今から約830年前、湯河原(当時は土肥郷といいました)の地は、平安時代の末期、関東八氏のひとり豪族土肥次郎實平が、今の小田原周辺までを領地とし、荘園をなしていました。
治承4年8月17日、蛭ケ小島での頼朝挙兵は、この實平が一族をあげ、韮山の北条氏とともに戦略、挙兵、合戦を指揮したものです。
今の湯河原駅周辺が土肥の館の跡で、城願寺(駅裏手300m)は持仏堂でした。伊豆の挙兵後、この館で頼朝以下300余騎、鎌倉を目指す作戦を練り、軍備を整え石橋山合戦に出陣しました。
多勢に無勢、不幸にも源平第一戦に敗れ再度土肥の地に退去、椙山に逃れました。
数日間敵の目を逃れ、8月28日山から下りてきたところ土肥の館が焼けている状況を見て土肥実平が頼朝を勇気づけるため、「これは浄火である」「戦いに勝つ予告の火である」として、舞を舞ったと、源平盛衰記に書かれているのが「焼亡の舞」だそうです。
頼朝は實平の勇武機略思慮遠謀に助けられ、土肥の椙山で潜伏し数ヶ月を過ごしました。その後、房州に向かって真鶴より船を出し海上脱出をしました。
(頼朝が隠れていたと言われる岩屋は、両町に残っています。どっちが本物か、あるいは両方そうなのか・・・真相は歴史のみぞ知る?(苦笑)。
(なお、真鶴には、頼朝が出陣前夜、戦勝を願い部下の志気を高めるために宴を開き、「焼亡の舞(じょうもうのまい)」を舞ったといわれる場所が、「謡坂」という地名で残っています。
また、房州(千葉)に向かって船出をした「頼朝船出の浜」は、今、海水浴場となっています)。
そのわずか4カ月後、三万の大軍となり鎌倉入り、幕府樹立となりました。(時に實平73歳、頼朝34歳、遠平31歳。實平の高齢パワーに驚嘆)
日本の歴史の中で、この土肥郷約10日間が中世の武家政治発祥の機縁になったので、まさに「その時歴史が動いた」といえます。その後信長、秀吉、徳川幕府に連綿と続く歴史を偲んでください。(源平盛衰記、吾妻鏡に詳しく記述されています。)
この行列の武者には、「高校生」や「中学生」「歴史研究会」の方々に混じって「観光客の方々」も扮して頑張っていました。
立派な鎧兜をつけた武者たちの「焼亡の舞」「三献の儀」「名乗り」等の演技は、多くの見物人の前で堂々と行われました。
(平家びわに合わせて踊る焼亡の舞は、その音色とともに、静かながら力強いものでした)。
でもでも~~、
武者たちの「名乗り」は「素人」ならではの演技で、大笑い~~~♪
「名前を上下逆さま」に名乗ってみたり~~きゃははは。
堂々と大声で胸を張る武者がいたり~~~拍手。
蚊の鳴くような、小さな声だったり~~苦笑
大勢の見物客から「励ましの声」が飛び、「誉める声が」聞こえ、「感心する」言葉もあり~~~♪
大笑いした、楽しい時間でした~~♪
参加者の皆様、お疲れ様~~。