prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「存在と時間」マルチン・ハイデガー

2005年11月04日 | Weblog
マルチン・ハイデガー「存在と時間」読了。
いや、読んだといっても、もちろんとても理解云々という状態ではありません。読み出した時は、とにかく使われている言葉がまったくわからないので往生した。
「現存在」「世界内存在」「存在了解」なんて、予備知識のないところでいきなりずらずら並べられてわかるわけがない。何しろこれまで本格的な哲学書というのは読んだことないのだ。何冊もの入門書と並べながら、「現存在」というのはフツー「人間」と言われるものか、とか確かめながら読んだ。

で、素養もないのになんでそんなわからないモノ読んだのだ、と言われると困るのだが、とっかかりは仕事上の必要(そりゃどーゆーのだと聞かれると長くなる上に説明しにくいので説明しない)半分はとにかくムツカシイと言われてるものをやっつけてやろう、という変な意気込みから。

それで、ぜんぜんピンと来ないか、というとそうでもないので、徹底して自分の側から世界と言われるものをどう知覚し認識し構成していっているか、というのを記述しているのを読んでいて(こういうのを「現象学的還元」による「本質看取」というらしい)、そういえば普段は世界の側から(それがどんなものか、本当にはわかっていないのに)、その中の自分を見るという方向をとっていたな、と思い当たった。
考えて見ると、そのわかっているつもりの世界の根拠って何だと言われると、実はわかっていないということになる。

こういう読書は、本来学生時代にやっておくものだな、と思った。
体力にまかせて読み通す、という読み方もだし、世界と自分の関わりというのを、もっとも間違いのない、あるいはそれ以上さかのぼれない地点から考え直すという体験としても、だ。

フッサールが考案し、その弟子のハイデガーが受け継いだ(と、思ったら裏切った)現象学というのはよく独我論、つまり宇宙にあるのは我一人という論だと批判されるらしい。そうではないという反論もあるが。
それで思い出すのが、フレドリック・ブラウンのショート・ショートで「唯我論者」というのがあって、ある男が考え方一つ変えてしまうことで宇宙を消してしまうのだが、自分自身を消すことはできず、結局宇宙を一から七日間かけて(神がやったように!)作る羽目になるという話だった。
あるいは同じブラウンの「火星人ゴーホーム」の世界は自分が思うから存在していると考えている人間たちが考えを変えたので、世界から火星人が消えるというラストも、近い発想の気がする。
昔読んだ時はただ笑って読んだだけだったが、ずいぶん哲学的な発想だったのかも。




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