「御法度」の撮影にとりかかる時、もっと良くなるまで待ってはという声があったというが、そうしていたらあれは出来ていなかっただろう。
子供の時、母は家の表札に「大島渚」とまだ10歳程度の息子の名前をかけたという。
テストをしなくていい役者をいい役者というのが基準らしくてデビッド・ボウイやシャーロット・ランプリングなどを実例として挙げる。
創造社旗揚げ当時のことを小山明子いわく「男は家を出れば七人の敵がいるなんて言うけれど、うちのは七人の味方がいて後はみんな敵なんですからね」
音楽がピアソラというのは、終始戦い続けた表現者という点では一緒という意図からか。
「絞死刑」主演の尹隆道が出てきたので調べてみたら、のちに出版社の晩聲社経営者になってるのね。
佐藤慶、石堂淑朗、小松方正、アンゲロプロスといった故人たちがインタビューを受けている。
しかし「愛のコリーダ」の性表現に手を出せないよう未現像のフィルムをフランスに送るという手は逆に今では使えないな。
「朝生」に出演して管直人が「役者から大統領になった人もいるのだから」と言ったのにすごい勢いで役者に対して失礼だ、世界中の役者に対して謝れと噛み付く。
他、あちこちで本気になって怒る姿をむしろ喜喜としてドキュメントしている。
BS朝日
映画監督としてデビュー以来、社会や時代と闘い続ける反骨の男、大島渚。
その闘いの歴史を検証する。
ロンドンで脳出血で倒れて4年、大島渚は辛抱強く病院通いを続けていた。
全ては映画の現場へ復帰するための闘い。
1954年、大島は今は無き松竹大船撮影所で闘いを開始した。旧態依然たる日本映画界に風穴を開けるべく松竹を飛び出し、そして日本を飛び出して「世界のオオシマ」へと飛翔していった。
そして21世紀へ向けて大島の闘いは続いていた。傍らにいるのは40年にわたって同志として大島を支えてきた妻・小山明子。デビュー以来社会や時代と闘い続けた彼の歴史を検証しつつ、ビートたけし、坂本龍一、佐藤慶
らがその素顔を語る。
大島渚【映画監督】
1932年、京都に生まれる。
54年京都大学法学部を卒業。同年に松竹大船撮影所に助監督として入社する。59年に「愛と希望の街」で監督デビュー。
以後、「青春残酷物語」「太陽の墓場」を発表し、松竹ヌーベルバーグの騎手として注目を集める。
61年、松竹を退社、独立プロを設立し、次々に話題作・問題作を創る。その後カンヌ映画祭では、76年「愛のコリーダ」が非公式出品ながら最大の話題作となり、78年には正式出品されていた「愛の亡霊」が監督賞を受賞。
その後の「戦場のメリークリスマス」など彼の作品は世界中から熱い視線が注がれている。夫人は女優の小山明子。
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