脚本監督のロベール・ブレッソンはジョルジュ・ベルナノスの原作を映画化するにあたって、目標は「原作を一ページごとになぞることにある」と宣言したそうで、実際日記がしたためられるところから始まり、随所に日記を書いているところと朗読がかぶまる構成をとっていて、しばしば画面で見えることに改めてナレーションをかぶせるところが全編にわたっている。
こういうやり方はブレッソンのやや時代の下った「抵抗」でも見られた。脱獄用のロープを作るのに裂いた毛布をよじり合わせる画面に「私は強くよじり合わせた」とナレーションがかぶるといった調子。
こういうやり方は通常説明的な初心者がやるようなミスとみなされることが多いのだが、ブレッソンの場合は映画としての文体になる。
この文体について分析しているのが脚本家・監督のポール・シュレイダーで、映画評論家時代に書いた「聖なる映画」(映画における超越的スタイル)で、ブレッソンを小津安二郎とカール・ドライヤーと並べて論じている。
つまり同じに見えるものを積み重ねていくうちにそれが突き抜けて一種超越的な静止状態が来るという論旨で、宗教的発想が絡むので正直理解しずらいところはある。
とはいえ、後年の極度に突き詰められたスタイル(素人俳優の起用、棒読みの演技、ぶった切るような省略法、音楽より自然音の重視、などいわゆる感情移入を誘うあらゆるメチエの排除)とまでは至っておらず、かなり普通の映画に近い。
主人公の司祭は胃が悪くて肉や野菜を食べられず、ワインに浸したパンばかり食べている。そんなものばかり食べていたらかえって身体に毒なわけだが(実際、上司の司祭に叱られる)、ワインとパンがキリストの血と肉になる聖餐を毎日毎食繰り返しているようなものなのだろう。
そういえば、シュレイダー脚本の「タクシードライバー」でトラヴィスはコーンフレークにウイスキーをかけて食べるという酷い食事をしているが、あれはこのあたりが原点なのではないか。
シュレイダーは18歳まで映画を含む一切の娯楽を禁じられていたそうだが、ディープなキリスト教というのはなんでああも苦しみたがるのか理解に苦しむ。
司祭がまさにそうなのだが、キリストの受難と一体化するのが唯一最大の歓びということになるのかしれない。