冒頭の親族が集まっているところに門脇麦が遅刻してきてからのやりとりが、テーブルをはさんで対角線上の席にいる篠原ゆき子が微妙に突っ込んできて、その手前の席の子供がずっとゲームをやっているのを入れている画面設計が確かで、この演出は期待できるなと思ったら、ほぼ期待を裏切らず終始した。
まず金持ちの生活を浮わつかず一定のリアリティを持って描けたのは日本映画としてはヒット。
門脇麦が高良健吾の親族に紹介されるシーンで、障子を開け閉てして座敷に入り許しが出てから座布団につくまでの端正な所作など茶道をやっているのかと思わせ、今どき珍しい家事手伝いをてらいなくやってられる身分なのがわかる。
そして、そういう身分(医者の一族)であってももっと上の特権階級があることも、わかってくる。
(余談だが、日本マナーOJTインストラクター協会なる団体がエンドタイトルに出てくる。
同団体のHPを見るとマナーは今や資格の対象らしく、新社会人の頃、先輩に礼儀は武器だぞと言われたのを思い出した。)
水原希子の富山の貧困層(と言ってしまっていいだろう)出身の慶大生が一流ホテルでアフタヌーンティーの値段が4200円というのに目をむくあたりの、目の前にうず高く飾られている食べもしない美麗なスイーツと共にご学友との生活水準の違いをまざまざと見せる。
初めの方で門脇麦が見合いその他で会う男のクズっぷりの描出がさりげなくも辛辣。
カネのあるなしに関わらずなんともいえない不潔感やだらしなさが服装や振る舞いにちらちらとのぞいて、口には出さないけれどとても我慢できないのがありありとわかる。
それだけに高良健吾が出てくるととびぬけていい男ぶりが目立つし(テーブルを挟んで相対して座るのではなく、斜向かいに座って不躾さを避けしかも親密さを演出している)、下手すると生まれ育ちも王子さまになってもおかしくない設定なのだが、実はそれだけに悪気なく男の高慢さを身につけているのがわかってくる。
タイトルの貴族とは大げさなと思ったが、戦前だったら爵位を持っているような家柄なのだな。
慶応を幼稚舎からエスカレーター式に上がってきて東大の大学院という笑ってしまうような経歴で、これは早稲田ではなく慶応ではないといけないところ。
慶応の中でも幼稚舎からいるのと大学受験で入ってくるのとでは身分が違うというわけ。
門脇の頭を平気で子供にするように撫でる、その動作に何か人を(女を)ナメた感じが自然に出る。
雨男だと自ら言うのだが、本当に出てくるシーンの外でたいてい雨が降っている、その不吉なニュアンス。
親族に政治家がいるというだけでなく、高良自身が地盤を継いで出馬するという話が勝手に進んでいるあたり、おそらく今の日本の政権の中枢にいるのはこういうガラスの高下駄をはいた無神経な連中なのだなと思わせる。
このままでは“政治家の妻”として“内助の功”を強要されるのであろうことが断りもなしに決められるのがはっきりわかる、真綿で首を絞めるような嫌らしさ。
さらに後継ぎをしきりと強要されるプレッシャーの耐え難さ。
説明的だったりあからさまではなくても、描写ひとつひとつのリアリティーと微妙なニュアンスがはっきり一つの世界観に掌握されている。
格差社会とは昨今良く言われるが、格差といったものではなくてはっきり身分制社会といっていい。
というか、日本の近代社会のふりをした化けの皮が剥がれてもとからの地金の封建体質があからさまになってきた。
ヒロイン二人が男一人をはさむ構図には違いないのだが、、“身分”の違いが対立のもとにならず、むしろ打ち消しあってそれぞれ自分の行く道を模索するのに迷わなくなるのが爽やか。
シスターフッドという言葉を正確に理解しているかわからないが、そういって良いのではないか。
門脇麦が上流階級で、水原希子が下層階級というのは容貌からすると逆のようだが、ドメスティックなのと外部の違いとして捉えていいのだろうか。