prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

ムスタファ・アッカド氏、テロで爆死

2005年11月14日 | 映画
映画監督のムスタファ・アッカド氏(75)がイラクの爆弾テロにあって死亡、という記事を読む。
もともとアメリカの大学で映画を学び、オイル・ダラーで「ザ・メッセージ」「砂漠のライオン」といったスペクタクルを監督したり、アメリカで「ハロウィン」シリーズのプロデュースをしたりといった人なので、アメリカ側と見なされてテロリストに狙われたのかとも思ったが、状況からすると特に狙われたわけではなく無差別テロに巻き込まれたみたい。
「世界シネマの旅」によると、アラブ世界では特に「砂漠のライオン」製作により一種の英雄的な扱いをうけていたという。

「ザ・メッセージ」と「砂漠のライオン」は、アンソニー・クイン主演、モーリス・ジャール音楽といった布陣から「アラビアのロレンス」調を狙ったものは明白で、イギリス側からアラブを描いた「ロレンス」をまたアラブ側で真似してどうするのか、という気もした。
その一方、「ザ・メッセージ」ではムハンマド(モハメット)が出てくるにも関わらず、イスラムでは偶像を描いてはいけないのでカメラがムハンマドの目になって他の登場人物がカメラに向かって語りかけてきて、剣を持って戦ったりする場面でもムハンマド一人だけ絶対に写さないというあたり、すごく変な感じがした。

正直いって、どちらもあまりいい出来ではないのだが、それはともかくとしてこういう亡くなり方をするのはいささか嫌な気分になる。本来、別に有名でない人々がテロで殺されていることにも同じように反応しなくてはいけないのだが。



「コープス・ブライド」

2005年11月12日 | 映画
「死者の花嫁」(題名だけだとエド・ウッドみたい)が、ブキミな一方で悲しみと詩情をたたえているのがティム・バートンらしい。骸骨の犬は「フランケンウィニー」を、ヴィクターとヴィクトリアという名前は「ヴィンセント」をと、それぞれバートンの習作短編を思わせる。
ミュージカル・シーンの骸骨の踊りや音楽演奏というのは、短編時代のディズニーでもやっていたアニメの得意技みたいなもの。現世がモノクロ調で死後の世界がカラフルというのが、普通と逆で面白い。
死人の花嫁のベールがはためく(針金が入れてあるらしい)アニメートの詩情。
人形アニメだけでなくてCGとの組み合わせ方も巧妙。特にラストシーンは美しい。

ラスト近く、展開がばたばた気味になり、ワルモノがやっつけられる詰めが甘いのは残念。死者たちが現世にぞろぞろ現れて、生きていた時に関わりがあった生者と再会するシーンなど、もっと盛り上がっていいところ。ちらっとだけ「風と共に去りぬ」のタラのテーマを使っているのが、贅沢。
(☆☆☆★★)



ティム・バートンのコープスブライド - Amazon

トリカラのユズコショウ

2005年11月11日 | Weblog
自衛隊が、イラクから撤退とでかでかと朝日の朝刊に出る。だけど、他のテレビ・新聞で似たような報道なし。また願望を記事にしたか。

鳥の空揚げを作るのに、柚子コショウを漬けダレに混ぜてみる。いい香りがして、上出来。
生姜の絞り汁も多めにしてみると、肉が柔らかくなって、美味。またやろう。



「ブラザーズ・グリム」

2005年11月10日 | 映画
テリー・ギリアム作品とすると、「バロン」のように作り話の中に作者が入り込んでしまう作り。ただ、あれほどひねりすぎていないのは、さすがに製作中止がやたらに続いたから、いくらか一般向けにしたか。もともとシナリオが別口で先行していたせいも大きいだろう。
美術・撮影の造型美のレベルは高いが、「ブラジル」あたりほど圧倒的ではない。
実際のグリム兄弟は元の民間伝承を相当小市民的にアレンジしているらしいが、ここでは詐欺師すれすれを通り越したキャラクターになっているのが皮肉。
第2班監督がミケーレ・ソアビ(「アクエリアス」の監督)。衣装のプリント柄もなぜかギリアムがクレジットされている。
写真は、映画で使われた衣装。
(☆☆☆)



ブラザーズ・グリム - Amazon

「ドミノ」

2005年11月08日 | 映画
バカが作った映画。
「世の中には三通りの人間がいる。金持ちと貧乏人とその中間」というラストの台詞も気のきかないものだが、その「貧乏人」代表で出てくるアフガニスタンの子供たちのところに作中であちこち行き来した多量のドル札が届けられてそれを紙吹雪みたいに飛ばす、というところでふざけるな、何のつもりだと思った。
アメリカ的無神経と傲慢を通り越して、バカである。

見ていて、北京ダックになった気分になる。とにかく観客が消化できるかどうかもおかまいなく、やたら大量の色と動きと音響を詰め込んでくる。「ナチュラル・ボーン・キラーズ」以来最もヴィジュアルというものを勘違いした映画。
笠原和夫は「映像というものは、本当はスクリーンではなく観客の心の中に結ばれるもの」と言ったが、この作り手はその観客の心というものを無視しきっている。

それで何を描いているかと言うと、基本的には金持ちのお嬢さんがそれに飽き足らないでバウンティ・ハンターというハードな世界に飛び込んで、だからといって何を得るわけでも感じるわけでもないという、人間というより金と物と情報とが通過させて消化する管を描いているみたいな代物。
まあ、現代の先進国の生活がそれに近くなっているのは事実だが、そんなもの改めて見せてどうすんだ。
(☆☆)



ドミノ - Amazon

「天才監督・木下恵介」長部日出雄

2005年11月06日 | 映画
木下恵介が、同じ昭和18年にデビューした黒澤明と、戦後の長い時期にわたって男の黒沢女の木下と並び称されながら、なぜ後年大きく知名度に差ができるようになったのか。これまでもさまざまな説が唱えられて来た。
海外での評価に差があったこと。
あまりにさまざまなジャンルに渡り多彩なテクニックを弄して作られたので、これが代表作(黒沢の「七人の侍」、小津の「東京物語」、成瀬の「浮雲」)という一本が決めにくく、後から追いかけて見るのにとっつきにくいこと。
など、色々あると思う。

ここで筆者は、日本で戦後後退した価値観に木下が強く執着したことを重視している。
その最たるものはずばり「親孝行」に代表される家族愛だ。また「天職」という言葉に見られる仕事を通じた社会に対する責任感であり、あるいは「地の塩」といわれる社会の大半を占める無名で勤勉で倫理観の強い人々に対する称賛だったりする。
こうやって書いていてむずむずするくらい、カタい言葉が並んだが、その一方で筆者は木下がきわめて辛辣な批判精神、ドライな感覚、執念深さ、シニシズムなどの持ち主であることを指摘することを忘れない。
作品数が多い上に「喜びも悲しみも幾年月」とその直後の「風前の灯」が同じ佐田啓二と高峰秀子主演で、前者の夫婦愛を後者でからかうように仲の悪い夫婦役をやらせたように、わざと一筋縄でいかないよう作っているようだからトータルな形での木下恵介論が出にくく、まとまったものとしては木下の同性愛的感覚(その見方に筆者はやや違和感を覚えているようだが)からアプローチした石原郁子の「異才の人 木下恵介―弱い男たちの美しさを中心に 」くらいのものだろう。

本書も作家論というのとはやや趣きが違う。「20世紀を見抜いた男 マックス・ウェーバー物語」がウェーバーの伝記でも社会学の研究書でもないように、木下恵介を描きつつ筆者自身が時に読売新聞の社員として、あるいは映画評論家として、また直木賞作家として戦後を生きて来た間に、若いうちは伝統的な倫理観・価値観に反発してきた(その最たるものが黒澤明、特に「赤ひげ」をその圧倒的表現力を認めつつ「家父長的」と批判したこと)に対し、今に至って改めて日本人は、また自分は何を捨てて来たのかを検証した、一個の「作品」というべきだろう。



天才監督 木下惠介

「この胸いっぱいの愛を」

2005年11月05日 | 映画
タイムスリップするくだりがひどくメリハリが効かず、なんでわざわざ航空機で一緒になった4人をピックアップして昔に送り込んだのだろう、後に出てくるバスに乗り合わせた設定にしてトンネルを抜けたら20年前でしたとかいう描き方にすればずっとわかりやすいのに、と思い、また過去の自分に会うとどうなるかといったタイムパラドックスにまるで無頓着なのをずっと気にしていたら、後でそれなりの理由があることがわかる。

すると、ここでは過去と現在とか、生者と死者といった区分のはっきりしない、一種、能楽のような世界にしたかったのかと思えて来たら、ラストその通りの場面になったので一応納得。
能のシテがあの世から来てワキに情念を吐露して去っていくような流れになっているわけね。

ただ、ストーリー映画というのはあれかこれかという区分を要求する性格があるのと、場面場面では泣かせのメリハリをつけようとしている割にいくらなんでもと思うような説得力のない設定が目立ったりして、映画に乗りかけるとブレーキをかけられる繰り返しみたい。

写真は、改築中のTBS(この映画の製作会社の一つ)の工事現場の塀に描かれた看板。
(☆☆☆)



この胸いっぱいの愛を - Amazon

「存在と時間」マルチン・ハイデガー

2005年11月04日 | Weblog
マルチン・ハイデガー「存在と時間」読了。
いや、読んだといっても、もちろんとても理解云々という状態ではありません。読み出した時は、とにかく使われている言葉がまったくわからないので往生した。
「現存在」「世界内存在」「存在了解」なんて、予備知識のないところでいきなりずらずら並べられてわかるわけがない。何しろこれまで本格的な哲学書というのは読んだことないのだ。何冊もの入門書と並べながら、「現存在」というのはフツー「人間」と言われるものか、とか確かめながら読んだ。

で、素養もないのになんでそんなわからないモノ読んだのだ、と言われると困るのだが、とっかかりは仕事上の必要(そりゃどーゆーのだと聞かれると長くなる上に説明しにくいので説明しない)半分はとにかくムツカシイと言われてるものをやっつけてやろう、という変な意気込みから。

それで、ぜんぜんピンと来ないか、というとそうでもないので、徹底して自分の側から世界と言われるものをどう知覚し認識し構成していっているか、というのを記述しているのを読んでいて(こういうのを「現象学的還元」による「本質看取」というらしい)、そういえば普段は世界の側から(それがどんなものか、本当にはわかっていないのに)、その中の自分を見るという方向をとっていたな、と思い当たった。
考えて見ると、そのわかっているつもりの世界の根拠って何だと言われると、実はわかっていないということになる。

こういう読書は、本来学生時代にやっておくものだな、と思った。
体力にまかせて読み通す、という読み方もだし、世界と自分の関わりというのを、もっとも間違いのない、あるいはそれ以上さかのぼれない地点から考え直すという体験としても、だ。

フッサールが考案し、その弟子のハイデガーが受け継いだ(と、思ったら裏切った)現象学というのはよく独我論、つまり宇宙にあるのは我一人という論だと批判されるらしい。そうではないという反論もあるが。
それで思い出すのが、フレドリック・ブラウンのショート・ショートで「唯我論者」というのがあって、ある男が考え方一つ変えてしまうことで宇宙を消してしまうのだが、自分自身を消すことはできず、結局宇宙を一から七日間かけて(神がやったように!)作る羽目になるという話だった。
あるいは同じブラウンの「火星人ゴーホーム」の世界は自分が思うから存在していると考えている人間たちが考えを変えたので、世界から火星人が消えるというラストも、近い発想の気がする。
昔読んだ時はただ笑って読んだだけだったが、ずいぶん哲学的な発想だったのかも。




存在と時間〈上〉- Amazon

「完全演技者(トータル・パフォーマー)」山之口洋

2005年11月03日 | Weblog
この作者(山之口洋)の作品では「オルガニスト」と同様に人間が「自分ではないもの」「人間以外」になる話。それと音楽が重要なモチーフになっているところも共通している。音楽=パフォーマンスが持つ恍惚感が、もう一段「上」の世界に導いている感じ。
理科系(東大工学部卒)らしい理詰めなストーリー構成と、マッドサイエンティストがかった荒唐無稽さが同居している。



完全演技者 - Amazon