ロバート・B・ダウンズ『アメリカを変えた本』(斎藤光ほか訳、研究社、1972年)を読んだ。
アメリカの歴史を論じた本ではなく、本自体がアメリカの変化や歴史に影響を与えた本を25冊選んで、その内容とアメリカ社会への影響を1書あたり約20ページにまとめてある。
アメリカでは、このようにアメリカの歴史に影響を与えた書物を何冊(何十冊)か選んで、リーダーズ・ダイジェスト的に要約した本がそれまでにも何冊か出版されていたようだが、本書もおそらく1976年のアメリカ建国200年を控えて、アメリカ200年の歴史を書物で回顧しようとしたのだろう。
著者のダウンズは「図書館学の権威」として、来日したこともあるという。
独立期のトマス・ペイン「コモン・センス」(1776年)に始まって、トックヴィル「アメリカの民主主義」、ビアード「合衆国憲法の経済的解釈」などから、レイチェル・カーソン「沈黙の春」(1962年)まで25冊の本が取り上げられる。社会科学、歴史学だけでなく、自然科学系の本も取り上げられているが、小説や戯曲など文学書は1冊もない*。
* ストウ夫人の「アンクル・トムの小屋」(1851年)とアプトン・シンクレアの「ジャングル」(1906年)が入っていたのを忘れていた。
25冊の中で、ぼくがいちばん興味をもって読んだのは、カルドーゾの「司法過程の性質」(1921年)である。この本は中央大学出版部から出ていた邦訳(守屋善輝訳)で大昔に読んだ。いわゆる裁判官による法創造(裁判官は現に存在する制定法をただ解釈するだけでなく、現実問題に法を適用するに際して実際には法を創造する場合もある)を肯定する側の裁判官による、裁判官が実際に裁判を行い、判決を下す際のプロセスをありのままに説明した内容だった。裁判がたんなる三段論法による制定法の事件へのあてはめでないことは多くの論者がいうところだが、カルドーゾは裁判官に影響を与える要素として、(1)類推の規則、(2)歴史の発展法則(進化論)、(3)伝統(共同社会の慣習)、(4)正義・道徳・社会福祉を掲げ、これらによって、裁判官の判断が恣意的になることを回避しようとする。
カルドーゾは執筆当時の連邦最高裁判事たちのリベラルな精神を楽観的に信頼するのと同時に、しかし、裁判官個人の好き嫌いの念、偏見、感情なりが裁判に影響を与えうることも指摘した。昨今のトランプに任命された最高裁判事たちによる中絶違憲判決や、わが最高裁長官が砂川事件の判決前に一方当事者であるアメリカ側と密談して合議の内容を漏洩していた事実の発覚(布川玲子他編『砂川事件と田中最高裁長官--米解禁文書が明らかにした日本の司法』日本評論社)、公判を109回も欠席してホテルにこもって判決を書いていたという東京裁判におけるパール判事のような事例(粟屋憲太郎『東京裁判への道(下)』講談社メチエ)をなど知ると、カルドーゾの心配は杞憂ではなかったと言わざるを得ない。
※ 下の写真は、アメリカ独立200年を記念して発行された1ドルのコイン(白銅貨)。リバティ・コインと呼ばれているようで、表面に “LIBERTY” と刻印されていて、肖像はアイゼンハワー大統領。ネット情報ではこの記念硬貨は1ドル、50セント、25セントの3枚セットで、50セントの肖像はケネディ大統領(1976年は共和党政権だったのだろうか?)。どうせならケネディのほうが欲しかった。友人からアメリカ土産にもらった物だが、最初からキーホルダーがついていた。現在1ドルは145円前後だが、1976年当時1ドルは何円だったのか。古銭市場では1円から2980円まで様々な値段で売られている。
以下では、この本の中で印象に残ったことをアドホックに列挙しておく。
ソローの「市民政府への反抗」が発表された当時(1849年)、本書にはあまり反響がなく、奴隷制度廃止運動にも影響しなかったこと、しかし、20世紀に入ってから、トルストイ、ガンジー、1950年代のマーティン・ルーサー・キング牧師らに影響を与えたこと、アメリカでは1950年代まで、ソローの本書を朗読しただけで逮捕されたことなどに驚いた(140頁~)。70年前にはアメリカも、政府に都合の悪い事実に関しては表現の自由が存在しなかった点で、現在のロシア、中国などと同類だったのだ。
ベラミー「顧みれば」(1888年)は、2000年から1847年をかえりみるというユートピア論である。生産と分配の共同化が実現した2000年には、国の負債に対する利子はなくなっており、刑務所はほとんど空で、税吏も、銀行家も、保険業者も、広告業者も、弁護士もいなくなっていると彼は考えた。しかし、ベラミーの理想は見事に打ち砕かれたどころか、いよいよ広告業者が跋扈して、人々に必要もない欲望をかき立て、必要もない消費を煽っている。政府の支払う利子はかさむばかりで、政府を信用できない国民は保険と預金に頼るしかない。もし21世紀に再臨したら、彼は仰天することだろう。
ベラミーの影響を受けた者の中に、トウェイン、ウェッブ、ヴェブレン、ショーらとともに、クラレンス・ダロウ(弁護士)の名前が挙がっていた(178頁)。ダロウは、どのような影響をベラミーから受けたのだろうか。ダロウの伝記(『アメリカは有罪だ』サイマル出版会)を読み直してみよう。
ターナー「フロンティア」(1893年)は「安全弁としてのフロンティア」論に立脚している。「安全弁」論とは、東部で搾取された労働者らも、1862年のホームステッド法の成立以降は、フロンティアの自由地を取得して農業によって自立することができたので、フロンティアの存在が東部における労働者問題の安全弁になったという仮説である。しかし本書によれば、「安価な自由地」は実は神話であり、実際にはフロンティアを目ざした農民よりも先に土地投機家たちが自由地を買占めて農民に高値で転売したので、入植した農民たちは土地代の支払いのために困窮生活を強いられたというのが現実だったという(205頁~)。スタインベック「怒りの葡萄」の主人公一家を思い起こせば、この現実は明らかだろう。
ステファンズ「都市の恥」(1903年)は、セントルイス、ミネアポリス、ピッツバークなど、アメリカ各地における議員、裁判官、警察、官僚などが地元のボスや企業家と癒着して繰り広げた腐敗の実態をあばいており、興味深かった。アメリカの裁判官の中には買収に応じる者があることは英米法の講義で実例を聞いたことがあったが、実は裁判官の家系に生まれたカルドーゾの父親もニューヨーク州の裁判官だったが、汚職事件が発覚して弾劾裁判を免れるために辞職した黒い裁判官だったということに驚いた(335頁)。カルドーゾは父親の贖罪のためにも勤勉に働いたという。
ステファンズは、腐敗した諸都市の共通点として、納税者から金を奪うために、「品位ある」実業家と不真面目な暴力団とが政治家と結びついているという構図を指摘した。公共事業に1ドルが費やされるたびに、1ドルが盗人の手に渡ったと彼は言う(230頁)。この構図は現在のわが国でも同じではないか。オリンピックをめぐる贈収賄疑惑で元電通マンや企業経営者の逮捕が連日のように報じられているが、汚職の構図はいつの時代、どの地域でも変わらないのかと暗澹たる気持ちになる。現代のわが国にはステファンズのような勇気あるジャーナリストはいるのだろうか。
ジェーン・アダムズ「ハル・ハウスの20年」(1910年)は、シカゴでセツルメント活動を立ち上げ、貧民救済に一生をささげた社会事業家の著作だが、このような事業はアメリカでは「社会主義者」のレッテルを貼られ、彼女の死に際して弔辞を読んだのはクラレンス・ダロウともう一人だけだったという(274頁)。しかし、セオドア・ルーズベルトは、一時期「進歩党」を立ち上げ、彼女を支持した。そして今日ではアダムズが唱えた労働者や未成年者の保護政策はほぼ実現しているという。本書で何度か登場するセオドア・ルーズベルトにも興味がわいた。
リンド夫妻「ミドルタウン」(1929年)は、未開部族を対象にしてきた文化人類学の手法をアメリカの典型的な中都市の住民の生活に適用した最初の研究であるという。彼らによれば、ミドルタウンの住民は大規模な宣伝や雑誌、映画、ラジオなどによって半贅沢品を生活必需品のように感じさせられ、所有していないと不満をもつように仕向けられている。自動車は全階級の人々の心をとらえた地位(ステイタス)の象徴で、貧しい階層の人でも子どもの学校での地位を維持するために(!)、この頃から普及し始めたクレジットによって自動車を買うのである(357頁)。
ミュルダール「アメリカのディレンマ」(1944年)は、アメリカ憲法が保障したはずの人権というアメリカの普遍的理念と、現実社会における黒人差別の矛盾を指摘した。
ガルブレイス「豊かな社会」は、1958年の出版である。「ミドルタウン」のような都市はさらに「豊か」になったが、テレビ、自動車、冷蔵庫その他の耐久消費財を手に入れても、2台目のテレビ、2台目の自動車・・・を買いつづけなければならないと人々は思わされる。人々は自分が何を欲しているのかを広告マンに教えてもらわなければならない(405頁)。ガルブレイスは、このような個人の必要と、住宅、教育、医療保障など公共が必要とするものとの間の適切な均衡(社会的均衡)の原理を提示した(407頁)。
本書は、環境破壊告発の嚆矢となったレイチェル・カーソン「沈黙の春」(1962年)で結ばれるが、本書を通読しての感想は、「はたしてこれらの本によってアメリカは本当に変わったのか?」という疑問だった。アメリカはいまだに本書で指摘されたような「南部」的な精神風土、「西部」ないし「似非フロンティア」的な風土が残っているのではないだろうか。そもそもアメリカは建国からせいぜい250年しか経っておらず、いまでも形成途上にあるのではないか。
本書出版以後(1972年以降)の50年間のアメリカを通覧するのにふさわしい本は何かあるだろうか。
2022年9月15日 記