豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

『野球の手帳』(昭和37年)

2021年05月16日 | あれこれ
 月刊雑誌「日の丸」昭和37年5月号附録の『野球の手帳』が出てきた。
 金色に輝く表紙が印象的だったが、仕まい込んで行方不明のままだったのが、昨日、五月人形を片づけていたらひょっこりと出てきた。
 当時は『少年』『少年画報』『少年ブック』(『幼年ブック』もあった)『野球少年』など、「少年」を冠した月刊雑誌が全盛の時代だった。『日の丸』はどちらかというとマイナーな印象があるが、『野球の手帳』の奥付を見ると、何と集英社の発行だった。『冒険王』なんて雑誌もあった。
 表紙につづく口絵は前年度のホームラン王だった長嶋選手。

               

 つづいて、12球団の選手名鑑。
 前年度の順位らしく、セ・リーグは巨人、中日、国鉄、阪神、広島、大洋、パ・リーグは南海、東映、西鉄、大毎、阪急、近鉄の順で並んでいる。
 チーム内では背番号順で、読売ジャイアンツは、「1 内野手 王貞治 21才 身長1.79 体重75 投打 左左 出身校 早実」というふうになっている。柴田勲は背番号7でセンターの記憶の方が強いが、背番号12で投手となっている。年齢が17才とあるから法政二高で甲子園で優勝投手になって入団した年なのだろう。

 驚くことに、主要選手を紹介するページには、「川上哲治 世田谷区野沢町2のxxx、長嶋茂雄 世田谷区上北沢3のxxx」など、選手の住所まで載っている。わが世田谷時代のご近所さんだった大毎の山内和弘は文京区原町xxxとなっていて、昭和37年にはもう世田谷区世田谷には住んでいなかったようだ。
 今では考えられないことだが、選手とファンの距離が近かったのだろう。ただし、当時でも面倒なファンはいたのだろうか、住所を球団事務所や合宿所にしている選手もいる。
 住所で一番印象的なのは、別当薫(この年からパ・リーグ最下位だった近鉄の監督に就任している)の住所で、港区麻布宮村町xxとある。麻布に住んでいる選手、監督など他にない時代である。別当は甲陽中学(ぼくは芦屋中学と記憶していた)、慶応大卒のダンディーな選手だったが(身長が1m80cmとある。大正9年生れとしては破格の長身である)、住んでる場所もおしゃれだった。佐藤愛子が女学校時代に憧れていたとエッセイに書いていた。
 当時は書籍の奥付などにも著者の住所が載っているものもあり、読者から著者に手紙を送ることも可能だった。ぼくの高校時代の友人でトルーマン・カポーティに英文で手紙を出した奴がいた。返事はなかったと言っていた。そもそも届いたのかどうか。

               

 ほかにも、この『野球の手帳』には、「野球の上手な見方」「野球の上手なやり方」を指南するページもあり、裏表紙の口絵には前年度の表彰選手が載っている。 
 「上手なやり方」の守備編では「二塁手 ダブル・プレーの練習をよくやること。一・二塁へくるゴロは、右打者のときは右へボールがまわっているために、まっすぐにこないものがあるからちゅういしよう」、打撃編では「右打者のばあい、外角球はライトへながすことが大切で、力にまかせてひっぱる打者は3割は打てない」など、子ども相手の付録にしては高級なことが書いてある。打者のタイミングをはずすためのチェンジ・アップなども解説があるが、「日の丸」の読者が投げることができたとは思えない。

 セ・リーグは、長嶋が首位打者(3割5分3厘)、本塁打王(28本)、最高殊勲選手、打点王が桑田武(大洋)94点(小津安二郎『秋刀魚の味』のナイターのシーンで場内アナウンスから彼の名前がコールされていた)、盗塁王が近藤和彦(大洋)35個、新人王が権藤博(中日)35勝19敗、パ・リーグは、最高殊勲選手が野村克也(南海)、首位打者が張本勲(東映)3割3分6厘、本塁打王が中田昌宏(阪急)29本(中田は選手紹介欄によると藤尾茂(巨人)と鳴尾高校時代にバッテリーを組んでいたとある。最初は投手だったのか)、打点王が山内112点、盗塁王広瀬叔功(南海)42個、新人王徳久利明(近鉄)15勝24敗となっている。

 身長くらべ、体重くらべなんていうコーナーもあり、身長はスタンカ(南海)196cm、梶本(阪急)186cm、体重では中西太(西鉄)93㎏、森徹(大洋)90㎏などが上位に名を連ねている。
 懐かしい名前がたくさん出てくる。近鉄にはミケンズとボトラという外国人バッテリーがいたが、この名鑑にはミケンズしかいなくて、ボトラは先に帰国してしまったようだ。駒沢球場で実際に目にしたことがある東映のラドラや、阪急のバルボンはまだ在籍している。

 その他で印象的なことは、巨人の宮本敏雄(ボールドウィン高校)、中日の与那嶺要(ホノルル大学)など、日系アメリカ人選手が散見されること、広島カープには当時から専修大出身者が多かったこと(古葉竹識[=当時は毅]は濟々黌出身となっているが)、青田昇(滝川中)、別所毅彦(同)、飯田徳治(浅野中)、藤村隆男(呉港中)、谷田比呂美(尼崎中)など、いずれも中学野球で名をはせた旧制中学卒業の選手やコーチがいることあたりか。西鉄コーチの今久留主淳は嘉儀農林の出身だった。
 中には松久保満(明星学園、大洋)、金彦任重(開成高、南海)なんていう出身校の選手もいるが、あの明星学園や開成出身のプロ野球選手がいたとは驚きである。戦後間もなくのほうがに日本社会は多様性に富んでいたようだ。

 2021年5月16日 記


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