チクチク テクテク 初めて日本に来たパグと30年ぶりに日本に帰ってきた私

大好きな刺繍と大好きなパグ
香港生活を30年で切り上げて、日本に戻りました。
モモさん初めての日本です。

Twitter(X)をやめました。

2023年08月14日 | 自分ごと

晴、27度、91%

 Twitterをスマホから消しました。ある朝起きてスマホを開けたら、青い鳥のマークが消えていました。その代わり黒地に白抜きの「X」です。「X」のアイコンは薄気味悪く笑っているように思えました。鳥がさえずるTwitter、青い鳥のアイコンが好きでした。

 「X」に代わる前から、自分のスマホの使い方を変えようと思っていました。きっかけは我が家のWi-Fiの不通です。数週間続いたWi-Fiの不調は精神的に滅入りました。なぜ気持ちが落ち込むのか?普段あるものがなくなると不自由を感じます。急に冷蔵庫が壊れたら大慌てでしょう。一番は電気、ガスなどのライフラインです。Wi-Fiがつながりにくい間スマホを開ける機会が減りました。気の滅入りとは反対にどこか気持ちに余裕があることに気付きました。知らないうちにスマホの画面を見る時間が長くなっていたのです。

 そんな時、Twitterの青い鳥が消えました。13年私のスマホにあった青い鳥です。SNSの中で一番古くから使って来ました。「X」はテレビ電話や決済機能を近く連携させるそうですが、現状使っているのもで十分です。私がスマホに求めていたものを考え直してみました。電話機能が一番大事です。次がメール、検索機能は今では辞書代わりです。SNSなどなかった頃、そんな機能をありがたく感じていました。

 スマフホを開ける回数が減ると、時間も気持ちも余裕が生まれます。もともとゲームだけ入れていません。写真を撮る、保存するこれは外せない機能です。連絡先が一発で探せるのもありがたい。買い物機能はパンデミック以来外せないものとなりました。本屋に行くより本の検索が楽です。古本の検索をするとその便利さがよくわかります。しかも送料無しで早ければ当日手元に届きます。これも外せない。旅行時には乗り換え案内が活躍します。

 様々なメリットがありますが、私の問題はSNSのようです。「X」を一つ消しました。facebookもInstagramもこの2週間、最小限しか開けていません。どちらか私のスマホから消える日が近いと思います。

 自分の生活は自分で作るもの、私の判断基準でスマホとの向き合い方を変えて行くつもりです。

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女性は自分のお金を持つのがいいと思います。

2022年04月25日 | 自分ごと

晴、16度、94%

 30年日本を離れていました。現在、帰国後5年目です。30年の間に街の姿は変わりました。高齢者の姿が街に多くなりました。そんな表面的な変化は当たり前です。著しい変化を感じたのは結婚観、家族のあり方です。そのことに気づいたのは帰国後4年を過ぎた頃からです。

 私は結婚44年、主人に食べさせて貰って、住む場所も身の回りのものもお世話になっています。つまり養って貰っています。44年のうち23年は仕事をしていましたので、服、本、家の什器は私の収入で賄いました。主人の仕事がなかった時は私の収入が生活を支えたことも短い期間ありました。でも基本、食費や住宅費は主人に依存でした。私自身の貯金に主人の貯金を足してマンションも買いました。二人の名義です。仕事を辞めて8年が経ちます。自分のお金はなく、主人に養って貰っています。

 今住む家は私の実家、古い家を主人が改築してくれて住むことになりました。一人っ子の私は両親が亡くなれば当然この家、土地を全て引き継ぎました。つまり私の名義です。主人は自由にお金を使いなさいと言ってくれますが、私の気持ちとしては養って貰っている、ありがたいと思います。

 現代の女性はこの「養ってもらう」という言葉が苦手なのだと聞きます。私は昭和30年代生まれ、男女平等の時代です。前の世代は女性は男性の付属物的扱いでした。確かに今の女性は独立しています。結婚して、子供を産んでも働き家事もこなします。逞しい、清々しいと子供を保育園に送り迎えする母親たちの姿を見て感じます。家庭内でも家事の平等、男性の家事参加は当たり前、世間より家庭からの変化は根強いと感じます。

 若い女性は変化としては受け止めていないはずです。「当たり前」と思っているはずです。そしてその流れを一緒に流れてきた年配者も世の中を受け入れて、変化とは感じていないかもしれません。いい流れだと思います。現在主人に養われている身の私から一言、「自分が使えるお金を女性は持った方がいい。」ということです。自分が働いて得たお金は「自分のもの」何かあったときに自分のために使いましょう。「離婚」だってあり得ます。大きな仕事を始めるかもしれません。「自分のお金」は大事なことです。私はというと、お金はなくてもこの家と土地があります。お金が必要になった時は売ってお金にするつもりです。自分名義のものを持つことはこれからますます女性にとって必要です。少ない金額でも心に余裕が生まれます。自分を支えてくれます。

 雨上がりの朝、受け継いだ土地の庭に咲き始めたバラを見ながらそんなことを思いました。

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母の命日

2021年08月16日 | 自分ごと

雨、23度、86%

 今日は母の命日です。8年前に逝きました。香港で受けた訃報、急いで帰国、その翌日、母の残した言葉通りに血縁の息子と二人で送りました。暑い日でした。

 この家の改築が始まっており、父の位牌は母の施設の部屋の保管してありました。毎年この日になると思います。お盆で帰っていた父が母を連れて行ったんだなと。

 母が亡くなってから年々、母への思いが変わっていくのを感じます。私自身、歳を重ねているからだと思います。それでも母への嫌悪は心の底から消えることはありません。時折ひょっこりその嫌悪感が顔を出します。時には口にしてまで「嫌な人」と思います。

 私が18歳で家を出て東京に行って以来、母は正に同じこの家の40数年ひとりで住んでいました。掃除をしたり、庭で草をいじったり手を動かしている時、「いったい母は、毎日の時間をどう過ごしていたのかしら。」と思います。掃除をするわけでもありません、庭に草花を植えるような人ではありません。以前はこの家に帰って来る度に私は掃除から始めました。母を施設に入れて、いよいよ改築の前の整理に入った時、どこから手をつけていいのか呆然としたことをはっきり覚えています。

 ホトトギスが庭に咲きました。この花を教えてくれたのは母です。夕方散歩をしながら、古い北原白秋の歌が口をついて出てきました。この歌を私に教えてくれたのは母です。そんな風に母を思い出します。朝走って家に帰る時、福岡の南に向かって走る道に出ると短い間ですが「油山」が視界に入ります。母が初めに入った老人施設のあたりが遠くに見えます。すると「お母様、ごめんね、」と自分では思いもかけな言葉が心に浮かびます。なぜでしょう?何にごめんねって言っているのかもわかりません。でも今では「油山」が見えるといつも心に浮かぶ言葉です。

 母娘の確執を耳にすると、私だけではないことに安堵します。「嫌な人」「嫌いな人」に変わりはありません。それでも何かが私の中で変わり始めていると気付きます。そして、その変わり始めている自分を好きだと思います。

 お仏壇は始末しました。毎朝、お線香をあげ、手を合わせる父母の写真です。

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私は友人にとって何なんだろう?

2021年03月16日 | 自分ごと

曇、15度、76%

 1週間ほど前のことです。2年近く音沙汰なかった友人からメーッセージをもらいました。長い長い付き合いです。お互いに家庭もあり、遠くに住んでいますから2年ぐらいの音信不通は当たり前、会えば数十年前にひとっ飛びします。賀状の交換などしませんが折に触れぽっと思い出すことがあります。メッセージの内容は「命に別状のある病気で危ない状態にある」というものでした。心配は募ります。

 そのメッセージから毎日具合を尋ねました。丸一日半、連絡が取れなかった時には「何かあったに違いない。」と落ち着かない重苦しい時間を過ごしました。スマホのスイッチが切れたままでした。おそらく、病状が一番悪い時だったのでしょう。1週間経ち、やや症状も軽くなってきた様子です。油断はなりませんが、安心しました。

 この友人、そういえば2年前も手術をする病気の時に連絡をくれました。その時も「もしかしたら危ないかもしれない」といった状態でした。手術も成功、術後の経過も順調で連絡が途絶えました。今の世の中連絡がないと言ってもFBやインスタなどで元気な様子を知る事が出来ます。遠い街でこの「コロナ」を凌いでいる様子も知っていました。

 この友人は「もしか」の時に必ず忘れずに連絡をくれます。「もしか」はいつかやって来ます。そういう年齢になりました。「この友人にとって私って何なのだろう?」とここ数日考えます。連絡をもらって以来、回復を祈り、日々を案じています。離れていても長く会っていなくても、今この時間を共有していると感じます。こんな気持ちを友人と分かつことになろうとは、数十年前は思いもしませんでした。お互い歳をとりました。そうなんですよね、「もしか」はやって来ます。

 今頃、浅い眠りでベットにいるだろう友人を思います。もうしばらくしたら、今日のメッセージを送ります。遠いので何も出来ません。庭の花の写真を送りました。昨日は開いたシンビジュームの写真をメッセージに添えました。喜んでくれます。

 「もしか」の時に思い出してくれる友人があること、私にとって幸せなことだと噛み締めます。そしてきっと回復してくれると信じています。

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60歳以上 65歳以上

2021年02月14日 | 自分ごと

晴、14度、86%

 先月末、市立美術館の所蔵物の展示を見に行きました。入り口で入場券を買い求めます。「二百円です」とお姉さん。200円を小銭入れで探していると、「65歳以上の方は割引です。」とお姉さん表情一つ変えずにおっしゃいました。私一瞬「?」そうか65歳以上に見えたのねと「いいえ、65歳以上ではありません。」と膨れて返事をしました。館内に入り、65歳にこだわった自分がおかしくなりました。私はあとひと月で64歳の現在63歳です。大雑把にまだ70歳には間がある60歳以上だと自分を思っています。展示物を見て出る折、入場券のお姉さんに「お世話になりました。」と声をかけました。私の様子で不快な思いをさせたくありません。やはり表情一つ変えずに座っていました。

 一年ほど前、映画館に行きました。小さな映画館です。切符売り場には背の高いお兄さんがいました。千五百円を手にして切符売り場に並びました。ここにはスタンプ券があります。いっぱいになると1回、無料になるそうです。千五百円とスタンプ券をお兄さんに出しました。「60歳以上なら割引がありますよ。」「はい!60歳以上です。」と私。62歳の時のことです。お兄さんスタンプ券の隅に小さなハンコを押してくれました。「これで次からいつでも割引でご覧になれますよ。」嬉しくてステンプ券を大事にしまいました。

 65歳以上、60歳以上、考えてみればたいした差があるわけではありません。でも映画の時は喜んだシルバー割引が美術館ではムッとしてしまいました。最近では咄嗟に自分の年齢が言えません。西暦に置き換えて引き算しようとすると、今年が西暦何年かこれまた咄嗟に出て来ません。やれやれです。

 年齢を隠すつもりはありません。それでもこのちょっとした表現の差「60歳以上か65歳以上」に引っかかってしまいました。「これも女心かな?」

 60歳以上のハンコを押してもらって以来、コロナが怖くて映画に一度も行っていません。スタンプ券を持って映画館に行く日が楽しみです。

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さつまいも 「紅小町」

2020年11月25日 | 自分ごと

曇、12度、84%

 秋になると芋掘りがあり、「さつまいも」が美味しくなります。焼いたり、蒸したりそのままの甘さが好きです。「さつまいも」にはたくさんの思い出があります。

 

 中学の頃、私はお小遣いをもらえませんでした。秋も深まると校門の外にリヤカーの焼芋売りがやって来ます。一緒に下校している友人たちは焼き芋売りのリヤカーで「これ。」と指差し、量り売りで焼きもを買っていました。私はその後ろで友人を待ちました。そんなある日、焼き芋売りのおばさんが大きな焼き芋を一つ新聞に包んで私の手に握らせてくれたことがありました。「いいから、食べなさい。」北風が吹く福岡の冬は寒く、その焼き芋の温かさとおばさんの顔を今でも覚えています。

 30数年前に香港に渡りました。市場に売られている「さつまいも」は見た目は日本の「さつまいも」と同じでした。ところが筋ばっかり、水っぽく、ちっとも甘くありませんでした。冬になると焼き芋売りがやって来ます。その芋は市場では見慣れない「さつまいも」でした。白い皮に中の身はオレンジ色、ほっくりとはしていませんでしたが甘さは十分でした。美味しい「さつまいも」に出会えないので、主人は出張で日本に帰る度に「さつまいも」を私への土産にしてくれました。その主人の様子を見て、会社の方達が出張で香港にみえる時には私へ「さつまいも」を持って来てくださいました。重い重いお土産でした。「さつまいも」の重さが嬉しさにつながりました。

 一番の思い出は、一山100円の「紅小町」という「さつまいも」が買えなかったことです。お腹には息子がいました。当時は本当にお金がなくて、最小限のものしか買えませんでした。八百屋に並ぶ一山100円の「紅小町」と書かれた「さつまいも」は通りすがりに見るだけでした。「紅小町」は色鮮やかな細めのさつまいもです。今でもざるに盛られた「紅小町」を思い出します。

 おそらくこの「紅小町」の思い出のせいか私が手にとって買う「さつまいも」は細身で小さなものばかりです。関東近辺で「紅小町」は今でも栽培されていると聞きます。当時に比べると姿が大きくなっているそうです。

 食べ物に思い出は付き物です。嬉しかった思い出、辛かった思い出も、手のひらに感じる「さつまいも」の温かさが呼び起こしてくれます。

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色の名前

2020年11月16日 | 自分ごと

曇、17度、82%

 毛糸売り場で並ぶ毛糸の玉、色とりどりです。たくさんある色を見るのが好きです。 これは私の刺繍糸を仕舞ってある缶、様々な色の糸が入っています。緑、青、どれも微妙に明度を変えていく種類も入っています。ところが毛糸も刺繍糸も色も区別は番号です。グリーンの毛糸に色の名前はありません。ただ「21」番。素っ気なく番号で区別されています。

  これはサクラ「クレパス」です。この巻紙には一本一本名前が書かれています。日本の色の名前ではありません。英語名の色の名前です。「深緑」ではなく「MOSS」一本一本手にとっては、英語名を日本語に置き換えます。英語の色の名前も素敵です。「モーブ」「バーガンディ」言葉の響きとその色が共鳴しているように感じます。

 色を何かに例えて名付けるのはどこの国でも同じようです。「すみれ色」が「バイオレット」すぐにどんな紫かわかります。「すみれ色」と言う時と「バイオレット」と言う時では、目の前に浮かぶ色が若干違うのを感じます。この「若干」は言葉の響きによるものかもしれません。

 色の名前、日本は昔からの色の呼び名があります。「金春色」などと書かれていてもすぐには色が思いつきません。鮮やかなブルーです。昔からの呼び名は、数百もの呼び名で区別されています。日本古来からの「色の名前」は着物の世界や染色の世界では今でも使われています。 「色の名前」を集めた本で漢字と色を確かめます。自然界由来の名前が多い中、時には歌舞伎役者の名前由来の色名まで飛び出してきます。古い日本の色の名前は興味が尽きません。名前の由来、染料は何か、何度も読むこの本ですがいつまで経っても覚えきれないほどの色の数です。

 幼稚園に上がって買ってもらった「クレヨン」、10色ぐらいの小さなものでした。空は「水色」、髪の毛や目は「黒」どの子もみんな同じ色を使いました。小学で少し大きな「クレヨン」を買ってもらいました。、その中にほとんど使わない色が一本ありました。色も好きではありません。それにも増してその色の名前が嫌いでした。「黄土色」です。なぜ嫌いなのか今だにわかりません。「黄土色」の言葉の響きが頂けないのだと思います。

 「はしばみ色」と言う日本名が気に入ってその色を確かめました。かすれたような薄茶です。英語名は「ヘーゼル」、声に出して色の名前を確かめます。好きな色は名前もまたいいと思います。

 私の色鉛筆は一本一本に英語名とドイツ語名が書かれています。言葉の違いはあっても「色の名前」を探るのは私の楽しみの一つです。

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今日はブログを休みます。

2019年11月16日 | 自分ごと

晴、6度、69%

 今日はブログを休みます。

 昨日、所用で上京しました。久しぶりに会う主人とたくさんの話、息子もちょっと顔を出してくれ、嬉しくてワインをたくさん飲みました。寝るのもいつもよりずっと遅くなって日付が変わって休みました。今日、明日と大事な用事が待ってます。主人に会ってホッとして気が緩んだのでしょう。体調が思わしくありません。

 

 今日はブログを休みます。

 

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長男の嫁

2019年06月08日 | 自分ごと

雨、19度、90%

 41年前、長男である主人と結婚しました。昭和50年代です。今とは社会状況も家庭のあり方も違いました。長男の嫁でしかも一人っ子ですから、結婚当時からいつかは両方の親の面倒を見なくてはと思っていました。その後、日本を30年離れました。帰国して2年、日本は社会情勢も家庭のあり方も大きく変わってしまったことに気付きます。

 海外にいましたが、まずは私の母のパーキンソン氏病に始まった家でのケア、入院、施設への入所と「介護」と名のつくことの手配を進めました。母が逝き、義父の家庭での介護に疲れた様子を見せ始めた義母のためにと義父の施設を探しました。義父も逝き、今は義母が入退院、そろそろ施設を考え始めています。

 この10年に渡る親達の問題のことを書くと、皆さんから「よくお出来になりますね。」とか「お優しい。」とお言葉をいただきます。決して人間的に優しいのでやってきたことではありません。母も義母も「長男の嫁」です。ところが二人とも姑との仲が悪く、昭和初めの人ですが同居もせず、義理の親の最期を看取ったのは別の親族でした。母も義母も「長男の嫁」としてテイタラクです。主人の家に至っては本家に仏壇があるので、義父が亡くなるまで仏壇もなく義母は仏壇の祀り方すら知りませんでした。

 この二人の「長男の嫁」を見てきてとても情けなく思いました。高度成長時代を生きてきて派手な生活をして結局最後はどなたかに頼らなくては生きていけません。社会情勢の中で深く考えることなく生きてきた母や義母だと思います。情けないを通り越して、恥ずかしいとさえ思います。私が義理の両親に尽くす原動力は、そこにあります。優しいからではありません。恥ずかしいと思うようなことはしたくないだけです。「長男の嫁」としての矜持を持っているつもりです。そんなことを言っても同居するわけではありません。ご同居の方の苦労に比べれば大したことはしていないと思います。

 考えれば、一人息子のお嫁さんも「長男の嫁」です。今と昔では世間の考えも家庭のあり方も違います。極力息子のお嫁さんに迷惑をかけないようにと常々心しています。母、義母になかった古いタイプの「長男の嫁」を務めるつもりです。

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作家とポートレート

2016年10月19日 | 自分ごと

雨、25度、95%  強風注意報

 本の裏表紙をめくると、その著者の小さな顔写真が載っていることがあります。証明写真ではありませんが、皆さん大抵普通の顔をして写っています。その小さな写真に何を感じるかは見た人任せです。

 本の内容に興味が湧いて一人の作家の本を読み続けます。ある時その作家のポートレートを裏表紙にみつけます。「この本はこんな顔の作者だったのね。」と深く頷くこともあります。そのポートレートから受けた好印象に、一体お幾つだろうかとか、どこのお生まれだろうかと次々に疑問が湧いてきて、PCの前に座ります。作家のポートレートに何も美醜を云々と言っている訳ではありません。ある程度のお年になればみなさんお顔にその方の生きてきたものが映し出されています。このお顔、この目の方の書くものなら、と私の中で安心感が生まれます。そして、その作家の新刊を待ちます。

 ところが、もちろんその逆さまもある訳です。裏表紙の作家の写真を見て、その方のふてぶてしさや奢りのようなものを感じると、どんなに評判の作家でもその作家の本を買うことも本を読むこともありません。ある時、好印象を持たなかった作家を実際に見たことがありました。会った訳ではありません。10メートルぐらいの距離でその作家を見ただけです。ホテルのロービーです。編集者の方でしょうか取り巻きの方もいます。私はロビーで人を待っていましたし、甲高い作家の声は耳に入ってきます。海外のホテルのロビーですから日本語がわかる人も少ないだろうと、作家は意外に大声で話しています。その話し方、身振り手振り、私は「やっぱりこの作家の本は読まなくてよかった。」と思いました。

 本の裏表紙の作家のポートレートは、思いの外にその人の人となりを真実で伝えてくれます。たった一枚の小さな写真です。作家の容姿や私生活は作品に関係ないと言いますが、大きく反映すると思います。海外の作家で家庭における細やかな愛情を得意とする作家がいます。いつ読んでも読み終わった後に、こういう家庭を築けたらと思える作品です。実生活もお子さんがたくさんで、本のはじめの感謝の言葉はいつもご自分の奥様宛でした。その作家が離婚しました。理由は明らかではありませんが、そのことを知って以来、その作家の作品は読んでいません。落胆もありますが、急に作品自体が虚しいものに感じました。

 また別の作家、写真からも真面目な人柄が伺えるその人の作品は、山の中で朝目が覚めた時のような作品です。作品の数は少ないのですが、この作家の本は大事に繰り返し読んでいました。お嬢さん二人がいるご家庭の話も心温まるものです。ところがこの作家、離婚して随分年の離れた女性と再婚しました。その途端、この作家の本は目に付かないところにしまい込みました。

 作家の中にも自分のイメージが作品に影を落とすことを恐れて、ポートレートを載せない作家もいるそうです。講演会などではまだ生身の人間として見られますが、小さな写真ひとつで作品を判断されたくないのだと思います。作家だって人間です。感情豊かな人間であれば離婚だってありえます。感情豊かだからこそ作家になった人もいるはずです。

 私の作家のポートレート判断、不思議に現代作家の場合だけです。もうすでに亡くなっている古典作家においては、どんなポートレートでもその方の人生を感じます。なぜ現代作家だけなのかしらと考えます。それは私自身も今を生きているからだと思います。

 ポートレートひとつでこの作家の作品は読まないなんて偏狭な考えはねと思うこともありますが、私は文学学者でもないし、世の中にはたくさんの作家がいるし、嫌だなと思った作家の作品はこれからもきっと手に取らないように思います。

 

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