チクチク テクテク 初めて日本に来たパグと30年ぶりに日本に帰ってきた私

大好きな刺繍と大好きなパグ
香港生活を30年で切り上げて、日本に戻りました。
モモさん初めての日本です。

「真奈さん」

2016年06月06日 | 自分ごと

雨、24度、91%

 物心ついて以来、両親に「真奈さん」と呼ばれて来ました。親がそうですから周りの親戚も「真奈さん」と呼びます。遥かに年上の従兄弟まで「真奈さん」です。名前に「子」が付いていたらなあ、と「真奈ちゃん」と呼んでもらいたいなあ、この二つが小さい頃の夢でした。父方の祖母から「真奈ちゃん」と呼ばれたのは小学の6年の時でした。滅多に会わない祖母です。「真奈ちゃん」の一言は祖母の甲高い声とともに忘れませんが、この私気恥ずかしさで一杯でした。

 学校時代の友人は「真奈」と呼んでくれます。もういい加減みんないいお歳ですが、「真奈」と声を掛けてもらうと決まって古い友人です。名前だけを呼ぶのは日本では呼び捨てといって失礼にもなりかねませんが、ファーストネームで呼び合うのは洋の東西親密さの現れです。

 母は亡くなる前に施設にお世話になっていました。福岡に戻れば空港から真っ直ぐ施設に、香港に帰る時も母の施設から空港に向かいます。時間ギリギリまで母の側にいてさて、立ち上がると決まってドアの辺で母が私の背中に向かって「真奈さん」と言います。もう時間がありませんので、その声をそのままにして部屋を出ます。ドアを締めても「真奈さん」と呼び続けています。看護士さんも事情はよくご存知で、早くお帰りくださいと合図してくださいます。あるとき気付くと、その施設の介護士さんから事務所の方まで皆さん私のことを「真奈さん」と呼んでいます。他の面会の方には苗字や「何々さんの息子さん」と声をかけています。一人の看護士さんがその訳を教えてくださいました。母があまりにも大きな声で「真奈さん」と呼ぶのでお世話をしてくださる看護士さん達も直に私の名前を覚えてしまったのだそうです。具合が悪くて声が出難い時も「真奈さん」だけははっきりと大声でした。

 今ではひと回り以上も年下の若い友人からも「真奈さん」と呼んで頂いています。主人の会社のお若い方も「真奈さん」と呼んでくださいます。「下川さん」でも「下川さんの奥さん」でもいいようなものですが「真奈さん」とお声をかけて下さると嬉しく思います。

 母の部屋を最後に後にした時は母は眠っていました。いつものようにそっとドアを閉める私の後ろには「真奈さん」と呼ぶ声はありませんでした。母の「真奈さん」は命令調です。あの声を最後に聞いたのはもう3年前です。「真奈さん」と母に声をかけられるのがあんなに嫌だったのに懐かしさに変わり始めています。

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麻生太郎さん

2015年04月19日 | 自分ごと

曇り、25度、85%

 麻生太郎さん、現財務大臣、いえ、総理大臣もなさったことのあるあの麻生太郎さんです。麻生太郎さんのことを素敵だなあと思い始めて、かれこれ20年は過ぎています。私のことですから、政治のことなど皆目分かりません。ただの60近いおばさんが、いいなあと思うあれです。要するにテレビに出て来る人はみんな芸能人、のノリです。

 麻生さんを可愛い、と言う方がいると聞きました。何処が?可愛いなんて思いません。だって私より遥かにおじさんです。おしゃれだってことは頷きます。そればかりか、居並ぶ政治家の皆さん、20年前と体型の代わらないのは、麻生さんと小泉さんぐらいのものではないかしら。皆さん、でっぷりと恰幅よくお成りです。

 麻生さんがおしゃれだってことは、数年前のG20の時のマフィアスタイルでも分かります。そりゃあ、お金持ちですから、お洋服なんて全て誂えではないでしょうか。ご自分の体に合ったスタイルをしています。いつだって少しウェストのしまったスーツの上着。もちろん、肩の線は真一文字。そんなにお背が高くないと思います。だからかスーツの上着の丈がやや短めです。体に沿ったスーツを何気なく着こなして、癖でしょうか、立ったまま話をしている時は、さりげなく左ズボンに手が入ります。

 でも、一言でも話し声を聞けば、しゃがれたあの声です。お顔だって、なんだか薄っぺら。眉根にしわを寄せれば、それで政治家と思ってるのと野次を飛ばしたくなる始末です。じゃあ、何が素敵かって?「襟元」です。時折ブルーっぽいシャツを着てらっしゃいますが、殆ど白のワイシャツ(おそらくこれも誂えものでしょう。)とネクタイの襟元です。最近はお歳でシワの多くなったお首ですが、その首に吸い付くように立ち上がったワイシャツの襟、そして、寸部曲がること無く締められたネクタイ、ネクタイの結び目はどんな時でもパリッと、そして、ふっくら締められています。この小さな襟元に魅せられて、20年以上。テレビに麻生さんが映れば、お顔なんて見ていません。ただただ、襟元のその清潔感だけをうっとりと。

 香港で、NHKワールドの日本のニュースしか見ない我が家は、久しぶりに昨日、麻生さんをテレビで見ました。G20に出席中とか。麻生さんの声が入らないのをいいことに、いつ見ても清潔感たっぷりの襟元のを見つめます。

 姿勢がいいのも見ていて好もしい。着ている洋服ウンヌンより、着ている麻生さんの体型と姿勢は、これは取りも直さず麻生さんのダンディズムだと思います。政治的なことは分かりません。一年足らずで総理を辞められたことだけは記憶にあります。総理の間は、ありがたいことに毎日見られたあの襟元です。

 麻生さんの襟元を見る度に、なぜか背を正す私です。

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私の手

2014年03月06日 | 自分ごと

霧雨、15度、85%

 以前にも私の手の話をしました。小さい頃から、可愛いとかきれいとか言う言葉とは縁遠い私です。10代、20代の頃は、私なりにきれいだったらなあなどと思ったものです。いえ、つい先日だって、きれいだったら違う人生があったのではと、ふと、思いを巡らします。

 容姿もそういう具合ですが、もう一つ、手にいたっては、きれいどころではありません。私の手に目が止まった方は、すぐに言葉が出ないようです。先日も、友人がこの私の手を見て直接には言えなかったのか、後で、メールを送ってきました。しかも、私の手に目が釘付けになったというだけで、コメントは差し控えてあります。彼女のやさしさです。

 どういう手かというと、まず、体の割に大きいのです。父親譲りの指も掌も大きな手。爪も父親譲りです。きっちりした四角い爪。しかも、永年の主婦仕事のおかげで節くれだっています。顔貌ばかりがその人の顔ではなく、時としてこの手が大きくものをいう時があります。若い頃はさして気にならなかった、自分の手の無骨さが、年を重ねるごとに気になります。手だって、顔同様しわも出来てきますし、もっと年がいけばシミだって出てきます。それでも、骨格の小さな手、細長い指、指先の爪は、年齢に関係なく美しいものです。

 庭仕事は好きですが、鋤や鍬を持って畑仕事をしたことも、魚のかかった網を引き上げたこともありません。でも、まるでお百姓のおばあさんや漁師のおばあさんのような手をしています。土をいじります、パンをこねます、鍋磨きだってやりますから、爪はいつも短いままです。

 母方の実家に嫁いで来た伯母は、土地があるというだけで朝早くからほっかむりをして、お蔵の裏の畑にキュウリだトマトだのを作っていました。どんな時も、ほっかむりと手の甲を日から遮るものを身につけていました。畑から帰ると、家の仕事です。夕方、その伯母が作る料理に祖父母も、伯父も私たち親戚も集います。そんなによく働く伯母の手は、いつも真っ白で、細い指をしていました。血のつながらないこの伯母のことを、ここ数年よく思い出します。そのきれいな手も。

 私の手は大きく無骨なばかりか、実は非常に不器用です。一度や二度では、仕事の要領もつかめません。いつも、私はこの不器用な手を励まします。もう一度やれば出来るよって。56年間その繰り返しです。そうやって、この手は私の無理難題を聞いてくれました。この2年程、寒くなり始めると、指関節が痛むことがあります。考えてみれば起きている間中、豆に働いてくれています。

 別の友人が、言葉を選んで働き者の手ね、と言ってくれたのは去年のこと。ほんとによく働いてくれます。私が逝く日まで、せめて、身の回りはこの手にお世話にならなければなりません。指輪なんて、全く似合わない私の手です。今日も、ああしろ、こうしろと手に発破をかけながら、ありがとうって思います。

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プーチン大好き

2011年10月18日 | 自分ごと

 晴れ、23度、83%

 プーチンとは、もちろんロシアの首相プーチンのことです。政治的にどうこうとか言うのでなく、ただ単に好きです。あの体型は私の好みでないのですが。よくテレビで見る光景、例えば、プーチンが地方を視察したとします。そこに出迎えた街の人たち、私年代のおばさん方は、プーチンに握手を求めるのでなく、腕や背中を触っています。どうも、私も彼女たちと同じ感覚のようです。と言っても、こうして公言するのは今が初めて。

 今回の家人の出張の目的地は、ロシアのセントスペテルスブルクでした。滞在は1日もなかったはずです。仕事で忙しい中、お土産物屋でマトリューシカなんて買ってこられたら困るなと、思っていました。

 フィンランドからのお土産を一つ一つ、説明付きで手渡してくれた後、ロシアからは、これだけなんだけど、と渡されたのが一枚の紙切れ。ロシア語はさっぱり解らない私です。何かの許可書かしら?

 持って帰って来た家人も何の紙か解っていないようです。ところが、プーチンのサインが入っています。

      

 家人にだって、プーチンが好きだなんて言っていませんでした。さすが、30年も一緒にいるとよくわかっていらっしゃいます。プーチンが大統領になってここ11年の間に、反政府を唱える報道関係者が20人以上も謎の死を遂げているそうです。そして、来年の3月にはまたプーチンはクレムリンに返り咲きます。そんなことも関係なくプーチンが好きなのは、近頃の各国の指導者の中で一番国民にパワーを持っているように思うのです。プーチンのサインをじっと眺めていると。ウラデミール プーチンとカタカナで崩して書いたように見えるから不思議です。

 

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魚の耳

2011年09月28日 | 自分ごと

 曇り、26度、79%、シグナル1

 台所の片隅に小さい瓶があります。私の大事な物が入っています。

 魚には、耳が見当たりません。でも、池の淵で手を叩くと、コイたちは集まってきます。それで不思議に思って、調べたのが、私が小学の5年のときでした。

 魚には、人間の内耳に相当する耳の器官があります。頭蓋骨の中に左右にある耳石と呼ばれる、骨のような物です。

  こちらは、タイの耳石です。流石に腐っても鯛と言われるだけあって、大きく固い耳石です。

  こちらは、ほかの魚たちの耳石です。耳石は、頭蓋骨の中に固定されています。そして、年輪のように細かいひだがあり、毎年このひだが足されて行きます。

 魚は、この耳石以外にも、体の両側に通った側線でも音を感じるのだそうです。

 今手元にある耳石は、香港の魚の物ですが、耳石を集めだして、もう40年以上経ちました。

 こうして、耳石のことなどを詳しく教えてくださった方がいます。内田恵太郎先生と言って、当時、九州大学の教授でした。岩波新書に「稚魚を求めて」などの著書があります。

 夏休みの自由課題に、魚の耳石を採り上げた私は、一面識もない内田先生にお電話をしました。そして、お宅に伺ってお話お聞くことができたのです。

 小学生の私にも解りやすく、魚の生態に付いて話してくださいました。もちろん、どうやって耳石を見つけるか、取り出し方まで教えて頂きました。

 それ以来、頭付きの魚を買うとこうして耳石を集めています。それにしても、夏休みとはいえ、小学生ごときに時間を割いてくださった、内田先生に感謝しています。穏やかな話し方、おっとりとした面長のお顔と、緊張して飲めなかった大好きなカルピスを思い出します。

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ろばのパン屋

2011年09月24日 | 自分ごと

 曇り、25度、78%

 時々あることなんですが 、昨日急にろばのパン屋のメロディーが頭の中で流れ始めました。ろばのパン屋と言っても、知っている人は、私より上の年代の人ばかりと思います。つまり、昭和30年の初めより前に生まれた方達ではないでしょうか?

 私が育ったのは、福岡の市内でした。ろばのパン屋が、やって来ていたのは、小学校の3年の頃までです。つまり、昭和37、8年から40年頃までです。ろばが、パンを入れた荷車を引いてやって来ていました。必ず、”ろばのパン屋はチンカラリン”という音楽付きでした。

 福岡、当時は朝早くオキュウト売りがやってきます。豆腐屋のような小さなラッパを吹いていました。昼間は、竿屋がやってきました。午後になると、子供たちのおやつ時にやってくるのが、このろばのパン屋でした。

 私学に通っていた私は、近所の子供たちより帰りが遅く、家の近くに帰って来たところで、ろばのパン屋をいつも見ました。近所の子供は、みんな声高にパンを求めていました。なぜだか知りませんが、ろばのパン屋でパンを買うことを母から禁じられていたので、私には、パンを買った記憶がありません。ランドセルを背負ったまま、遠巻きに見ているだけでした。それでも、あのメロディーの通り、あんぱんもジャムパンも何でも売っているのは覚えています。

 ろばのパン屋というので、ずっとパンを運んで来ていたのは、ろばだと思っていました。伏し目がちにゆっくりと歩く姿、足も乗馬の馬よりずっと太くて。今考えると、ろばでなくて小さな馬だったのではないかと思います。なにより、その馬がちゃんとご飯を貰っているかが心配でした。

 ある時、そのろばのパン屋の家を見つけました。筑肥線と言って在来線の踏切の近くに、こんもりと木が茂った一角があります。その一日中陽が当たらないところに、馬がつながれていました。その奥の家の煙突からは、煙が出ていました。冬には、窓から湯気も出ていました。パンを売りにいかないときは家の横の、小さな小屋につながれています。そこを通るときは、いつも父の車でしたが、必ず馬を目で探していました。そのうち、馬も、その家の煙突から出る煙も見えなくなって、ろばのパン屋とは会うことがなくなってしまいました。

 昭和の30年代には、ろばのパン屋は、日本のあちこちにあったようです。パンの味を懐かしく思い出す方も多いのではないでしょうか?私が思い出すのは、伏し目がちだった馬の姿と、煙や湯気を出していたパン屋の家です。筑肥線は、地下鉄と統合され廃線になりました。それでも、以前の踏切の辺りは、今でも木がこんもりと茂っています。

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一冊のノートから

2011年09月18日 | 自分ごと

曇り、28度、83%

 おかげさまで、思っていたより早く、10月号の「ミセス」を昨日入手できました。載せていただいた特集のタイトルは、”伝えていきたい料理のこと”でした。そして、ほかの方の記事も読んで考え込んでしまいました。

 恥ずかしい話ですが、私の母は、家事一切が嫌いです。40数年前、福岡の一般家庭には珍しく、ガステーブルとオーブンが一体になったものや、円筒形のガス湯沸かし器がありました。結局、そのオーブンは、ただの一度も、火を入れられることはありませんでした。湯沸かしを使って、洗いものをする母の姿など、残念なことに記憶にありません。あの時代です、お手伝いをしてくれる人はいました。外には、よくご飯を食べにいきました。と言っても、当時のこと、フレンチ、イタリアンなんてありません。いいお鮨、うなぎ、水炊き、呼子のお魚。トンカツは家で作るものなんて、結婚するまで思ってもいませんでした。

 そんな私ですから、ろくに料理はできませんでした。結婚当初、テレビも持っていませんでしたので、料理を教えてくれるのは、朝日新聞の”おかずのヒント’や家庭欄でした。そして、図書館で見つけた、一冊の本。「西洋料理控え」ホルトハウス房子さんが書かれた、文化出版局から出されたものです。今は、廃版になっていますが、その頃は本屋に並んでいました。でも、そんな余裕のない我が家です。その本を、丸写しにしたのが、このノートです。

  私にとって、知らないことばかりです。スパイスだって、パイ地の作り方だって、オーブンの扱い方まで。

 今考えると、当時の私にとって、かなりハードルの高すぎる本だったように思います。徐々に、スパイスを揃え、一つ一つ料理を作っていく楽しさ。ローストチキンも、基本的には、この時のままです。このノートの最後には、チキンのさばき方まで書いています。

  スパイスを買ったときにもらった、使い方のパンフレット、ホルトハウスさんの新聞の記事の切り抜き。そんなものが、全部このノートの挟まっています。

  30年はゆうに経っています。シミもいっぱい。

 私の料理は、このノートから始まりました。今まで、残念なことに、どなたにも、料理を教えていただいたことがありません。こうしたノートや、切り抜き、料理の本は、かなりの数持っています。家人の仕事の関係で、世界のあちこから見える方を、私の料理でおもてなしします。

 未だに、どうしてもうまく作れないものがあります。おにぎりです。おにぎりって、母から子供に、見よう見まねで受け継がれるもの。その根っこのない私は、おにぎりが下手です。家人にも息子にも申し訳ないと思います。それで、今でも時々昼ご飯に、一人練習しています。

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ダイレクトメール

2011年03月27日 | 自分ごと

曇り、15度、60%

 

 ダイレクトメールと言っても、郵便でなく、e-メールで届くものです。朝、パグ犬モモの散歩をすませ、走りに出かけます。帰ってきて、まず、すること、メールを開けることです。

 本当に必要な個人的なメールより、商品の紹介を兼ねたダイレクトメールが沢山です。本を買ったamazon、お店で物を求めたときにアドレスを教えたばかりに、送ってくるダイレクトメール、さまざまです。

 器が好きなので、日本の器屋さんからのダイレクトメールも届きます。いつも利用させてもらっている4つの器屋さん、2つはわざわざ郵便で香港まで送ってくださいます。

 もうひとつの店は、毎朝、香港時間で7時にダイレクトメールがやってきます。お正月も休みではありません。残りのひとつの店は、新しいものが入荷された日にダイレクトメールを送ってくれます。

 この3月11日以降、毎朝7時に届くダイレクトメール、ぴったりと止まりました。このお店は大阪にあります。そのほかの、日本からのダイレクトメールも11日以降、この2週間、ほとんどありませんでした。やっと、2週間を過ぎた頃から、まず、被災者方へのお悔やみの言葉から始まるメールが届くようになりました。

 もう20年以上もお付き合いのある、新しい商品を入荷したときにダイレクトメールをくれる器屋さん、東京にお店があります。3月13日、メールを開けるとこのお店からのダイレクトメールが入っていました。地震の事にも何一つ触れずに、卒業、入学シーズンむけの贈答品の紹介でした。  このメールを見たときのわたし、「何、考えてんの?」と、たいそう腹を立ててしまいました。予め、このメールを出す手筈が整っていて取り消すことが出来なかったのかもと、ちょっと、気を取り直していたところ、18日に、またダイレクトメールです。お悔やみの言葉はなく、被災地への配達が出来ない、ことが記されているだけでした。

 ダイレクトメールを送ること、それは買う側の利便性もあるでしょうが、もちろん売る側の営利目的があってのことです。また、確かに、日本中、世界中の人がその時期に、その品を求めているかもしれません。

 それでも、震災2日目に送られてきたダイレクトメールに、不快感が残っています。日本中の人が、あの大津波の様、これから、考えられるだろう行方不明者、死者のことで胸が一杯だった時期です。

 もう一方の、大阪にお店がある器屋さん、2週間を過ぎた昨日の朝、いつものように香港時間で7時に久し振りのメールが入っていました。お悔やみの言葉はありませんが、商品の値段の3%を、地震のために寄付をしますとだけ、最後に書かれています。

 震災2日目にダイレクトメールをくれたお店とは、ほんとに長いお付き合いでした。わたしの好みもよく分ってくださっていて、随分無理も聞いてもらったものです。でも、きっともうこのお店でものを買うことがないと思います。

 主婦の、ほんとに小さな世界、小さな視点からの発言です。

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香港から

2011年03月23日 | 自分ごと

曇り、15度、70%

 香港に住む我が家では、テレビはNHK World しか見られません。香港では、それなりの端末を用意すれば、関西、関東の民放も見ることが出来るようになってきました。実は、我が家も家人が、早くからその端末機を買い求めているのですが、「これ繋ぐと、きっと、一日中テレビの前から動けなくなるよね。」と、大切に仕舞いこんであります。

 このNHK、11日から、24時間ニュースだけです。時々、日本語でしゃべってくれますが、ほぼ、英語しか話しません。今、日本の民放は、娯楽番組を規制しているのでしょうか?

 被災地の人にも和んでもらえるような娯楽番組、懐かしい歌の番組ならいいと思うのですが。かといって、原発、被災地の様子ばかりでも、辛いものがあります。

 昨日読んだある記事、被災者の方の声です。「わたしたちのために、心を砕いてくれることはありがたいが、(被災者でない人は)嬉しいときは、笑って喜んで欲しい。いつか、自分たちも、(被災者でない人たちよりも)、もっと幸せになってわらえる日が来るから。」というものです。

 この方は、決して強がっているのではないと思います。この言葉に、頭が下がると同時に、かえって、励まされてしまいます。被災者の方の道は、まだまだ長いもののはずですのに。

 香港日系のスーパーの棚が品薄なのを見て、やっぱり心配なわたし。何が心配かって、家人のお米です。わたしはタイ米なので心配ありません。それで、トンロー湾にある日系デパートそごうに行ってきました。そごうに入るのは、久し振りです。日系のデパートですから、当然、地下が食料品売り場。あれ?お米も、乾麺、お塩もちちゃんとあるじゃない。なんだか、気が抜けました。

 今朝の、South China Morning Postの一面、原発の記事ではなく、日本食料品を輸入している会社が、早急に品物を入れると言うものでした。早急でなくかまいません。まだ、こちらには食べ物があります。早急に必用としているのは、被災地ですから。

 香港の義捐金も$50 million,早速送られるそうです。わたしが、参加している小さなボランティアグループも昨日、赤十字経由で寄付をしました。メディアの発達で、世界中が日本を見ています。小さなご飯やさんのテレビにも、日本の被災地のニュースは流れています。

 そして、一杯300円ほどのご飯を食べている人たちが、その小さなお財布から、少しでも日本に向けて、寄付してくれること。小さいけれどそれが集まれば大きなものになることも、日に日に実感します。

 世界中の人が見ています。原発の発言にどうか嘘がありませんように。

 被災地の犬のことを書こうと思いながら一日一日、延びています。気が重くて。

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バーバ

2011年03月22日 | 自分ごと

晴れ、21度、93%

 

 先日、誕生日を迎えました。この歳になっても誕生日が好きです。祝っていただけるからとはちょっと違って、わたしにとっての元旦です。次の一年をどう生きるかの、仕切りなおしだと思って、その日を迎えます。

 もちろん家人も祝ってくれます。東京にいる一人息子も、必ず電話をくれます。今年は息子からの電話を受けた途端に、「どうしたの?何かあった?」と聞きました。余震や、原発の動きがとても心配だった頃です。

 この息子、まだ結婚していません。だからまだ孫がいない私ですが、私のことを[バーバ」とか「おばあちゃん」と呼んでくれる子供がいます。5歳の男の子と、3歳の女の子の兄妹です。

 昨日は、この二人から、プレゼントが届きました。包みを開けようとすると。

     包みの回りにも絵や手紙が。どうりで、いつもの郵便やさん、いつもよりニコニコしていました。

   15年くらいの付き合いの、この子たちのママ。いつも、素敵なラッピングです。

   お手紙も。写真もあったのですが、それは、見せません。

   あせっていたわたし、写真の前に開けようとしていました。

 なかから、 あれ、ゆでたまご?

 イエ、    桜のお茶時間セット。桜の日本茶。桜のゼリー。桜のおかき。桜の飴。

 グリーンの袋からは パグの小さな置物です。

 まだあります。  開けると

  桜の紅茶です。桜ずくし。

 香港には桜がありません。日本の春が、やってきました。この紅茶、まるで桜餅。珍しい感覚です。

 ほんとにありがとう。私、まだこの子たちに会っていないんです。裏富士が見える町に住むこの兄妹に、今年は会いたいと切に思いました。

 今年の誕生日は、心の隅から震災のことが消えません。こうして、幸せを感じていられることに感謝します。

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