気ままに

大船での気ままな生活日誌

思い出旅行(2)

2006-09-01 21:52:07 | Weblog
いよいよアルペンルートの始まりです。富山から美女平、室堂、黒部ダム、扇沢を経て、信濃大町に至るこのルートは昭和47年に完成しました。永年に渡る黒部のダム工事のときに、すでに、将来の観光への利用も視野に入れ計画されていたようです。今や年間100万の観光客が訪れる日本有数の観光地になっています。私達が新婚旅行で訪れたのは昭和49年の9月でしたから、まだ出来たての、ほやほやのときだったのです。

富山駅から富山地鉄に乗り、レトロで懐かしいような、小さな駅をいくつも通り過ぎ、1時間ほどで、立山駅に着きます。ここから、29度という日本一傾斜度のある、ケーブルカーで一気に美女平(いい名前をつけてもらいましたね)に上がります。そこから高原バスで、称名滝やそうめん滝(軽い名前をつけられましたね、白糸とはえらい違いです)を見ながら、室堂平につきます。ここに今日宿泊するホテル立山があります。標高2450Mです。日本一高いところにあるホテルです。新婚のときも同じホテルですが、ワイフはどうも建物に見覚えがないと首をかしげています。

荷物を部屋におき、すぐホテル周辺の室堂平ミニツアーに参加します。下界では晴れ間があったのですが、すっかり曇ってしまい、ときどき雨がぱらつく天気になってしまいました。あそこには、立山連峰が雄大に、その左には凛々しく剣岳が見え(2秒沈黙ーーー)るあるはずです(我々のおつきあいの笑い)、と説明員の方が申し訳なさそうに声を落とします。私は想像力がたくましいので、心眼でよく見えました。立山が日本三大霊山(富士山ともうひとつ忘れました)のひとつだということも初めて知りました。信仰の山なのです。雷鳥も這松の林の中に、何百羽か、生息しているとのことです。今の時期では、運が良いとみれるとのことでした。私は翌朝、子供の雷鳥を観察しました。心眼ではありません。みくりが池とその背後の山々が池に写る姿を心眼でみさせてもらいました。我が国最古の山小屋、室堂山荘はしっかり肉眼で、尊敬しながら、みせていただきました。家に帰ってから、古いアルバムを何十年振りに開きました。立山連峰は、はっきりと、凛々しく写っていました。晴れていたのですね。そして、その前に、当時ロングヘアーの美女が慎ましく立っていました。一瞬どこの娘(こ)かと思いました。

ホテルに戻り、部屋の窓から、残雪がみえます。9月中旬にならないと、消えないそうです。さすが、我が国有数の豪雪地帯です。よくテレビのニュースにも出てくる、大谷の10mの高さもの雪の壁は、この辺りの道路の壁だそうです。窓の向こうの残雪の形(写真)をじっとみていると、何かにみえてきました。となりの元美女に、あれ、イタリアに見えない、ほら、右の方が、この春、観光したシチリア島で、と言うと、そうねと、かたちばかりのあいずちをうちます。じゃー、昼寝をしているカラス天狗、頭のあたりにくちばしがあるだろー、・・・・・沈没しつつある日本列島・・・まあ合格、そろそろ夕食よ、と、頭はそちらに行っているようです。

会席料理でした。前菜だけでも6種類も入っていました。そのあと、お造り、炊き合わせ、焼き物、冷やし鉢、揚げ物、酢物と続きます。私はお酒を中心に、きたものを無造作に食べていきますが、ワイフはひとつひとつ吟味しています。これは懐かしい味だとか、何ともいえない微妙な味だとか、感想を言いながら、食べ進みます。朴葉焼きの残った味噌は最後までとっておいて、ご飯のときのおかずにもしていました。新婚旅行のとき、高山で朴葉と味噌をおみやげに買ったこともちゃんと憶えていました。私は食事をしながら、目の前の二重窓の間の金属製の支え棒の赤い錆を感慨深く眺めていました。このホテルも昭和47年に竣工しています。我々が暮らした年月とほぼ同じです。この建物は、まさに30数年の風雪に耐えてここまできたのです。我々は、たいした風雪ではないにしても、それらに耐え、こうして無事に、ここまできたことに、感謝したい気持ちになりました。

翌朝、サービスのコーヒーが用意されている、6階の洋食レストランに行きました。すると、彼女が叫びました、憶えてる、ここよ、この重厚なつくり、たしかに、新婚旅行で来たときのレストランだ、と。そのときの夕食は洋食で、ここで食べたのです。はじめ、建物をみて、このホテルに憶えがない、言っていましたのに、笑ってしまいました。女性は食べ物と記憶が直結しているのでしょうか。天気が回復してきたようです。いよいよ黒部ダム方面に向かって出発です。

(つづく)

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