午前中、なんとか天気がもちそうだというので、9時すぎに、ワイフと鎌倉散歩に出かけました。先日紹介した亀ヶ谷コースの浄光明寺版です。北鎌倉駅から亀ヶ谷切り通しを抜けて、まず海蔵寺に寄ります。萩の花が大分、開いてきました。あと一息です。また、先週は、蕾ばかりであった、2メートルもある背の高い、紫苑(しおん)が、いくつか、野菊のようなかわいい花をつけていました(写真)。着実に秋は進んでいます。
岩舟地蔵まで戻り、扇川沿いを上がり、しばらくして左に曲がります。作家の里見とんさんが住んでおられた、静かな住宅街を山に向かって歩くと、すぐ浄光明寺です。山門を入ると、赤い萩の花が目につきます。海蔵寺より開花が進んでいる感じでした。境内のあちこちにある、赤い彼岸花も咲き始めていました。ただ、ここのメインの、大きな円形の彼岸花専用庭園のは、ほとんど咲いていませんでした。土から飛び出てきた、茎が10センチ程度になったばかりです。でもここが、満開になったら、鎌倉一でしょうね、と思わせました。
山門を入ってすぐ左に楊貴妃観音があります。お名前のとおり美人顔の観音様です。お参りするときれいになるということで、女性の参拝者が多いようです。でも、みるとお賽銭が5円玉とか10円玉ばかりでした。これでは、むしが良すぎますね。中国の玄宗が38才で亡くなった楊貴妃を偲んで観音さまをつくりました、その500年後、日本の留学僧が京都の泉湧寺に持ち帰りました、そのコピーが、最近、末寺のこのお寺に安置されたというわけです。
このお寺の見所は、目の前の客殿ではなくて、そこの右脇を通り、石段を上がったところに、隠れたように建っている、本殿と収蔵庫です。ここは、受付を通して入らなければなりません。いつでも開いているわけではなく、土日と木曜日だけだそうです。私達は今回、始めての入場です。わくわくします。
お目当ての収納庫に安置されている仏像を拝観しようとしますと、お寺の方が、もし裏山の上に行かれるならば、先にそちらにどうぞ、少し前、冷泉家の縁者の方がお墓参りに行かれましたよ、とおっしゃいました。そこで、裏山の曲りくねった細い道を登っていきました。途中で、大きなやぐらの中に石造の網引地蔵菩薩を拝観することができました。由比ヶ浜の海岸で漁夫の網にかかって、ここに安置された仏像さんです。ありがたいお姿でした。
さらに、登っていくと、お目当ての冷泉為相(ためすけ)さんのお墓の前に出ます。上品な初老の紳士とお二人のご婦人が、お墓参りをしたあと、記念撮影をしていました。挨拶をして、少し、お話しました。私達は、冷泉家の縁者で、毎年お彼岸の頃にお参りにきます、為相のお母さんの、あの十六夜日記の阿仏尼(あぶつに)さんのお墓にも先ほどお参りしてきました、とお話くださいました。為相は藤原定家の孫にあたり、遺産相続の関係で幕府へ訴訟にきた阿仏尼のあとを追って鎌倉にきたのです。そのあと、歌人として、この藤ヶ谷で生涯を全うしたのです。和歌の家柄として、現在まで続いている名門の、冷泉家の祖となった方です。縁者の方のお話ですと、京都の御所の前にある、最後に残った公家屋敷として有名な冷泉家は、上冷泉家で、東京の私達は、途中で分岐した、下冷泉家だと、言うことでした。偶然、関係の方のお話伺うことの出来た幸運を喜びながら、お花に飾られ、きれいになったお墓の前で手を合わせました。お墓の玉垣は、水戸黄門さまの寄進だということです。
下に降りますと、先ほどの冷泉家の方々と10人くらいの熟年グループの方々が、収納庫の前に集まっていました。お寺の方の説明が始まるところでした。お堂の中に、いかにも、ありがたいお姿の仏像が3体こちらに、やさしい目を向けています。中央に阿弥陀如来と、右に観世音菩薩、左に勢至菩薩です。中世鎌倉地方彫刻の代表的なものだそうです。大型の土紋の貼り付けなど、宗朝美術の影響を強く受けているということです。国の重要文化財に指定されています。お堂の左はじに小さな仏像さんがおられます。地蔵菩薩像で、別名、矢拾い地蔵といいます。足利尊氏の弟、直義の守り本尊で、右手に矢柄の錫杖をおもちです。戦場で矢のなくなった直義に矢を拾ってあつめてくれた子供が日頃信心している、お地蔵さんだったという伝説があります。
来週あたり、彼岸花が咲きそろいそうですので、また訪れたいと思います。帰りは線路を渡り、今小路を通り、鎌倉駅に向かいました。駅前の、和風茶寮、扉(とびら)で、ワイフはお気に入りの、ミニサイズのお重が3つ選べる一口重ね(1500円)、私は、鎌倉ビールと鶏雑炊をいただきました。おいしかったです。まだ、雨は大丈夫のようです。
岩舟地蔵まで戻り、扇川沿いを上がり、しばらくして左に曲がります。作家の里見とんさんが住んでおられた、静かな住宅街を山に向かって歩くと、すぐ浄光明寺です。山門を入ると、赤い萩の花が目につきます。海蔵寺より開花が進んでいる感じでした。境内のあちこちにある、赤い彼岸花も咲き始めていました。ただ、ここのメインの、大きな円形の彼岸花専用庭園のは、ほとんど咲いていませんでした。土から飛び出てきた、茎が10センチ程度になったばかりです。でもここが、満開になったら、鎌倉一でしょうね、と思わせました。
山門を入ってすぐ左に楊貴妃観音があります。お名前のとおり美人顔の観音様です。お参りするときれいになるということで、女性の参拝者が多いようです。でも、みるとお賽銭が5円玉とか10円玉ばかりでした。これでは、むしが良すぎますね。中国の玄宗が38才で亡くなった楊貴妃を偲んで観音さまをつくりました、その500年後、日本の留学僧が京都の泉湧寺に持ち帰りました、そのコピーが、最近、末寺のこのお寺に安置されたというわけです。
このお寺の見所は、目の前の客殿ではなくて、そこの右脇を通り、石段を上がったところに、隠れたように建っている、本殿と収蔵庫です。ここは、受付を通して入らなければなりません。いつでも開いているわけではなく、土日と木曜日だけだそうです。私達は今回、始めての入場です。わくわくします。
お目当ての収納庫に安置されている仏像を拝観しようとしますと、お寺の方が、もし裏山の上に行かれるならば、先にそちらにどうぞ、少し前、冷泉家の縁者の方がお墓参りに行かれましたよ、とおっしゃいました。そこで、裏山の曲りくねった細い道を登っていきました。途中で、大きなやぐらの中に石造の網引地蔵菩薩を拝観することができました。由比ヶ浜の海岸で漁夫の網にかかって、ここに安置された仏像さんです。ありがたいお姿でした。
さらに、登っていくと、お目当ての冷泉為相(ためすけ)さんのお墓の前に出ます。上品な初老の紳士とお二人のご婦人が、お墓参りをしたあと、記念撮影をしていました。挨拶をして、少し、お話しました。私達は、冷泉家の縁者で、毎年お彼岸の頃にお参りにきます、為相のお母さんの、あの十六夜日記の阿仏尼(あぶつに)さんのお墓にも先ほどお参りしてきました、とお話くださいました。為相は藤原定家の孫にあたり、遺産相続の関係で幕府へ訴訟にきた阿仏尼のあとを追って鎌倉にきたのです。そのあと、歌人として、この藤ヶ谷で生涯を全うしたのです。和歌の家柄として、現在まで続いている名門の、冷泉家の祖となった方です。縁者の方のお話ですと、京都の御所の前にある、最後に残った公家屋敷として有名な冷泉家は、上冷泉家で、東京の私達は、途中で分岐した、下冷泉家だと、言うことでした。偶然、関係の方のお話伺うことの出来た幸運を喜びながら、お花に飾られ、きれいになったお墓の前で手を合わせました。お墓の玉垣は、水戸黄門さまの寄進だということです。
下に降りますと、先ほどの冷泉家の方々と10人くらいの熟年グループの方々が、収納庫の前に集まっていました。お寺の方の説明が始まるところでした。お堂の中に、いかにも、ありがたいお姿の仏像が3体こちらに、やさしい目を向けています。中央に阿弥陀如来と、右に観世音菩薩、左に勢至菩薩です。中世鎌倉地方彫刻の代表的なものだそうです。大型の土紋の貼り付けなど、宗朝美術の影響を強く受けているということです。国の重要文化財に指定されています。お堂の左はじに小さな仏像さんがおられます。地蔵菩薩像で、別名、矢拾い地蔵といいます。足利尊氏の弟、直義の守り本尊で、右手に矢柄の錫杖をおもちです。戦場で矢のなくなった直義に矢を拾ってあつめてくれた子供が日頃信心している、お地蔵さんだったという伝説があります。
来週あたり、彼岸花が咲きそろいそうですので、また訪れたいと思います。帰りは線路を渡り、今小路を通り、鎌倉駅に向かいました。駅前の、和風茶寮、扉(とびら)で、ワイフはお気に入りの、ミニサイズのお重が3つ選べる一口重ね(1500円)、私は、鎌倉ビールと鶏雑炊をいただきました。おいしかったです。まだ、雨は大丈夫のようです。