ボクのお気に入りの散歩コースのひとつに、北鎌倉の長寿寺の脇から亀ヶ谷(かめがやつ)切通しを抜け、海蔵寺に向かう道があります。昨日も午後から雨があがってきましたので、その道を歩いてきました。ときどき、この日誌でもこのコースについて紹介していますが、道々の景色については記述していなかったように思います。で、今日は、亀ヶ谷切通し界隈の、あれこれを紹介してみたいと思います。
この切り通しの坂は結構急です。むかし、建長寺の大覚池の亀が外の世界をみたいと抜け出し、この坂を上り始めたのですが、あまりの急坂で途中で引き返してしまった、という謂われがあります。それで亀返坂(かめかえりさか)と呼ばれるようになり、それがなまって”亀谷坂”になったそうです。この坂は鎌倉時代に山を切り裂いてつくられた道、”切通し”で、鎌倉七切通しのひとつです。ちょうど向こう側から登ってくる人がいました。
亀谷坂の頂上付近に大きなアーチ状の石門が目にとまります。門の向こうはマンションが建っていますが、以前は温泉(鉱泉)旅館があったところです。そして石門の脇に”田中智学師子王文庫跡”とゆう石碑が建っています。説明文がなにもないので、どんな人だろうと思っていたのですが、あるとき、たまたま読んだ本の中に、宮沢賢治ゆかりの宗教家という、ただそれだけの記述をみつけました。その後、東北旅行をしているとき、勿来(なこそ)の関だったと思うのですが、彼の大きな石碑が建てられていて、きっと”大物”なんだろうなと思っていました。
その日、もう少し彼のことを調べてみたいと思い、図書館の地下の書庫にねむっていた、縁者が書かれた田中智学の解説書を走り読みしました。日蓮宗の一派をつくり、関西方面から鎌倉に移り、明治30年から42年までここに本拠を構えていたそうです。途中、敷地内に鉱泉をみつけ、温泉宿もつくり繁盛したようです。宮沢賢治との関係の記述はありませんでしたが、信者だったのでしょうか。いろいろなつながりが解明され、さっぱりしました(笑)。ついでながら、ボクはどの宗教にも入っていません。宗教心は、少しは(汗)あるかもしれませんが。

住宅街に入って、まもなく左側に小林秀雄さんの旧居跡地が現われます。現在は空き地となっていますが、小林さんのあとに住んだ、漫画家の那須良輔さんの鉄の門扉が残っていますのですぐ分ります。茄子(那須のつもりでしょう)、カボチャ(かぼちゃ頭の意味でしょうか、笑)、キュウリなども模様が透かし彫りされています。那須さんは名随筆家でもあり、小林さんとも懇意にしていましたので、彼の本から、いろいろ小林さんの私生活の一面も知ることができました。今は東慶寺の同区画の墓地に、お二人仲良くねむっておられます。小林さんと仲良くしていた里見さんも近くに住んでいました(浄光明寺のそばです)。

そこから少し歩くと、分かれ道に出ます。その辻に岩舟地蔵があります。頼朝と政子の娘、大姫を供養するお堂です。中に白い地蔵尊が安置されているのがのぞけます。最愛の若き夫、義高(木曾義仲の嫡男)が頼朝に殺害されてからノイローゼになり20才の若さでこの世を去った悲運のお姫さまです。義高のお墓は大船の常楽寺の裏山にあります。その近くに大姫のお墓(実際は違うらしい)もあります。ボクは大船に越してきてすぐに、偶然みつけてびっくりしました。
左に行くと浄光明寺、右が海蔵寺、化粧坂切通し方面になります。海蔵寺に向かいました。山門をくぐると、すぐの庭園の紫苑がもう20~30センチの背丈までに育っていました。秋には2メートル近くになり、今昔物語にも出てくる古くて、うつくしい花を魅せてくれるでしょう。つつじと苔は今盛りでした。

境内はGWにしては、いたって静かでした。
帰り道、ふと目にとまった山門前の句碑。清水基吉さんの句です。芥川賞作家ですが、俳人としても有名です。大船に住んでおられましたが、ついこないだ、お亡くなりになりました。偶然、その葬儀の前を通りかかり、知ったのです。いつもは見過ごしていた句碑をしみじみとみつめました。
”侘び住めば 八方の虫 四方の露”
あとで図書館で調べましたら、大船以前はこのお寺の山門脇の家に住んでいたそうです。それで、ここに句碑があるのですね。
帰り道、化粧坂切通し(これも鎌倉七切通しのひとつです)に寄りました。源氏山に登る坂で、かなり急坂です。それに雨も降り始めてきてすべりそうなので、前述の亀ではありませんが、途中で引き返してきました。そういえば、十六夜日記の阿仏尼もここから鎌倉入りしたのです(司馬遼太郎さんは異説をとなえていますが)。近くの浄光明寺には阿仏尼の子供、冷泉為相(藤原定家の孫)のお墓がありますし、阿仏尼のお墓も鎌倉駅に向かう道すがら参ることができます。その日もお参りして帰りました。
今日は少しマジメにまとめてみました(汗)。