気ままに

大船での気ままな生活日誌

博多の桜も良かったなあ

2010-04-07 18:25:32 | Weblog
今日の朝日の夕刊に、井の頭公園の池に浮かぶ花筏の写真が出ていた。いよいよ、関東地方では、桜も散りゆく時を迎えている。ぼくは今年、ずいぶんと桜を観たような気がする。大阪では、まだ、一、二輪の咲き始めを、そして九州では満開の桜を観た。そして京都では、ほぼ満開の枝垂れ桜に堪能し、帰ってからは、地元の鎌倉、そして、東京桜名所10ヶ所と、加えて昨日は横浜山手とゆうふうに、数え切れない、というのは大げさだが、まあ、ずいぶんと、各地の桜を見せていただいた。とても忙しかったけれど(汗)とてもうれしい桜の季節だった。ほとんどの桜(ぼくが観た)はブログに記録しているが、まだひとつだけ、忘れていた桜があった。博多の桜だ。3月末の、福岡城跡の、舞鶴公園の満開の桜はとても見事だった。今日は、遅ればせながら、その写真をのせようと思う。

大濠公園は何度か訪ねたことがあり、桜の季節でなかったこともあり、ぼくはてっきり桜もその濠の廻りにあるものと勘違いしていた。そに隣接している、舞鶴公園にあるのだ。石垣やいくつかの櫓などの遺跡が残る、城跡に樹齢を重ねたりっぱな桜の樹があちこちに満開の花をつけていた。









♪酒はのめのめのむならば♪で知られる、黒田24騎のひとり、豪傑、母里太兵衛邸、長屋門。


その日、3月29日の夜はもちろん、中州で♪酒はのめのめのむならば♪のひとり酒。ガガガの女房は熊本に残しているし、いくらのんでも文句はでない。でも悪所にはいきませんでした

博多の桜、もう、散ってしまっただろうな。


。。。

たしか、小柳ルミ子さんは福岡出身だった。”私の城下町”はここをイメージしてたのかな。

格子戸をくぐりぬけ
見あげる夕焼けの空に
だれが歌うのか子守唄
わたしの城下町
好きだともいえずに歩く川のほとり
往きかう人に
なぜか目をふせながら
心は燃えてゆく

その頃の娘さんはみんなおばさんになってしまった。♪心は冷めてゆく♪ あーあ
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横浜山手の桜と神奈川近代文学館

2010-04-07 12:03:09 | Weblog
目黒川の花見をしたあと、ぼくらは東横線で元町中華街駅へ直行した。エレベーターでアメリカ広場まで上がり、外人墓地の花見をして(結構あるのだ)、目的地の、日本最初の洋式公園として”名勝文化財”にも指定されている、山手公園に向かった。ぼくはここのヒマラヤスギと桜が好きで、今頃には必ず行くようにしている。とくに花吹雪のときが最高だ。ヒマラヤスギの濃い緑をバックに、吹雪のように散る桜のはなびらは、夢のようにうつくしい光景だ。一昨年だったかが、まさにその時期にあたり、うっとりしたもんだった。

途中の元町公園や教会の桜をみて、その花吹雪には、まだちょっと早いかなと思って、山手公園に着いたら、やっぱりそうだった。花びらは、吹雪とまではいかず、小雪がちらつく程度だった。それでも、ちらついた小雪の花びらは、積もるほどではないが、うっすらと地面を桜色に染めていた。

山手68番館と桜


お花見


桜色に染まった道で遊ぶ子供たち


一陣の風がふいてきて、花びらが散った。ヒマラヤスギを背景にすこしだけ花びらをとらえることができた。

。。。

山手公園の入り口の教会の枝垂れ桜。今年もうるわしく咲いていた。

。。。




神奈川近代文学館で”二葉亭四迷展”をやっていたので、覗いてきた。当館所蔵の中村光夫文庫からの資料だそうだ。四迷の自筆原稿や坪内逍遥への書簡等が展示されていた。彼の本の挿絵もいくつかあり、月岡方年のもあった。”無惨絵”ではなかった(笑)。四迷については、筆名が父親から言われた”くたっばってしまえ”からきたこと、名作”浮雲”くらいしか知らなかったので、いろいろ勉強になった。

若いときは、政治問題に関心をもち、ロシアに樺太を領有されたのを契機に、あの国はなにをするかわからんと軍人になろうと陸士に受験するも、落ちて、結局、外語のロシア語学科に入学したそうだ。そこでロシア文学に触れ、文学志望になったそうだ。人生はそんなもんで行き当たりばったりでいいのだ(これはぼくの意見;笑)。その後、文学者として活躍するが”浮雲”を書いているうちに、文学に自信をなくし、離れる。転々と職業を変え、内閣官報局に行ったり、朝日新聞の記者になったりする。特派員としてロシアの首都、サンクトペテルブルグで働くが病気となり帰国の途中に亡くなる。破乱の人生をおくられているのだ。

中村光夫文庫なので、彼自身の自筆原稿等の展示もある。”二葉亭四迷伝”、”荷風の外遊”などがある。中村光夫は著名な評論家だが、ぼくはあまり彼の作品を読んだことがない。パンフによると”二葉亭四迷の失敗つづきの悲劇的生涯に外国文化の受容や文学における社会性など現代にまで続く課題を見出した、日本の近代の実相を分析批判し、あるべき文学の可能性を探究した評論家”だそうだ。

彼が、”近代評論”を確立した評論家は北村透谷と小林秀雄であるのは間違いないが、どちらもmystic(神秘主義者)である、と言ったということを思い出した(弟子筋の新保さんの講演で知ったことだが)。この言葉は、どうゆう意味が込められているのだろうか。

神奈川近代文学館の芸亭(うんてい)の桜が、満開だった(橋の上から観ている)。ぼくもファンの中野孝次さんが館長だったころは、毎年、この樹の下でお花見の宴を開いていたということだ。今もつづいているのだろうか。





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