気ままに

大船での気ままな生活日誌

台峯から山桜を

2010-04-09 21:22:52 | Weblog
ぼくが鎌倉へ越してきてから、ちょうど5年になるが、何が一番良かったかと問われれば、今頃の鎌倉の山々のうつくしい山桜を眺められることかな、と答えるだろう。横須賀線の車窓からみえる山々、浄妙寺の高台からみえる向かいの山々、どこの山々にも、山桜がパッチワークのように散りばめられている。ぼくが今まで住んできた、三鷹や川崎やつくば等ではみられない光景だ。

一昨年、地元の人の案内で、北鎌倉の台峯を散策して、おろちの桜を観る会に参加した。そのとき、鎌倉一の山桜のビューポイントを教えていただいた。すばらしい光景だった。それ以来、去年はワイフと一緒に、そして、今年も、ワイフが是非、行きたいというので出掛けてきた。足が丈夫な間は、毎年来ようと、話している。

北鎌倉駅を降りて、鎌倉街道を右に折れ、材木屋さんのところから左折し坂道を上ってゆく。途中に鎌倉市でただひとつになってしまったという、田んぼがある。まだ、残っていた、がんばってほしい。

そこを通りすぎ、しばらくすると、山に登る道が現れてくる。そこを登っていけばいいのだ。そのビューポイントまでの間にも、ときどき、木々の間や、住居の間から、山桜に彩られる山々の一部をみることができる。こうゆう所に住んでいる人がうらやましく思う。


山路では、足元に、なにやらゆかしの菫草だし、鶯や小鳥のさえずりも絶え間なくきこえてくる。そして、あの、”おろちの桜”に負けないくらい、大きな山桜が、次々と現れてくる。


途中で台峯緑地(ここがまた、すばらしい元・里山で野村不動産から鎌倉市が買い取った自然林なのだ)に向かう別れ道があるが、そこを通りすぎると、お目当てのビューポイントに着く。いつも、何人かの人がいるのだが、今日は一人だけだった。こんな景色が目の前に開けている。

途中で、わんこを連れた奥さんも入り、前に来ていた人と話し始めた。その方は1日中、ここにいるのだという。山桜の咲くころに、サシバという種類の鷹が東南アジアから渡ってくるので、その観察をしているのだそうだ。今日は二羽みたよと言っていた。秋になると群れをつくって、東南アジアに帰るのだという、去年の10月4日に、268羽飛んでゆくのを観察したそうだ。鎌倉市により台峯という緑地が残されているから、毎年、飛んできてくれるのだ。ぼくらは、もうこれ以上、かれらの住みかをこわしてはならない。アホ・サピエンスはこの1世紀ずいぶんと、ばかなことをしてきたし、いまだに全世界でつづいている。

円覚寺もみえる。裏山は六国見山である。山の向こう側は大船で、同じ鎌倉市なのに風致保存法からはずされているので、山は削られ、住宅地になっている。本当なら、同じ景色がぼくのマンションからみえるはずなのに、と思うとさみしい。

十分、山桜の景色を堪能して、山をおりてゆく途中、西洋タンポポではなく日本タンポポをみつけた。

また、来春も来ようと思う。
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安田靫彦展 in 川崎市民ミュージアム

2010-04-09 09:35:42 | Weblog


寅年ご開帳を拝観してから、武蔵小杉からバスで10分の川崎市民ミュージアムに向かった。ここで、歴史画で有名な安田靫彦の展覧会をやっているのを知ったからだ。ぼくは元川崎市民で、ちょっと前まで実家は川崎にあった。むかしから川崎といえば、工業地帯、ぼくの出た高校のクラス文藝誌(ただの作文集だが)の題名は”煤煙”だった(笑)。それが、今では、大きな工場は地方に移転し、文化を売り物にしている。りっぱな音楽ホールはあるし、このミュージアムだってたいしたものだ。安田靫彦の作品を500点も所蔵していることを知り驚いた。

今回の展覧会は、この所蔵品を中心に、”歴史画誕生の軌跡”というサブタイトルで沢山の作品が、広い展示室に並べられていた。本画作品は20点ほどだが、下絵や写生画、模写などに、ぼくの知らなかった、安田靫彦の素顔が出ていて、とても楽しかった。法隆寺金堂の壁画模写なんかもよかった。勢至菩薩さまの腰のくびれなんか色っぽかったし(汗)、草花の写生図もほんわかした気持ちにさせてくれた。ぼくの好きな石竹の赤い花(鉛筆画で淡彩だったと思う)や桜や薔薇、そして、かまきりやこおおろぎなどの昆虫、加えて、これも大好きなカワセミなど小鳥の写生図などが並んでいた。身近な動植物を愛していたことがよくわかる。埴輪も好きだったらしく、自分でもコレクションしていたらしく、実物も展示してあった。もちろんスケッチ画もいくつもあった。

もちろん人物画もあり、身近な人々の写生もしている。同じ年で、同じく大磯に住んでいた慶応の総長をして、浮世絵コレクションでも知られる高橋誠一郎や大観の写生図もあった。

こうゆうふうに、古画を学び、身近な人物や動植物を描き、歴史資料を研究して、歴史画の大家になった、ということがわかるように展示してある。

”王昭君”の下絵をみつけたときはうれしかった。これは最近、(NHK朝ドラの”ゲゲゲの女房”の故郷にわりと近い)、足立美術館で本画作品をみていたからだ。先日、熊本城の本丸御殿の壁画でも王昭君をみている(これは靫彦作ではないが)。靫彦は彼女が好きらしく、同名で別の作品もある。楚の項羽と漢の劉邦が、秦の都咸陽郊外で会見した、”鴻門会”などの中国の歴史画もいくつもあった。

もちろん日本の歴史画もある。そのひとつ、ちらしを飾る”草薙の剣”。ヤマトタケルが相模の国造の作略で火を放たれ、三種の神器の剣で草木をなぎ倒し、難を逃れるシーンだという。迫力のある作品だが、なんと89歳のときの作品だという。

ぼくはミーハー的なところもあるので(汗)、前述の高橋誠一郎との関係のほかに、小田原に住んでいた谷崎純一郎と親交があったり(谷崎の本の装丁もしている)、横浜の原三渓の援助を受けたり、川端康成や武者小路実篤の本の装丁もしているので親交があったのだろう。それと良寛さんが大好きで(彼の肖像画もあった)、とくに書は彼の作品をもとに勉強したらしい。そうそう、相撲も好きだったらしい。相撲絵も展示してあったが、前国技館の入口の看板の”相撲”という字は、安田靫彦が書いたのだそうだ。現在は相撲博物館にあるということを知ったので、来場所、稀勢の里を応援しに行ったとき、是非、みてきたい。

またお墓参りの帰りに寄ってみよう。

草薙の剣

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