横浜の外人墓地といえば、山手のそれしか思い浮かばない人がほとんだろう。ぼくもそうだった。高校時代の友人が横浜で呑む前に案内したいところがある、と言う。保土ヶ谷駅からバスもあるが、5,6キロ、往きは歩いて行った。東海道を戸塚方面に。4年ほど前、旧東海道宿場町巡りの一環で歩いたことがある。そのとき、保土ヶ谷宿の旧東海道に松並木を再生させようというプロジェクトのポスターを見た憶えがある。一里塚跡、上方見附跡当たりに、なんともう、松並木ができていた。まだ小さな松だが大きく育ってほしい。

さらに、歩く続けると、箱根駅伝で有名な、ごんだ坂に出る、その坂を登り切り、しばらく行くと、”こども植物園”の案内が。こどもの植物園とはどうゆう植物園なのだろうか、興味がわく。そこを左折し、数分歩くと、突如、このような景色が。

ここが、ぼくらが目指した”横浜戦没者墓地”なのだ。ここまだ来る間、何の案内板もない、知る人ぞ知る外人墓地なのだ。

先の戦争で日本軍の捕虜となって、その間、日本で亡くなられた英連邦の国々の軍人たちのお墓なのだ。1555名の墓石が、英国、豪州、インドそしてニュージーランド・カナダと4か所の区画にわかれ、設置されている。英国では、亡くなられた地に墓石をつくるとゆう慣習だそうだ。エリザベス女王、サッチャー首相、ダイアナ妃も来日の際はここを訪れているということだ。
異国の地で、捕虜となり亡くなり、ここに眠る元軍人たち。墓石には一人ひとりの名前、年齢、メッセージ等が刻まれている。22歳と刻まれている。

インド人墓地区画を示す標章

オーストラリア人墓地の前のユーカリの樹。故郷の樹に見守られている。

カナダ・ニュージーランド人墓地。

かなり広い公園墓地だが、手入れが行き届き、芝生に草一本、生えていない。ひと回りして、英国人墓地に戻ってくると、英国人らしい青年が、ひとつの墓石の前で佇んでいた。関係者なのだろうか。ふたり、ベンチに座り、しばらく墓地を眺めていた。何ともいえない感慨が胸にこみあげてくる。友人も、ここを来るたびに、胸がつまってしまうという。ぼくの父も戦地に赴いたが、生きて戻ってきた。海軍に入隊した伯父は激戦地で亡くなった。戦争はいけないことだ。でも戦地におもむき、国のためにたたかい、若くして戦死した方々には、国を問わず、追悼の気持ちが自然とわいてくる。
観光地化してしまっている有名な横浜山手の外人墓地とは違う、もうひとつの、静かでおごそかな、”外人墓地”であった。
。。。。。
この墓地は英連邦戦没者の墓委員会が管理していて、記帳室の中にカタログがあった。それによると、捕虜たちは、外地から大船の尋問収容所にまず連れてこられ、そこから工場に送られたとのことだ。大船のどこにあったのだろうか、古地図を調べてみよう。

さらに、歩く続けると、箱根駅伝で有名な、ごんだ坂に出る、その坂を登り切り、しばらく行くと、”こども植物園”の案内が。こどもの植物園とはどうゆう植物園なのだろうか、興味がわく。そこを左折し、数分歩くと、突如、このような景色が。

ここが、ぼくらが目指した”横浜戦没者墓地”なのだ。ここまだ来る間、何の案内板もない、知る人ぞ知る外人墓地なのだ。

先の戦争で日本軍の捕虜となって、その間、日本で亡くなられた英連邦の国々の軍人たちのお墓なのだ。1555名の墓石が、英国、豪州、インドそしてニュージーランド・カナダと4か所の区画にわかれ、設置されている。英国では、亡くなられた地に墓石をつくるとゆう慣習だそうだ。エリザベス女王、サッチャー首相、ダイアナ妃も来日の際はここを訪れているということだ。
異国の地で、捕虜となり亡くなり、ここに眠る元軍人たち。墓石には一人ひとりの名前、年齢、メッセージ等が刻まれている。22歳と刻まれている。

インド人墓地区画を示す標章

オーストラリア人墓地の前のユーカリの樹。故郷の樹に見守られている。

カナダ・ニュージーランド人墓地。

かなり広い公園墓地だが、手入れが行き届き、芝生に草一本、生えていない。ひと回りして、英国人墓地に戻ってくると、英国人らしい青年が、ひとつの墓石の前で佇んでいた。関係者なのだろうか。ふたり、ベンチに座り、しばらく墓地を眺めていた。何ともいえない感慨が胸にこみあげてくる。友人も、ここを来るたびに、胸がつまってしまうという。ぼくの父も戦地に赴いたが、生きて戻ってきた。海軍に入隊した伯父は激戦地で亡くなった。戦争はいけないことだ。でも戦地におもむき、国のためにたたかい、若くして戦死した方々には、国を問わず、追悼の気持ちが自然とわいてくる。
観光地化してしまっている有名な横浜山手の外人墓地とは違う、もうひとつの、静かでおごそかな、”外人墓地”であった。
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この墓地は英連邦戦没者の墓委員会が管理していて、記帳室の中にカタログがあった。それによると、捕虜たちは、外地から大船の尋問収容所にまず連れてこられ、そこから工場に送られたとのことだ。大船のどこにあったのだろうか、古地図を調べてみよう。