茅ヶ崎美術館の”川上音二郎・貞奴展”では、九代目市川団十郎が結構、大きく取り上げられている。何故かというと、音二郎が団十郎に弟子入りしたかったが、やんわり断られた/音二郎が茅ヶ崎に居を構えたのは、尊敬する団十郎が近くに別邸をもっていたから/団十郎が亡くなったとき音二郎が全国の新派劇に休演を要請し、かつ弔問客のため駅から別荘までの道を整備し、青山の本葬のときは伊藤博文の弔辞を代読した等、団十郎との関わりが知られているからだ。
先日、また展覧会をみて来たが、とくに団十郎関係の展示に注意を払いながらみた。そして、団十郎と音二郎の関係をもう少し、知りたくなり、隣りの茅ヶ崎図書館で西山松之助著”市川団十郎”を読んだ。この本は初代団十郎から九代目団十郎までの評論本だが、そこに面白い事実が記されていた。
明治28年、川上音二郎一座が歌舞伎座で日清戦争劇を上演したが、これは歌舞伎がはじめて歌舞伎座を追われた歴史的瞬間だった。九代目団十郎は同じような戦争劇を、なんと明治座で上演するはめになったのである。それを堺に、九代目はこれまでの改良カブキから歌舞伎の古典化へと一気に傾斜した。それが 功を奏して、明治20年代の借金地獄から、30年代に入ると一変、大金持ちとなった。団十郎にとっても、彼の人生における音二郎の存在は決して小さくなかったのである。
こうして、33年に、3万円を投じ、茅ヶ崎に別邸を建てたのだ。当時の歌舞伎公演は年5回程度なので、出演しないときは茅ヶ崎で過ごし、のちの六代目菊五郎ら若手の指導をしたり、茶会を開いたり、釣りを楽しんだりしていたようだ。ついでながら、晩年の年収は25,000円もあったという。米一石(150キロ)が十円の時代にである。明治36年7月8日、66歳で死去。青山に向う葬列は、先頭が虎ノ門を過ぎても、築地の団十郎邸を出ききらぬほど長くつづいたという。
(加山)雄三通りを海岸方面にしばらく進むと鉄砲道が交差する。辻堂方面に鉄砲道を15分ほど歩くと、道沿いの公園脇に”団十郎山の碑”が目に入る。この辺り一体が別邸”狐松庵”のあったところだ。約六千坪あった敷地は、今はその面影もなく、住宅街になっている。ただ、この近くの平和町公園の松林が当時の面影をわずかに残していた。
平和町公園
九代目団十郎