鎌倉文学館で開かれる展覧会は、当然ながら、鎌倉ゆかりの作家の文学展が多い。今回もそうである。久米正雄は34歳から亡くなる60歳まで鎌倉に住んでいたし、その間、戦前の鎌倉カーニバルや戦後の貸本屋など、鎌倉文士のまとめ役として活躍もした。一方、芥川と鎌倉とのかかわりは、すぐには思いつかない。大学卒業後、横須賀の海軍機関学校に就職し、1年ほど由比ヶ浜に住み、また新婚生活の一年を由比若宮の近くで過ごした、程度である。駅前のホテルで岡本かのこと出会ったことなども無理やり入れてもいいかもしれない。この二人展は、ふたりが同い年であり、旧制一高に入学以来、芥川が35歳で亡くなるまで互いに切磋琢磨して作家活動をしていたことで、同年代、同年齢で比較でき、面白い展覧会になっている。
明治25年に、久米は上田に生まれ、芥川は築地明石町で生まれている。帝大文学部在学中に、一緒に、同人雑誌、第三次”新思潮”を創刊し、文学活動に入っている。そして、漱石門下に入ったのも同時である。芥川の”鼻”が漱石に激賞されて作家への道を歩くことになるのはよく知られていることであるが、久米も、一作目はほめられなかったが、第二作目”競そう”で漱石に評価され、自信をもった。そして、ふたりそろって、職業作家として活躍を始めるのだ。
そして、展覧会では、第6章、”新進作家から職業作家へ”、第7章、”永遠の別れ”、と続く。芥川は”或る阿呆の一生”の原稿を遺し自殺する。その前書は、久米に宛てたものだった。誰よりも僕を知っていると思うから、この原稿を発表する可否は君に一任すると書かれていた。久米はその後、還暦まで生きるが、生前、芥川の死について”発すべき言葉もない”と、追悼文らしきものはひとつも書かなかったそうだ。
両作家の自筆原稿、手紙類、写真、などのほか、芥川の書画、久米の水彩画などもみることが出来る。それに、ミーハーの私メを喜ばす、両作家の生活振り一覧表なども展示されていてた。ナヌ、酒は芥川は飲まない、久米は毎晩飲むトナとか、芥川が朝型に対し、久米が夜型とか、芥川は寄席はいかないが、久米は大好きだとか、などなど、面白く拝見した。その表の写真を載せますので、興味のある方は、虫めがねでみてください(笑)。
帰りに、芥川が新婚時代をすごした、由比若宮の近くを訪ねた。鳥居の横に、”元八幡横の芥川龍之助旧居跡”の説明板が建っていた。
鎌倉文学館
元八幡・由比若宮(今の八幡さまはここから移った)