午後4時頃、東慶寺を訪ねた。
宝蔵前に夕顔ひとつ
加えて、高砂百合ふたつ
サクラタデが咲きはじめ
ほうずきが真っ赤に
野葡萄の実が大きくふくらんだ
明日はもう処暑
午後4時頃、東慶寺を訪ねた。
宝蔵前に夕顔ひとつ
加えて、高砂百合ふたつ
サクラタデが咲きはじめ
ほうずきが真っ赤に
野葡萄の実が大きくふくらんだ
明日はもう処暑
さて、五山送り火で始まった、京都お盆の旅シリーズも、先を急がねば、いつまでも終わらない(笑)。
まず、龍安寺の石庭。はじめて観たのは、高校生の修学旅行かな。その後、大学生の頃、就職してからと、何度か来ている。誰でもそうだろうと思うが、若いときの方が、人生とは何ぞやとか考えるものだ。そんな、わけのわからないことを考えるには、ここはぴったりの場所で、結構、長い時間、座っていたこともあった。年をとってからは、今が楽しければと、人生を浅く考えるようになったので(汗)、石庭をみても何も考えず、ただ、若き日の自分を懐かしむように庭を眺めた。
龍安寺の石庭 東西25メートル、南北10メートルの空間に白砂を敷き詰め、15個の石を配した。どこからみても、全部の石は見えないという設計。また周囲は油土塀によって囲まれる。
方丈内
方丈の北東にある銭状のつくばい。
これでは、よくわからないので、パンフの写真を載せる。真ん中の”口”の四隅の字らしきものを重ねると、”吾唯足知”、我、唯、足るを知る、になる。こういう言葉は年をとるとわかってくる(笑)。写真の左上の囲いに椿の花があるが、ここの侘助。
秀吉も褒めたという日本最古の侘助椿である。
このポスターの書は、鎌倉ゆかりの、ダウン症で一流書家となった金沢翔子さんによるもの。”禅/今を生きる”
油土塀。裏側から。
鏡容池
相模線の座間のヒマワリ畑をみた帰り、茅ヶ崎図書館に寄った。そこで古寺の仏像を紹介する大型本のページをめくっていたら、ひときわ美しい仏像に目がとまった。先日、京都でみてきたばかりの広隆寺の弥勒菩薩さま(半跏思惟像)だ。国宝第一号で、どんな教科書にも出てくる名品中の名品だ。ぼくは数年前に、ひとりで太秦の撮影所とセットで観にきている。意外と行っていないもので、そのときは修学旅行以来だったと思う。家内は、今回が初めてかもしれないと言う。
前回来たときには、弥勒菩薩さまの前にひざまついている韓国の方々(民族衣装をつけていたのでわかった)をみかけた。今回は日本人二人が、長いお祈りをしていて、ぼくらが新霊宝殿を出るときまで動かなかった。たしかに、この仏像の気品の高さはきわだっていて、自然とひざまつきたくなる風情だ。どんな苦しみがあっても、そっと包んでくれて、ゆっくりと、その苦しみの源を溶かしてくださるような感じがする。
この宝物館では、この弥勒菩薩が突出した人気だが、両脇の弥勒菩薩の一つ、泣き弥勒も国宝だし、対面の3メートルもある不空羂索観音、十一面千手観音像、そして、入口から左手の壁には十二神将がずらりと並ぶが、これもすべて国宝である。さらに、重要文化財の寄木造の千手観音(藤原期)、聖徳太子16歳像(鎌倉期)など、飛鳥、天平、貞観、藤原、鎌倉それぞれの時代を代表するような仏像が安置されている。国宝が20点、重要文化財48点というからすごい。
推古11年(603年)に、この地に住む秦河勝が聖徳太子から賜った弥勒菩薩を本尊として広隆寺を創建した。山科最古のお寺とのこと。明治維新後の廃仏毀釈で、広隆寺は荒れ果て、弥勒菩薩もかなり傷んだが、明治中期に修復され現在に至っている。
弥勒菩薩半跏思惟像 堂内は撮影禁止なので、前述の全集から。こんなエピソードがある。昭和35年、拝観にきた京大生があまりのうつくしさに、頬ずりしようとし、右手の薬指を折ってしまった。恐くなり、その指を捨ててしまったが、のちに見つかり、修復されたという。
楼門(境内側から)
上宮王院太子殿 広隆寺の本堂に当たる堂。享保15年(1730年)の建立。堂内奥の厨子内には本尊として聖徳太子立像が安置される。
境内には蓮や桔梗が咲いていた。
ぼくの最も好きな仏像のひとつ、弥勒菩薩さまに再会でき、うれしいひとときを過ごすことができた。