昨日は”渋谷周辺の美術展巡り”をテーマに一日中、散歩した。山種美術館からはじまり、ブンカムラ、そして松濤美術館と廻った。おまけに、東急デパートで開催されている”寺山修司/劇場美術館展”まで観てしまった。それらの感想文はおいおい綴るつもりだが、ひとつだけ、山種美術館に展示されていたこの一品だけ紹介しておきたい。今村紫紅の”大原の奥”である。

秋の芒野に佇む、薄墨の衣をつけた方はもちろん、建礼門院。平清盛の次女、徳子は高倉天皇の皇后になるが、壇ノ浦の戦いで敗れ、幼い安徳天皇を抱き、入水する。しかし、徳子だけが源氏により引き揚げられた。帰京後、まもなく出家し、建礼門院となり、大原の寂光院で、我が子と一門の冥福を祈りつつ余生を送る。
その、寂光院に久し振りに訪れた。放火により本堂が焼失し、再建されてからは(2005年焼失、2010年再興)、はじめての参拝だ。寂光院初代住持は聖徳太子の御乳人であった玉照姫(たまてるひめ)で、そのあと代々、高貴な姫君が務めたが、名が伝わらないので、第二代が、(大原女のモデルとなった)阿波内侍、そして第三代が建礼門院となる。
建礼門院命名の柴葉漬け発祥の寺の立札の横の石段を上ると・・・

山門が現れ、その向こうに、再建された本堂がみえる。

本堂

平家物語ゆかりの庭園。汀の池。平家物語の大原行幸にも記述される樹齢1000年の姫小松は放火事件により枯死した。

諸行無常の鐘

建礼門院御庵室跡

資料室に、撮影可能な”大原行幸絵巻”の複製がある。”平家物語”の最終”潅頂の巻”は、徳子の生涯を物語の”集約版”として構成されている。その中盤に、”大原行幸”の節がある。突然の後白河法皇の御幸に、逢うことを拒んだ女院であったが、阿波内侍に諭され涙ながらに対面する。先帝や御子、平家一門を弔いながらの今の苦境は後世菩提のための喜びであると述べ、六道になぞらえて半生を語る女院に、法皇や供者も涙するばかりであった。(寂光院資料より)

馬鹿者による放火事件の新聞ニュース。現在まで、犯人は見つかっていない。

新本尊、地蔵菩薩立像は創建当時の彩色で復元されていた。

境内のあちこちに、秋海棠が咲き始めていた。

寂光院をあとにして、ぼくらは三千院に向かった。