おはようございます。今朝は神社やお寺の入り口にある、手を洗い、口を漱ぐ手水舎(ちょうずや)のことを、ちょっと、というか、長~く(笑)書いてみたいと思います。
あまり、寺社の手水舎に刻まれている文字については気にしていなかったが、半年ほど前に、長谷の甘縄神明神社の手水舎に”漱石”の文字をみつけた。それ以来、気になって、鎌倉市内のみならず、全国各地に寺社を訪れたときに、漱石を刻む手水舎を探していた。結構、データが集まってきたので、ここら辺りで、一旦、中締めして、中間報告記事にしておこうと思う(笑)。
結論から先にいうと”漱石”の文字が刻まれている、”現役の”手水舎は前述の甘縄神明神社だけであった。そして、現在、使われていない、円覚寺境内に放り出されたように、置かれているものがもう一つ。あと、何十例も”調査”したが、皆無。比較的近い文字例として、”漱盤”があったが、それは、大船の五社稲荷の手水舎だけ。何も書かれてていないものが多く、残りは、奉納、浄水などの文字である。
しかし、何故、漱石なのか。漱石といえば文豪をすぐ思い出すが、個人名を直接、ここに刻むのは通常、考えられない。漱石という文字は、広辞林にも載っていないので、少なくとも定着した文字ではない。そこで思い出すのは、漱石が筆名の由来とした中国の故事”枕石漱水”という詩のことである。「流れに漱(くちすす)ぎ石に枕す」と読み、「俗世間から離れて、川の流れで口をすすいで石を枕として眠るような引退生活を送りたい」という意味だ。ところが、晋の時代の孫楚という人が、友人に隠居の気持ちを伝えるために、この詩を使って話をしたのだが、なぜか順番を間違えて「漱石枕流」と読んでしまった。友人は、おい、石を飲んで、川を枕にするのか、と笑ったが、偏屈な孫楚は石で口をそそぐのは、歯を磨くため、川の流れを枕にするのは水で耳の中を洗うため、と応じた。
この故事から、”漱石枕流”という言葉は、負け惜しみとか頑固者という意味がつくようになった。この言葉を気に入った、漱石が、これをペンネームにしたという説が有力である。
とすると”漱石”と言う言葉は、むしろ寺社にはふさわしくないように思う。むしろ、元の”枕石漱水”の、心静かに引退する方が寺社の雰囲気に合っているような気がするのだが。
その貴重な一例をまず、お見せしましょう。この神社は710年(和銅3年)、行基創建の鎌倉最古の神社である。川端康成旧邸が近くにあり、小説”山の音”の舞台にもなっている。むかしは、右から読むので、”漱石”。ただ、これの製造年月日を確認しなかったので、左読みの可能性もあるが、”石漱”という言葉は普通名詞にはない。
もうひとつは、次は円覚寺仏殿前の、今は使われていない手水舎。
円覚寺
よく、見ると、漱石の文字が。これも右読み。漱石は円覚寺の帰源院に参禅したこともあり、こことは縁が深い。もしかしたら、この手水舎が使われている時代に、漱石(夏目金之助時代)がみて、これは面白いと、筆名に採用したのかもしれない。さすれば、新発見となるのだが。ところが、ネットで調べてみると、すでに、この手水舎に気付いている人がいて、この手水舎は文化年間の作で、漱石が帰源院に参禅したときは27才で、まだペンネームはもっていない、この手水舎を見た可能性はあると、ブログで述べている。
さて、手水舎は、水盤舎と呼ばれることもある。うちの町内会の鎮守様である五社稲荷の手水舎には”漱盤”と刻まれている。文字通り読めば、口を漱ぐ盤である。と、すると、漱石は、ただの口を漱ぐ(水入れの)石、と言う意味なのかもしれない。漱石はただの、手水舎の別称なのか。しかし、広辞林にも記載がないし、ネットの辞典にもない。
漱盤 (五社稲荷)
もし、漱石が手水舎の別称であれば、あちこちの神社仏閣の手水舎に書かれているはず。ところが、日本全国(大袈裟だが)、ぼくが調査(汗)した、すべての手水舎にはなかったノデアル。漱石という文字が刻まれた手水舎は、鎌倉の長谷・甘縄神明神社と円覚寺の見捨てられた手水舎だけだったのです。これは、何か意味があるはず。今後の研究課題にしたいと思います。
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以下、あちこちの手水舎です。文字だけではなく、形状にも情報がたくさんありますので、今後の研究のために、残しておこうと思います。
八雲神社(北鎌倉)
鶴岡八幡宮
大巧寺
神楽坂 毘沙門天
大船 山倉稲荷神社
遊行寺(藤沢)
遊行寺・宇賀神社
藤沢遊行通りの神社
虎の門 金刀比羅宮
久里浜・天神社
(浄水)
亀ヶ岡八幡宮(逗子)
奉納
三島大社 (無印)
鎌倉宮
荏柄天神社
京都伏見・長建寺
京都・清明神社
京都・蘆山寺
京都・梨木神社
北野天満宮
京都・誓願寺
青木神社(ご近所)
浅草神社
以上です。