気ままに

大船での気ままな生活日誌

日曜美術館30年展(1)

2006-09-19 21:26:15 | Weblog
上野の芸大美術館で開催されている「日曜美術館30年展」に行ってきました。上野の森は大好きで、月に一、二度は必ず訪れます。今日(18日)は、どこの展覧会に入ろうかなと、駅前の案内板をみて検討しました。院展はもう終わっていました。西洋美術館では、ベルギー王立美術館展をやっていました。ワイフが一緒だったら、こちらになったかもしれません。来年5月か6月に、ベルギーに行ってみたいと言っていたからです、私もベルギーのビールが飲みたいのです。結局、芸大美術館に向かいました。

公園内の、子供の絵本関係のイベントを横目に見ながら、都美術館の脇の道に入ります。驚きました。以前この辺りにたくさんあった、ホームレスの人々の住んでいた青いビニールシートのテントが、わずかしかないのです。追い出されてしまったようです。都がきっと、宿泊施設を用意したのでしょうが、たぶん、彼らは、ここの方が気に入っているのだと思います。自由気ままな、放浪の生活をしたいから、ここに来たのにね、と、ひとりぶつぶつ言いながら歩いていると、芸大美術館に着きました。行列になっているかと思いましたが、大丈夫でした。

この美術展は、NHKの「日曜美術館」が、放送開始してから30年を迎えましたので、その記念として開催しているのです。放送回数は1500回にもなるそうです。私はそのうち、いくつも見ていませんが、今日の展覧会を1回みることによって、30年分視聴したという称号(日曜美術・一級鑑賞士)と小さなバッジが貰えます、・・・うそです、お寺さんにも、今日お参りすれば、何万回分のお参りに相当するとかいうのがありますので、つい調子に乗ってしまいました。

いよいよ、展示室に入ります。概要を知っていただくため、美術展の構成をまず、以下に示します。4つの部門(章)に分けらていて、それぞれの部門で代表的なものを、ビデオ放送の視聴コーナーと実際の作品を展示によって、紹介し、30年間の放送の歴史を辿るというスタイルです。

ーーーーー(以下同展の案内よりコピー)ーーー

<第Ⅰ章>夢の美術案内
著名な文化人が語る珠玉の美術案内
-高橋由一、黒田清輝、ルノワール、ルオー、ピカソほか-
 
<第Ⅱ章>作家が作家を語る
交友関係や師弟関係のある作家が語る美術案内
-棟方志功、上村松園、藤島武二、横山操、熊谷守一、平櫛田中ほか-
 
<第Ⅲ章>アトリエ訪問
作家自身が語る等身大の美術案内
-三岸節子、中川一政、杉山寧、芹沢介、富本憲吉、濱田庄司ほか-
 
<第Ⅳ章>知られざる作家へのまなざし
日曜美術館で再認識された作家たちの紹介
-丸木スマ、小泉清、藤牧義夫ほか-

ーーーーーーーーーーーー

さあ、いよいよ見学です。

(つづく)
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大船と水害

2006-09-18 23:41:29 | Weblog
朝食をとっているとき、スピーカーの大きな声が流れてきました。洪水警報が出ました、気をつけて下さい、というアナウンスでした。私は、大船に越してきてから、1年ちょっとしか、なりませんから、ここでの水害の経験はありません。それでも、大雨など降ったあと、すぐ近くの砂押川やその本流の柏尾川が、急に水量を増し、怒り狂ったように流れる様をみると、きっと、今のようなしっかりした堤防がなかった時代には、溢れることが、たびたびあっただろうなと、想像していました。砂押川は、普段は、優しい、というより弱々しい流れで、住んでいる大きな鯉が沈みきれず、背中を丸出しにしているほどですから、大雨のときの、その変貌ぶりには驚いたものでした。

私は、身近な地域の歴史を知るのが好きで、水害についてもちょっと調べてみたことがあります。いくつか資料がありましたが、一番詳しかったのは、地元の佐々木泰三さんが書かれた「水の出る街、大船」という本でした。

やはり大船は水害の町でした。ほぼ10年に1度の割合で起こっていたようです。昭和13年(1938年)には、6月の梅雨と9月の台風の時に連続して、大きな被害がありました。蒲田から、大船に松竹撮影所が移ってきたのが、昭和11年でしたから、撮影所の人達や、田中絹代さんらの女優さんは、えらい所に来てしまったと後悔したに違いありません。田中絹代さんと上原謙さんの愛染かつらが空前のヒットをした年にあたります。

昭和33年9月26~27日にかけて、狩野川台風が江ノ島に上陸しました。伊豆で甚大な被害をもたらしましたが、大船でも大きな水害となりました。しかし、何と言っても、昭和36年6月28日の梅雨前線の豪雨による未曾有の大水害が、地元の人にとっては、記憶に強く残っているでしょう。大船地区の25%の家屋が、床上浸水になり、90%が床下浸水だったそうです。さらに、その水は北鎌倉駅、手広交差点、梶原口、笛田あたりまでに及んだそうです。

その後、昭和41年の台風4号の水害では、駅東口商店街がすっぽり水に浸かり、胸元まで水がたまったそうです。大船フラワーセンターは、昭和37年に出来ましたが、この水害でかなりの植物がやられてしまったということです。私はこの頃、川崎に住んでいましたが、やはり近くの細い川が氾濫し、床上浸水になったことを覚えています。畳を上げたあと、おまえは、その上に乗って、のんきにギターを弾いていたと、いつも母にからかわれたものでした。

大船の水害は、まず柏尾川の支流の梅田川、小袋谷川、そして砂押川の順に氾濫するそうです。柏尾川の水量が増え、水位が上がると、支流が逆流してしまうため、溢れるのだそうです。そして、最悪の場合は柏尾川が氾濫するということになります。大船はお椀のような盆地状の地形なので、溢れた水がどんどん溜まっていくのです。このように、大船は、水害になりやすい「体質」だといえます。

現在は、それぞれの川の護岸工事も進み、「体質改善」されましたので、以前ほどの、ひどい水害はないかもしれません。しかし、自然災害だけは、突如として、想定外の規模でやってきますので、まだまだ大船(おおぶね)に乗った気持ちというわけにはいきません。ただ、私はマンションの上の方に住んでいますので、床上浸水になることは、まず、ないかと思っています。
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浄光明寺辺り 初秋

2006-09-17 21:27:22 | Weblog
午前中、なんとか天気がもちそうだというので、9時すぎに、ワイフと鎌倉散歩に出かけました。先日紹介した亀ヶ谷コースの浄光明寺版です。北鎌倉駅から亀ヶ谷切り通しを抜けて、まず海蔵寺に寄ります。萩の花が大分、開いてきました。あと一息です。また、先週は、蕾ばかりであった、2メートルもある背の高い、紫苑(しおん)が、いくつか、野菊のようなかわいい花をつけていました(写真)。着実に秋は進んでいます。

岩舟地蔵まで戻り、扇川沿いを上がり、しばらくして左に曲がります。作家の里見とんさんが住んでおられた、静かな住宅街を山に向かって歩くと、すぐ浄光明寺です。山門を入ると、赤い萩の花が目につきます。海蔵寺より開花が進んでいる感じでした。境内のあちこちにある、赤い彼岸花も咲き始めていました。ただ、ここのメインの、大きな円形の彼岸花専用庭園のは、ほとんど咲いていませんでした。土から飛び出てきた、茎が10センチ程度になったばかりです。でもここが、満開になったら、鎌倉一でしょうね、と思わせました。

山門を入ってすぐ左に楊貴妃観音があります。お名前のとおり美人顔の観音様です。お参りするときれいになるということで、女性の参拝者が多いようです。でも、みるとお賽銭が5円玉とか10円玉ばかりでした。これでは、むしが良すぎますね。中国の玄宗が38才で亡くなった楊貴妃を偲んで観音さまをつくりました、その500年後、日本の留学僧が京都の泉湧寺に持ち帰りました、そのコピーが、最近、末寺のこのお寺に安置されたというわけです。

このお寺の見所は、目の前の客殿ではなくて、そこの右脇を通り、石段を上がったところに、隠れたように建っている、本殿と収蔵庫です。ここは、受付を通して入らなければなりません。いつでも開いているわけではなく、土日と木曜日だけだそうです。私達は今回、始めての入場です。わくわくします。

お目当ての収納庫に安置されている仏像を拝観しようとしますと、お寺の方が、もし裏山の上に行かれるならば、先にそちらにどうぞ、少し前、冷泉家の縁者の方がお墓参りに行かれましたよ、とおっしゃいました。そこで、裏山の曲りくねった細い道を登っていきました。途中で、大きなやぐらの中に石造の網引地蔵菩薩を拝観することができました。由比ヶ浜の海岸で漁夫の網にかかって、ここに安置された仏像さんです。ありがたいお姿でした。

さらに、登っていくと、お目当ての冷泉為相(ためすけ)さんのお墓の前に出ます。上品な初老の紳士とお二人のご婦人が、お墓参りをしたあと、記念撮影をしていました。挨拶をして、少し、お話しました。私達は、冷泉家の縁者で、毎年お彼岸の頃にお参りにきます、為相のお母さんの、あの十六夜日記の阿仏尼(あぶつに)さんのお墓にも先ほどお参りしてきました、とお話くださいました。為相は藤原定家の孫にあたり、遺産相続の関係で幕府へ訴訟にきた阿仏尼のあとを追って鎌倉にきたのです。そのあと、歌人として、この藤ヶ谷で生涯を全うしたのです。和歌の家柄として、現在まで続いている名門の、冷泉家の祖となった方です。縁者の方のお話ですと、京都の御所の前にある、最後に残った公家屋敷として有名な冷泉家は、上冷泉家で、東京の私達は、途中で分岐した、下冷泉家だと、言うことでした。偶然、関係の方のお話伺うことの出来た幸運を喜びながら、お花に飾られ、きれいになったお墓の前で手を合わせました。お墓の玉垣は、水戸黄門さまの寄進だということです。

下に降りますと、先ほどの冷泉家の方々と10人くらいの熟年グループの方々が、収納庫の前に集まっていました。お寺の方の説明が始まるところでした。お堂の中に、いかにも、ありがたいお姿の仏像が3体こちらに、やさしい目を向けています。中央に阿弥陀如来と、右に観世音菩薩、左に勢至菩薩です。中世鎌倉地方彫刻の代表的なものだそうです。大型の土紋の貼り付けなど、宗朝美術の影響を強く受けているということです。国の重要文化財に指定されています。お堂の左はじに小さな仏像さんがおられます。地蔵菩薩像で、別名、矢拾い地蔵といいます。足利尊氏の弟、直義の守り本尊で、右手に矢柄の錫杖をおもちです。戦場で矢のなくなった直義に矢を拾ってあつめてくれた子供が日頃信心している、お地蔵さんだったという伝説があります。

来週あたり、彼岸花が咲きそろいそうですので、また訪れたいと思います。帰りは線路を渡り、今小路を通り、鎌倉駅に向かいました。駅前の、和風茶寮、扉(とびら)で、ワイフはお気に入りの、ミニサイズのお重が3つ選べる一口重ね(1500円)、私は、鎌倉ビールと鶏雑炊をいただきました。おいしかったです。まだ、雨は大丈夫のようです。








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キルト展

2006-09-16 22:08:23 | Weblog
近くの鎌倉芸術館で地元サークルのパッチワーク・キルト展が開催されていましたので覗いてきました。キルト展は、女性専科みたいな感じがして、これまで入ったことはありませんでしたが、今日は勇気を出して(笑)足を踏み入れました。実際、観客は私以外はすべて女性でした。加えて、展示作品のすべての作者が女性でした。やはり女性専科であるのは間違いないですね。

ズブの素人ですので、みても分かるわけないと思いましたから、ざっと見て、帰るつもりでした。でも結構長居してしまいました。面白いと思ったのです。実用的な小作品よりも、どちらかというと、芸術的な大きなキルト作品に、ついつい目がいきました。どれも良かったですが、奥の部屋に飾られていた作品は、私のような素人がみても、優雅で美しいと感じました。ひとつひとつのパーツの形や色が違っていても、全体で調和がよくとれていてました。

次に、老眼鏡をかけ、作品を細かく観察してみました。ひとつひとつのパーツが、いろいろの糸でていねいに縫われています。糸を表に出しているところもあれば、隠しているようなところもあります。大きな作品になると、パーツが膨大な数になるので、縫いつけるのに、気が遠くなるような時間がかかるのだろうと思いました。相当な忍耐力が必要だと思いました。

キルト展をみていて、こんな事を想像しました。作品の作成においては、はじめの着想というか、デザインの構築が、極めて重要。それも、人まねではなく、オリジナリテーの高いものでなくてはならない。実際の作品の作成に当たっては、材料(布きれ)は、十分余裕を持って集め、作業中に出てくる、原案の微修正案に備える。パーツをひとつずつ縫いつける単純作業を続ける忍耐力をもたねばならない、むしろ、それを楽しむ「能力」を備えていなければならない。そして、場合によっては、作業途中で、原案を大幅修正をする勇気をもつ。そして、一応出来上がった作品は、しばらく寝かしたあと、新たな眼で点検し、最終調整する。

これは、科学研究を遂行するときのと、ほとんど同じだということに気づきました。
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路地を抜けて宝戒寺コース 初秋

2006-09-15 21:22:08 | Weblog
小町、雪の下の路地を歩いて、宝戒寺に至る散歩を楽しみました。その日は、雨がしとしと、という天候でしたが、路地歩きはむしろ、こういう静かな雰囲気の方が似合います。鎌倉駅東口を降り、若宮大路を少し上がり、警察署のところを右に入り、すぐ、雪の下教会の向こうを左に入ります。ここから、路地歩きがスタートします。少し進み、右に曲がり、もう一度、左に曲がり、まっすぐ行くと、お稲荷さんが見えてきます。お稲荷さんの赤い垣根と向かいお宅の緑の生け垣のコントラストが映えます。この辺りの風景がいいので、しばらく佇み、されど我らが日々と、来し方に思いを巡らします。

私はお稲荷さんが好きで、牛久に居たときも、女化(おなばけ、という怖い名前です)稲荷によく、お参りしました。霊験あらたかで、私の気の進まない人事案が進んでいたとき、お参りしましたら、翌日、その案がつぶれた、いうことがあって、それ以来、お稲荷さんには、頭が上がりません。ついでに、大船軒のおいなりさんも好きです。

この宇都宮稲荷の前に宇都宮辻子(ずし)幕府跡という石碑が建っています。四代将軍の藤原頼経(源氏は3代でつぶれています、北条さんの策謀で)の時代の幕府です。若宮大路幕府跡(3度目の幕府地)というのも、300メートル先にあります。この辺は、今は静かな住宅街ですが、昔は鎌倉の霞ヶ関だったのですね。すーっと、800年前の風が、どこからか、入りこんできます。

路地をさらに、進むと、大仏次郎さんがお住まいだった家の前に出てきます。粋な黒塀、見こしの松の、素敵なお宅です。この辺りもついつい、佇んでしまいます。お宅は、年に何回か一般公開しており、何年か前にみせていただいたことがあります。猫を何匹も飼っておられたようで、表札にも眠り猫の絵が描かれていました。大仏次郎さんは鎌倉文士の代表的な方ですが、鎌倉の風致保存に力を尽くされた方だとも聞いています。このような、めったにない、情緒ある路地もいつまでも残して欲しいと思います。ねむり猫を起こして、目を光らせてもらいましょう。

いつのまにか、路地を抜けて、小町大路に出てしまいました。そのすぐ先に宝戒寺があります。ここは、歴代の北条執権(得宗家といいます)が住んでいた所です。あちこちに、北条家の家紋の、みつうろこが目に入ります。新田義貞により滅ぼされた、北条九代の霊を慰めるため、後醍醐天皇が屋敷跡に建立したのです。本尊は子育経読地蔵大菩薩という、ちょっと変わった名前の仏像です。杉本寺と同じ天台宗のお寺です。

宝戒寺といえば、白萩です。最盛期には、わんさと人が押し寄せます。今は、まだ一、二部咲きという頃ですが、私はこういう時期の宝戒寺が大好きです。山門に入っても人影がほとんど見られません。ただ、先端に清楚な白い花を少しだけつけた、覆い被さるような萩の枝が迎えてくれるだけです。また、この時期には、まだ萩はそれほど目立たないので、萩以外の植物にも自然と目が向きます。これもいいですね。赤ではない、白い彼岸花が満開でした。このお寺は、どうも白がお好きなようです。芙蓉もなかなか、でした。裏に回ると、無患子(むくろじ)の木がたくさんの実をつけていました。熟した実がたくさん落ちていました。以前、この実の外皮を剥いた硬い黒い実をお正月の、はねつきの羽根の玉に使用したそうです。こんな、なつかしい樹木がここにはあるのです。

本堂にも上がって、お参りすることが出来ます。ご本尊と両隣の梵天・帝釈天像をお参りして、ふと見上げると、高倉健さん名のお供えものがありました。以前きたときも目にしました。どういう縁があるのでしょうか。先月、テネシーワルツ、江利チエミさん物語をみたばかりですので、気になりました。そのうち、調べてみたいと思っています。

左端の窓際の文机に白萩と書かれたノートが、2冊ほど置いてあります。ここに来られた方が、こころに浮かぶ、よしなしごとを記すノートです。覗いてみました。「お母さんを長生きさせてください」とあって、続けて少し、小さい字で、「私もついでにお願いします」とありました。また、「萩の咲き始め、白い彼岸花、そして無患子の黒い実、初秋を感じました」と、美しい女文字で書かれていました。きっと、俳句か、水彩画を趣味にしているような、上品な50代くらいのご婦人だろうなと、勝手に想像しました。

雨も上がっていましたので、本堂を降りて、もう一度、境内を一回りしました。咲き始めの白萩、白い彼岸花、無患子の実を改めてゆっくりながめました。そして、私も、白萩ノートのご婦人と同じように、これぞ、初秋の景色といったものを、ここでみたような気がしました。





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松井選手再起おめでとう

2006-09-13 20:26:55 | Weblog
今日の松井選手のあざやかな再デビューには驚きました、感動しました。すごいですね、4ヶ月のブランク、何のその、はじめの打席はタイムリー、そのあとも打ち続け、あれよあれよという間に、4打数4安打です。最高の再デビューです。3打席目でしたっけ、あわやホームランというファールがありましたが、あれが入っていれば、最高の最高でしたが、これ以上は望みません。

松井選手が最初の打席に入ったときの、ヤンキースタジアムの観衆の歓迎ぶりには、本当に我がことのように嬉しく思いました。スタンデング・オベーションの大歓声に対してヘルメットをとって、挨拶をする松井選手。ヒデキが、まさにヤンキースの、ジーターと並ぶ、大スターであることを如実に証明したシーンでした。本当に良かったですね、松井選手。ポストシーズンのクリーンナップは間違いなしです。頑張ってください。

私は、松井選手が大好きです。ひたむきな打撃技術の向上への努力も感心しますが、どんな成績の悪いときでも、必ず記者会見し、率直な意見を述べる様子などもとても好感がもてます。これだけ、そろった選手は、ON以外には見あたらないと思います。

私は定年になって、嬉しかったことの第一は、朝の8時から始まるヤンキースの試合を心おきなく、観戦できるということでした。現役中は、もうこの時間には職場にいて、仕事をしていました。ときたま、パソコンで試合経過をチェックするのがせいぜいでした。その楽しみが、松井選手の怪我で、この5月から取り上げられていたのですから、今日の喜びは格別でした。

でも、私は運がよく、松井選手が怪我をする前に、ヤンキースタジアムでの開幕3連戦(本当の開幕ではなく、ヤンキースの本拠地での最初の試合という意味です)を見ているのです。うらやましいでしょう。相手はロイヤルズで、3連勝しました。松井選手は、すべての試合でヒットを打ちましたが、ホームランはなく、ちょっと寂しかったですね。松井選手のご両親も来ていました。そのときも、松井選手が、ニューヨーカーに人気があることが、よく分かりました。声援もすごかったですが、観客の中に55番のユニフォームを着て観戦している人をよくみかけました。

ニューヨークには4月10日頃から1週間ほど居ましたが、ヤンキース観戦以外にも、嬉しかったことがあります。まだまだ先だと思っていたのですが、セントラルパークで、まさに1日ごと、春の花々が開いていくのを観察できたことです。レンギョウ、ハナズオウ、スイセン、そして海棠や梨のような花木、桜も咲いていました。何度か、この公園に来たことがありますが、こんなに美しくみえたときはありませんでした。

また、この時期にヤンキースタジアムを訪れる機会があればいいな、と思っています。そのときは、特大のホームランお願いしますね、松井秀樹選手。



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覚園寺コース 初秋

2006-09-12 21:08:56 | Weblog
今日の散歩コースは、まず鎌倉宮を目指します。鎌倉駅東口を降り、段葛の若宮大路を上がり、八幡さまの境内に入ります。源氏池のほとりを歩き、流鏑馬の人馬が走る道に出てその道を右に行くと、東口の鳥居に出ます。国大付属小学校を横にみながら遊歩道を進むと、清泉小学校の横に出ます。さらに進むと、お宮通りと呼ばれている、豪邸の建ち並ぶ道に出ます。そこを左に上ると、鎌倉宮の前に出ます。ここまでの道は、私達はよく利用します。どの季節でも楽しめる、静かなコースです。ここ鎌倉宮を拠点に、いくつかの散歩コースがありますが、今日は、めったに行かない覚園寺(かくおんじ)コースにします。

右に上ると、瑞泉寺方面ですが、反対側の左の谷戸に上ります。人通りも少ない、脇に小川が流れる、静かな住宅街の道を10分ほど歩きます。途中で、右側に天園コース昇り口の案内板(写真)がひっそりと建っています。天園ハイキングコースは何度も歩きましたが、いつも瑞泉寺横からで、ここに降りてきたことは一度もありません。

山門前のピンクの秋海棠の花と、咲き始めの白萩が迎えてくれました。石段を上り、山門をくぐると大きな鉢植えの蓮がずらりと並んでいましたが、大きな白い花がひとつだけ咲いていました。ここの境内の入場は、1時間ごとに見学者をまとめて、お寺の方が案内してくれるというシステムです。約50分のツアーで、カメラは使用禁止です。

11時組が集合し、ツアーが始まります。10人ほど集まりました。まず、真新しい茅葺きがまぶしい薬師堂の見学です。皆さんのご寄付により、ようやく茅葺きの葺き替えが先月終わりました、3500万円かかりました、茅(かや)は、すすきを使います、腕利きの奈良の職人さんによるものです、という説明がありました。

お堂の中は土間になっています。向かいの三つの仏像さんがこちらを見ています。真ん中の薬師如来と左隣の月光菩薩は、私の目に視線を合わせてくれていましたが、日光菩薩は、そっぽを向いています。見学者の若い、きれいな女性に目を向けているようです。円覚寺の仏殿の天井の龍の目は、たしか、どこから見ても、にらんでくれたはずですので、念のため、実験してみました。位置を変えてみると、日光菩薩の視線と出会う位置がありました。その位置では、逆に月光菩薩はそっぽを向いていました。両脇には、2時間ごと災難を守る役の12神将(12支の動物が頭についています)がずらりと並んでいます。真上を見上げると(これで、首の骨を折ったひとがいると冗談をいわれます)、天井の、板の銘に、何とかの源朝臣尊氏謹書の文字がはっきりと見えます。この薬師堂は、鎌倉時代に一度焼けていますが、尊氏が再建したのです。それをさらに江戸時代に、古い建材を生かし、8割程度の大きさにして建て直したのがこれだそうです。尊氏の銘はちゃんと残してくれたようです。

歴史のことを、少し付け加えますと、まず二代目の執権、北条義時が創建しています(実朝暗殺のとき義時が難を逃れたことが理由です)。そして、時宗の子、貞時が元寇のあと、覚園寺としてたそうです。その後、尊氏が再興したのです。明治以降、尊氏は逆賊とされ、そのゆかりの寺ということで、冷遇され、戦時中は石を投げられたりしたそうです。そのような歴史があるので、歴代の住職さんが、観光優先という時流に乗らず、今でも凛としているのでしょう。

朱色の愛染明王や鉄造の不動明が安置されている、愛染堂と、今修理中で不在でしたが、人気もので、安産や病気治癒の御利益のある黒地蔵のいる、地蔵堂も見学させてもらいました。加えて、築300年の、手広から移築したという古い民家に入ったり、やぐらの中のいくつものお墓でろうそくをあげたりしました。

お堂の横の樹齢700年という槇の木を見上げながら、この木が生まれた頃と、ほとんど変わらない雰囲気が、ここには残っているなと思いました。しーんとして、なにか、霊気を感じるような(案内の方は不気味な、という表現を使って、笑わせていましたが)、そういう雰囲気でした。

とても充実したツアーでした。300円の入場料では済まない気持ちでしたので、お賽銭で加えておきました。仏像が好きな方や、静かな雰囲気に浸りたい方、霊気を感じたい方などには、おすすめのお寺です。カエデの木がたくさん目につきましたので、今度は、紅葉の頃に伺おうかと思っています。

遅いランチは、小町通りの横道を少し入った、「まちええる」でスパゲテーをいただきました。サラダがたっぷりついて、味も量も満足したお料理でした。



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校名略語 面白い

2006-09-11 10:00:00 | Weblog
先日、いつもと違うコースで、朝の散歩をしているときに、校門に「大中祭」という、運動会か文化祭なんでしょうか、看板が飾ってありました。一瞬、大中とはなんだろう、と思いましたが、すぐ気づきました。大船中学の略語だったのです。使い慣れた人には、あたりまえのことでしょうが、はじめてみる人は、面白いと、思ってしまいます。どう読むのでしょうか、だいちゅう、かな、それとも、おおちゅうかな、どちらにしても、ごろが悪いですね。船中(ふなちゅう)では、私が若いとき、よく入った居酒屋の鮒忠を連想してしまうので、まずいですかね(私だけですかね)。

大船地区に小坂小学校があります。ここの略語はどうなんでしょう。小小でしょうか。これも、しょうしょう、こしょう、いずれで読んでも、少々ごろが悪いですね。

全国レベルでみると、面白い略語の学校名があるでしょうね。小学校の大小はどこにもありそうですね。大のついた地名は多いです。中小も、ありそうですね。中学校の大中も、山のようにあるでしょう。中中(ちゅうちゅう)、小中(しょうちゅう)は、さすがにごろが悪いので使わないでしょう。

高校では、高のところを、たかと呼んでいるところが、結構あります。大都市では、同じ都市名の普通高校と工業高校があるので、略名のときは、普通高校をたか(高)、工業高校をこう(工)と呼び、区別します。高崎では、高崎高校を、たかたかと呼ぶそうです。これも面白い略語ですね。かたかたよりはいいですけど。

大学は、中大がありますね。本当は面白い名前のはずですが、なじんでしまって、あまり感じませんね。将来、小中さんという人が、私立大学を作って、小中大となれば、笑えますね。

大学には、よく落語研究会があります。略語研究会も作ってほしいです。

写真は、この散歩の途中で撮影した、いたち川に遊ぶ白鷺です。



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芸術の秋

2006-09-10 21:41:06 | Weblog
芸術の秋ですね。うちの近くの鎌倉芸術館でも、いろいろな展覧会が開かれるようになりました。今も、二つの絵画サークルの展覧会が開かれています。散歩がてら、ちょっと覗いてみました。まず、水彩画の部屋に入りました。淡い色彩の、ほっとするような、いい絵ばかりでした。それに、見慣れた風景が描かれています。鎌倉の華頂宮邸とか鎌倉湖、寿福寺の参道もありました。横浜の景色も、私の良く知っている建物や風景です。

横浜開港記念館の絵を見ていて、あれ、どこかで見たような絵だなと思い、しばらくして、気づきました。私の親父の絵です。親父は退職した後、しばらくして、色鉛筆による写生画をはじめました。製鉄所に勤めていた、いかつい親父でしたから、こんな趣味をもつようになるなんて、夢にも思いませんでした。数年すると、人にみせても恥ずかしくないような絵を描くようなりました。3人の子供達に自分の自信作を渡して、10数年前にこの世を去りました。私は、牛久シャトーの洋館と、パリの落葉がいっぱいのリュクサンブール公園のベンチに座っている私とワイフの絵をもらいました。どちらも私達夫婦にとって思い出の景色なのです。色鉛筆と水彩の違いはありますが、スケッチの描き方がよく似ていて、思い出したのでした。

隣りのギャラリーでも、地元の絵画サークルの発表会がありました。裸婦、自画像、娘とか、人物画が多くみられました。これがアマチュアの絵か、と思うレベルのものが、たくさんありました。こんな上手な人ばかりだと、ずぶの素人はサークルに入りたくても、躊躇するだろうなと思いました。私がもし絵を始めるとしても、やはり、親父のように、先生なしの自己流になるのではないかと思いました。

もうひとつ先のギャラリーでは、販売を兼ねた、有名作家の展示会がありました。東山かいい、平山郁夫、後藤純夫など錚々たる作家の日本画が飾られていました。ときたま、大船ルミネでこの種の展示があるときは、うるさいくらいに係りの人が寄ってくるのですが、ここでは、質問しない限り、黙っていてくれます。公共的な会場なので、きっとそういう条件で貸したのではないかと推測します(笑)。おかげさまで、ゆっくり鑑賞させてもらいました。

まだしばらく、芸術の秋は続きます。また、散歩の途中、覗いてみようと思います。











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黒四(くろよん)ダム、再び

2006-09-10 08:49:02 | Weblog
先月の旅行のとき、黒四ダムの一角にある、171名にものぼる殉職者に対する慰霊碑の前に佇んでいると、ワイフが、こう話しかけてきました。たしか、このダム工事は、NHKのプロジェクトXに取り上げられたよね、工事関係者が、この碑の前で話していたのを覚えている、と。

今日、そのことが、ふと頭に浮かび、是非、その番組を再度みてみたいと思い立ち、本郷台駅前のアースプラザに向かいました。夏の初めにワイフと何気なく、ここに入って、見学しているうちに、そこの映像ライブラリーが、プロジェクトXシリーズのビデオをもっているのを知ったからです。

すぐ目的のビデオは見つかりました。173回続いたこのシリーズのうち、この黒四関係は、第14回のものでした。2000年6月放送で、「厳冬黒四ダムに挑む」というタイトルでした。

早速、ビデオをスタートさせます。進行係の國井雅比古さんと久保純子さんの見慣れた顔が現れます。たしか、くぼじゅんは途中で代わったっけな、やっぱり顔が若いね、など余計なことを考えているうちに、あの独特の名調子のナレーションにどんどん、引き込まれていきます。

忘れてしまっていたことばかりでした。当時、関西の電力事情がそんなに逼迫していたとは思いませんでした。7年以内に黒部ダムが完成しなければ、関西の経済は一気にしぼんでしまう、そういう背景があったのです。ところが、この工事は前代未聞の困難が待ち受けています。3000メートル級の立山連峰の向こう側にダムをつくるのですから、大変なことです。山の向こうに60万トンの資材を運搬しなければなりません。

資材運搬のためのトンネル工事を長野側と富山側から行いますが、困難を極め、工期7年という絶対条件がくずれそうです。そこで、「大まむし」とよばれた現場総指揮者、中村精(くわし)さんが登場します。目標達成のため、前代未聞の大作戦を展開します。400人の強力(ごおりき)が、絶壁に作られた、1人がようやく通れる細い板の道を荷物をかついで運びます。また、立山の尾根を何十台もの(数の記憶はあいまいです)ブルドーザーで越え、そりで黒部側にすべり降りるという荒技を強行します。加えて、マイナス20度という厳冬期に、黒部側に数百人の若者を越冬させ、トンネルの向かい堀りをさせます。

筋金入りのダム屋、中村さんは口だけの人ではありません。朝一番に現場をくまなく回り、安全点検していたそうです。7年間、現場にはりつき、単身赴任を通したそうです。どんな無理を言っても部下がついてくるはずです。

越冬隊の辛苦は想像を絶するものでした。ご飯と味噌、それに缶詰という乏しい食料、困難な労働、そういう過酷な条件の中で、同時期に行われていた南極越冬隊に自分たちを重ね合わせ、使命感に燃えて頑張ります。若い医師、鈴木さんも、大まむしの、たっての願いで越冬隊に入り、若者の健康管理やよろず相談役として、兄貴と慕われます。新婚の奥さんを残しての単身赴任です。一時帰郷の人に、何か奥さんにおみやげはと、尋ねられ、私の手のぬくもりをと、その人に握手して渡します。手を洗わずに、奥さんに返したそうです。

延べ1000万人に及ぶ人々が関わった、この巨大なプロジェクトは、リスクもあった黒部川せき止めの大発破にも成功し、昭和38年、予定の7年で完成します。しかし、この間、多数の殉職者も出ました。中村さんも部下を51人もなくしています。

放送時、91才の中村さん、この碑の前で、この人達のおかげでこのダムが出来た、と涙ぐみます。昭和30年代の、このダム工事に携わった男達は、私の父と同じ世代です。父も製鉄所で汗と涙にまみれ頑張りました。戦後の日本の復興に力を尽くされたこの世代に最敬礼です。











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