気ままに

大船での気ままな生活日誌

朝焼けと眉のような月

2011-10-25 07:00:47 | Weblog

目を覚ますと、窓ガラスが赤くなっていた。いそいで、窓を開けると、うつくしい朝焼けが飛び込んできた。大きな空がみえるベランダに出て、もう一度、ながめた。暁の空は刻々と変わっていく。いったん色褪せたなと思うと、数分も経たないうちに、また、オレンジ色が飛び出してきて、雲を染めた。おひさまがそろそろおでましの頃になったのだ。雲間の青空も、少し前の暗い空色から明るい空色になってきた。

少し前まで、伊東深水の描いた、お仙ちゃんのうつくしい眉のような細い月が出ていたのに、雲に隠れてしまったのか、明るすぎて、消入ってしまったのかわからないけれど、もうすっかりみえなくなっていた。

そして、おひさまが登場した。朝ドラの”おひさま”は終わり、今、だんじり娘がミシンに目の色を変えている。だんじり娘は日の出の勢いのおひさまで、ぼくは消えゆく眉の月(涙)。でも明後日が新月だそうだから、また生まれ変わったつもりで遊びにがんばろうと思う(汗)。

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伊東深水展 平塚市美術館

2011-10-24 11:52:25 | Weblog

平塚市美術館の開館20周年記念展ということで、おまちかね、伊東深水の回顧展が開かれている。10月22日(土)の初日に行ってきたが、翌日曜日にするかどうか迷っていた。というのは、愛娘の朝丘雪路さんのトークも聞いてみたいと思っていたからだ。でも、前日、朝日新聞に大きく取り上げられたので、希望者殺到と予想して、雪路さんのは諦めた。

入り口に、名刺代わりに飾られていた作品は”N氏夫人像”。昭和28年、深水55歳の作。深水は肖像画の名手であったことが、後半の展示でわかる。昭和26年作の(鏑木)清方先生像なんか、そっくりである。そっくりだけではなく、内面まで写し出している。さて、深水は家庭の事情で、子供時代は看板屋の住みこみなどして、清方に13歳で弟子入りし、やっと好きな絵が描けるようになる。16歳のときの作品”枇杷”が最初に展示されていた。そして翌年描いた”新聞売り子”。苦労した自分の姿だろうか。籠の中に新聞の束を詰め、一休みしている。背景に着物姿のご婦人がふたり。美人画家への萌芽か(笑)。

そして4、5年後の作品。院展に出品した”乳しぼる家”。酪農家の風景だ。”大島の黎明”でも労働する女性が描かれている。色も暗い。一転して、ほぼ同時期の”笠森お仙”。ぼくの好きなお仙ちゃんの登場。しかし、鈴木春信のお仙ちゃんと違って、茶店の仕事に疲れた様子のお仙ちゃんだ。深水がお仙ちゃんを描いているとは思わなかった。うれしかったことのひとつ。ただ、所蔵先を明らかにしていないので、訪ねていくわけにはいかないのが残念。

そして、深水といえば、美人画がずらり。どれもいいけど、今回のぼくの選んだナンバーワンは、”指”。透けた着物越しにほのかにみえる肌。素っ裸よりむしろ色っぽい(笑)。奥さんがモデルだそうだ。うらやましい(汗)。色っぽいシリーズでは、長襦袢、夕映え、朧(春宵)とつづく。浴衣姿で簾の向こうで後ろ向きでくつろぐ女の”宵”もよい、酔いそうだ(笑)。やはり後ろ向きの”暮方”。

今回、新発見された作品が5点ある。皇紀二千六百二年婦女図(額二面)、雪の中を、洋装、洋傘の4名、和装、和傘の一名が闊歩している。力強く、軍国時代を生き抜く女性だ。そして、”海風”も新発見組。浜辺の、それぞれ白地と赤地の和装のふたりの女。深水は鎌倉にも住んでいたから、鎌倉の海だろうか。

桜の幹を中心に描いた大作(紙本金地彩色、六曲一双)、”さくら”も素晴らしかった。まるで北鎌倉のおろち桜のようだ。深水は子供の頃から速水御舟にあこがれていて、この絵も、御舟の”樹木”(先日、本ブログで紹介した)から着想を得たそうだ。”樹木”はグロテスクに描かれているが(ぼくはエロチックとみた;汗)、うつくしく描こうと思った、と述べていた。”常に進化”、生き方が御舟と似ているといえないこともない。

渡辺庄三郎が企画した大正新版画にも、積極的に参加した。ここでも名作、”対鏡”をはじめ20点以上が展示されている。いずれも、庄三郎子孫の新橋の版画店、所蔵のものである。また、戦時中にはインドネシアに派遣され、そこで多量のスケッチをした。”南方風俗スケッチ”も多数、展示されていて、深水の別の一面をみることができる。

戦後の円熟期の作品もすばらしい。雪月花三部作や前述の肖像画など。そうそう、日劇ミュージックホール楽屋を描いた”巷は春雨”の4面も、踊り子たちの舞台に出る前や後の様子が丁寧に描かれていて、楽屋内のざわめきが聞こえてくるようだった。さいごに、(深水描く)紅梅文様の打掛けが飾ってあったが、雪路さんが着たものだろうか。トークで聞いてみたかった。

師匠の鏑木清方が93歳で亡くなった年、後を追うように、深水は74歳でこの世を去った。

以下に、ちらしと図録からの写真をお楽しみください。

笠森お仙



新聞売り子



夕映え





清方像



さくら(一部)



巷は春雨



 

 

 

 

 

 

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芥川龍之助と久米正雄展

2011-10-23 07:42:33 | Weblog

鎌倉文学館で開かれる展覧会は、当然ながら、鎌倉ゆかりの作家の文学展が多い。今回もそうである。久米正雄は34歳から亡くなる60歳まで鎌倉に住んでいたし、その間、戦前の鎌倉カーニバルや戦後の貸本屋など、鎌倉文士のまとめ役として活躍もした。一方、芥川と鎌倉とのかかわりは、すぐには思いつかない。大学卒業後、横須賀の海軍機関学校に就職し、1年ほど由比ヶ浜に住み、また新婚生活の一年を由比若宮の近くで過ごした、程度である。駅前のホテルで岡本かのこと出会ったことなども無理やり入れてもいいかもしれない。この二人展は、ふたりが同い年であり、旧制一高に入学以来、芥川が35歳で亡くなるまで互いに切磋琢磨して作家活動をしていたことで、同年代、同年齢で比較でき、面白い展覧会になっている。

明治25年に、久米は上田に生まれ、芥川は築地明石町で生まれている。帝大文学部在学中に、一緒に、同人雑誌、第三次”新思潮”を創刊し、文学活動に入っている。そして、漱石門下に入ったのも同時である。芥川の”鼻”が漱石に激賞されて作家への道を歩くことになるのはよく知られていることであるが、久米も、一作目はほめられなかったが、第二作目”競そう”で漱石に評価され、自信をもった。そして、ふたりそろって、職業作家として活躍を始めるのだ。

そして、展覧会では、第6章、”新進作家から職業作家へ”、第7章、”永遠の別れ”、と続く。芥川は”或る阿呆の一生”の原稿を遺し自殺する。その前書は、久米に宛てたものだった。誰よりも僕を知っていると思うから、この原稿を発表する可否は君に一任すると書かれていた。久米はその後、還暦まで生きるが、生前、芥川の死について”発すべき言葉もない”と、追悼文らしきものはひとつも書かなかったそうだ。

両作家の自筆原稿、手紙類、写真、などのほか、芥川の書画、久米の水彩画などもみることが出来る。それに、ミーハーの私メを喜ばす、両作家の生活振り一覧表なども展示されていてた。ナヌ、酒は芥川は飲まない、久米は毎晩飲むトナとか、芥川が朝型に対し、久米が夜型とか、芥川は寄席はいかないが、久米は大好きだとか、などなど、面白く拝見した。その表の写真を載せますので、興味のある方は、虫めがねでみてください(笑)。

帰りに、芥川が新婚時代をすごした、由比若宮の近くを訪ねた。鳥居の横に、”元八幡横の芥川龍之助旧居跡”の説明板が建っていた。



鎌倉文学館

元八幡・由比若宮(今の八幡さまはここから移った)

 

 

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猿の惑星/創世記

2011-10-22 10:10:10 | Weblog

1968年に”猿の惑星”をみたときの、おどろき、感動は忘れられない。ケープ・ケネディから打ち上げられた宇宙船が漂流し、地球時間では2000年の歳月が流れていた。そして、ある惑星に不時着する。そこは英語をしゃべる猿が支配している惑星だった。ラストシーンが印象的だった。猿たちから逃げ延びた船長たちが目にした光景は荒廃したニューヨークの町並だった。なんと、ここは地球だったのだ。

そして、40年後、つくられた”猿の惑星/創世記”。なぜこんなに知能の高い猿が生まれ、人類が滅亡していったのか、”知能猿の創世記”が描かれている。”猿の惑星”世代のぼくとしては見逃せない映画だった。舞台はサンフランシスコ。アルツハイマー病治療薬の開発の実験動物として使われていた猿。ある試験薬が劇的に猿の知能を高めたが、その猿は暴力を起こし殺されてしまう。しかし妊娠していて、その子供は研究者に保護される。その子、シーザーは母の知能を受け継いでいた。研究者の”子供”として楽しい日々をすごし、”成人”する。しかし、ある事件から、研究所の実験動物舎に戻される。ここから、シーザーの知略の物語が始まる。試験薬を盗み出し、動物舎の猿たちに高い知能を獲得させ、さらに集団脱走をはかる。目指すは、シーザーが幼少の頃、連れてきてもらい気に入っている、あのセコイアの大木が生い茂る、ミュアー・ウッド(森)だ。途中、ゴールデンゲートブリッジを渡らなければならない。そこで人類対猿類の壮絶な戦いが始まる。つい猿軍を応援してしまう(汗)。そして、戦いに勝利し、猿軍はミュアー・ウッドに凱旋する。一方、人類は実験猿のウイルス(たぶん)に感染し、滅亡の一途をたどることとなるだろうと思わせる、示唆的な映像が最後に流れる。

猿の惑星世代としてはとても面白い映画だった。ただ、面白がってばかりはいられない。キャッチコピーにあるように”これは人類への警鐘”である。40年前も同様なことが言われた。ビタミンC発見でノーベル生理医学賞を受賞したセント・ジェルジの”狂ったサル”もその頃、出版された。”狂ったサル”とは、いうまでもなく人類のことである。セント・ジェルジは、核実験を繰り返すばかやろう国家を激しく非難した。さて、現代はどうであろうか。”狂ったサルは死ぬまで直らない”状況だといってもいいだろう。原発事故のその後の対応をみればわかることだ。

 

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日本橋 べったら市

2011-10-21 11:14:12 | Weblog

江戸時代からつづいているという、日本橋べったら市を昭和生まれの私メがはじめてみてきました。浅草ほうずき市がほうずきだけの市ように、べったら市もべったら漬けだけの市かと思ったら、大間違い。べったらはメインの参道ではなく交差する通りに十数軒の露店が並んでいるだけ。あとは、川越祭りのように、ありとあらゆる露店、屋台が、参道だけではなく周辺の道のいたるところにわんさか並んでいる。考えてみれば、宝田恵比寿神社のお祭りの市なのだから、あたりまえかもしれない。それにダイコン売り場だけでは、こんなに賑わうわけはない。ダイコン役者を主役にして、脇役の露店、屋台でもりたてる、日本橋の一大おまつりなのだ。

ぼくは、まず、意外と小さかった宝田恵比寿神社にお参りして、それから、”べったら通り”で一本、1500円のべったらを買った。共食いになるけど大根足のワイフへのおみやげだ。飴と米麹で漬ければ、ワイフの足もべったらのように細くなるだろうか。そして露店めぐり。昼間なのに結構な人出だ。夜になると仕事を終えたビジネスマンたちが繰り出して、さらに大賑わいになるらしい。

おでん屋の前にきた。昼飯前だったので、開いていた席に座った。おでん盛り合わせと熱癇一本頼んだ。隣りの席にイタリア系の顔をした若い女性ふたりを連れたビジネスマン風の男が座った。どうも毎年、ここにきているらしく、親父さんと親しげに話していた。帰る時に、今度は神田明神だね、と言って帰った。なかなかおいしいおでんだった。先日、おでん落語を聞いたばかりだから、思い出し笑いをしながら、最後に、ちくわを口にいれた。ちくわの恋人、巾着も頼もうとしたが、残念ながらおでん鍋の中にはなかった。

いい気持ちになって、露店街をさらに歩いた。人形町方面に向うと、また新たなべったら市が現れた。そして新たな神社もでてきた。椙森神社という恵比寿さまを祀っている社だ。ここもお祭りで、先ほどの宝田恵比寿神社と合同でやっているようだ。

そのあと、ぼくが現役時代、何度も行ったことのある、人形町まで出て、なつかしのお店を訪ね歩いた。洋食のきらく、芳味亭、居酒屋の笹新、鯛焼きの柳家、人形町今半は相変わらず健在だった。そして、嵐山光三郎が美人姉妹がいると書いていた、創業大正八年の喫茶店、快生軒でコーヒーをいただいた。代が変わったはずだけど、若い美人姉妹(姉妹かどうかは確認していない)がいたのには驚いた。コーヒーの味も当時と変わらず、とてもおいしかった。
。。。。。

宝田恵比寿神社とべったら市

露店

ぼくが飲んだおでんやさん。手前の開いている椅子に座っていた。

もうひとつの神社、椙森神社

 人形町のお店

 

 

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酒井抱一と江戸琳派の全貌

2011-10-20 09:49:58 | Weblog

今年は酒井抱一、生誕250年記念ということで、いくつもの展覧会が開かれた。ぼくも出光美術館の抱一展に行っている。その締めくくりになる記念展が千葉市美術館で開かれている。先日、遠路はるばる行ってきた。なななんと、その日は、ちょうど千葉市民の日で、市民のみならず全員入場無料という幸運に恵まれた。同じビルの区役所食堂のカツカレーもおいしかったし、幸福な気持ちで会場に入った(汗)。

あいさつ代わりに、”桜に小禽図・柿に小禽”の双幅が会場の玄関先に。いかにも抱一といった目にやさしい(?)絵。ぼくは抱一の絵で、この作品がとくに好き、というものがない。でもどれもほどほど好き。だから、今回の展覧会も、秋草や花々が生い茂る草原をハイキングに行くような気持ちでみに行った。期待を裏切らない展覧会であった。

第3章”光琳画風への傾倒”では、出家前後の初期作から晩年までの、”いかにも抱一”といった、なじみの(はじめてのものでもそう思わせる)作品が並ぶ。八橋図屏風そして青楓朱楓屏風の大作や秋草花花卉図、富士山と龍の絵など。また、たらしこみの墨絵のような桐図屏風もおもしろかった。そして、十二ヶ月花鳥図、麦穂菜花図、月に秋草図、州浜に松・鶴亀図、立葵図。

模写(に近いもの)も面白い。抱一の鳥獣戯画、はじめてみた。風神雷神図屏風は後期展示でみられなっかったが、ぼくは出光でみているからいいです。その代わり、風神さんだけの絵はありましたが。雪舟写金山寺図も。ちあきなおみがどの歌手の歌でもうまく歌うように、抱一も何でもこなします。

さて、今回の展示出品総数は300点以上で、うち抱一作品は約160点という大回顧展だから、いろんなものがみられる。抱一は吉原のお馴染みさんだから、関係の作品も多い。柳花帖は、55種の俳句と56図の俳画からなるが、これも乞われて妓楼で描いたものだ。”つたなき反故”と恥じ入りながら描いたという。吉原月次風俗シリーズもある。一方、がらりと仏画も。一応、お坊さんだから、あたりまえだけど。妙音天図、青面金剛図など等。そして若き日の浮世絵。そして尻焼狂人の号をもつ狂歌師のとしての作品。多芸多才、どんな顔をしてたのか、と誰もが思う。はい展示されています。若き日の抱一は、狂歌本の表紙に描かれている。晩年の抱一は、鈴木基一ら三名の抱一像があります。家康風から西行風までいろいろ取り混ぜてあります。出光のときは鏑木清方が描いていました。

そして鈴木其一作品も約60点もある。もともと基一作品は米国に多数、流出しているので、これだけの展示はなかなかないのではないだろうか。本来なら、酒井抱一・鈴木基一、江戸琳派展とすべきところだろうが、250年生誕記念ということで、影にかくれた。だから、ぼくの感想文もここで終わりとしよう。(本当のことをいうと、出掛ける時間が迫ってきているため;汗)

 

 

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海蔵寺の紫苑

2011-10-19 18:05:52 | Weblog

ぼくは海蔵寺の紫苑が大好きです。毎年、満開の頃には忘れずにみにいきます。なんせ、紫苑の花言葉が”君をわすれず”ですからね。紫苑という花の名もいいですね。名は体をあらわします。まさに紫色の苑です。ところが、別名が気に食わないです、鬼の醜草(おにのしこぐさ)。いったい、どこが醜いんや、カーネーションだんじりぶつけてやろか、と岸和田の人ならこう言って怒るでしょう。たしかに背が高くて、鬼のようにみえるのかもしれません。”むかし、オレが雑草だった頃”、セイタカアワダチソウのように駆除しずらく、嫌われたのかもしれませんね。

でも十五夜草という異称もあるらしい。これはどういうわけでしょうか。すすきと名月はよくお似合いですが、紫苑も意外と似合うかもしれませね。





薪も見頃でした。

柿もすすきも見頃になりました。

 

 紫苑が空に舞い上がったかのように、夕焼け空もきれいでした。

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御舟 ”炎舞”と”樹木”

2011-10-19 10:01:17 | Weblog

先日のNHK”極上の美の饗宴”をみて、さすが速水御舟はすごい目をもっているな、と思った。たとえてみれば、どんな球がきても瞬時に合わせられるイチローの目、あるいはボールが止まってみえると豪語した川上哲治の目。なにしろあの、シャッター速度1/8000でやっとわかる、焚火の炎の一瞬をとられて、あの名作”炎舞”を描いているのだ。炎だけではない、炎の上のみえない煙りの動きまで、流体力学に詳しい科学者もびっくりする正確さで、描いているのだ。炎の上に舞う蛾も形態は正確だと、昆虫分類学者はいう。しかし、わざと羽根の模様は変えているという。この絵は軽井沢で描かれたものだが、飛来する何十種の蛾を正確にスケッチしている。すべて写実ということにはしていない。

一方、この年、軽井沢で御舟は、もうひとつの絵を描いている。ぼくは実物をみたことがないが”樹木”という、蔓性の植物が大木にらせん状に巻きついている絵である。芸大の先生が、この絵のらせんが”炎舞”のみえない”らせん”になっている、と解説していた。”炎舞”は山種美術館で何度もみている好きな作品だが、”炎舞”の兄弟分かと思うと、この”樹木”も好きになってきた。細部も写し出されていたが、エロチックな感じさえ受ける、生き生きした絵であった。生命力を感じる絵といってもよい。炎舞には炎に飛び込む、生と死のはざまにいる蛾が描かれている。もしかしたら、御舟は昼の”樹木”で生の真っ盛りを描き、夜の”炎舞”で生から死へ移行する、最後の燃え盛る炎を、”らせん”で繋ぎ、連作として描いたのではないだろうか。

ふたつ並べた絵をテレビでみることが出来たが、今度、どこかの展覧会で、そういう配置で是非みてみたいものだ。

 

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川越 山崎美術館

2011-10-18 09:29:21 | Weblog

川越まつりで賑わう、蔵造りの町並みがうつくしい通りを歩いているとき、ふと山崎美術館の案内板が目に入った。橋本雅邦の作品が展示してあるという。雅邦といえば、狩野芳崖と並ぶ、明治期の近代日本画の創製に力をつくした方だ。まだ、山車も動いていない時間帯だったので、迷わず入った。

何故、川越に雅邦か。雅邦は川越生まれだった。それに、お父さんは、川越藩のお抱え絵師だった。なるほど、わかった。そして何故、山崎美術館に。山崎家四代山崎豊翁が雅邦の後援会”画宝会”を結成し、そのときに作品を譲り受けたとのこと。それが、今の美術館になったというわけ。なるほど。

秋季展覧会が川越まつりに合わせて開かれているのだ。屏風絵などの雅邦作品のほか、別室には山崎コレクションの浮世絵(鳥井清長、橋本周延、尾形月耕)などもみせてもらえる。そして、観賞を終えると、和菓子つきのお茶までいただける。ここは菓子つくりの場所だったんですよ、と係りの女性が教えてくれる。そういえば、お菓子の型なども、回りに展示してある。そういえば、隣りは、和菓子の老舗、亀屋だっけ。亀屋の山崎家か、ようやくつながった。

外のざわめきがうそのような、静かなひとときだった。

そういえば、と帰ってからワイフがいう。数年前の朝ドラ、川越が舞台だったよね、たしか老舗のお菓子屋さんの娘さんが主役だったよ。ネットで確認してみた。2009年の、多部未華子主演”つばさ”だった。出奔していた母が川越まつりの日に戻ってきた、とあった。これは、実話を元にしていないそうだから、亀屋とは関係ないが、イメージの中にはあっただろう。

亀屋




祭りのあとの川越も行ってみたいな。でも、今日は千葉方面に行くつもり(汗)

 

 

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川越まつり

2011-10-17 10:27:56 | Weblog

”一度はみてみたい祭りシリーズ”第〇弾(爆)。最近では、だんじり、お会式に続くもの。川越は何度か訪れているが、大船に越してきてからははじめて。意外に近いのにびっくり。大船始発9時1分の湘南新宿ラインで、池袋、そして東武東上線で川越着、10時40分。ぼくが、まずはじめに目にする山車は、どんな歴史的人物が山車の乗っているのかが、楽しみ。

この人物により今後のぼくの人生を占おう。パンフレットをみると、菅原道真、太田道灌、徳川家光、河越太郎等などがいる。駅を降りる。早くもすごい人。橋上広場から下を見下ろすと、一台の山車がみえる。まだ出発前だ。曳き手の人も休んでいる。”脇田町”の字が垂れ幕に。さて人形は誰だ。まだ引っ込んでいる。すると、ぼくを待っていたかのように、するすると出てきたではないか。誰だろう・・・・・なななんと徳川家康・・・・ということは、ぼくは将来天下をとる?やめてください、それだけは。外野から、一杯やりながらスッカラカン、ドジョウナベ、とくさしているのが一番だべや。それとも狸になれということかな?そうか愚妻をだまして、お小遣いをもう少しせしめよう。

そして、混み合うクレアモールをしばらく歩いて、西武新宿線の本川越駅に着くと、そこから露店、屋台がずらりと並ぶ、どこまでもどこまでも。本通りだけではなく、脇道にも、お寺の境内にも。その数、はんぱじゃない。だんじりより多い。たぶん日本一じゃないだろうか。途中、”徳川家康山車”のように出発準備をしている山車にいくつか出会う。また、山車の出ない町内や囃子連の仮設舞台での囃子に合わせたひょとこや獅子舞の”居囃子”も楽しい。




そして午後になると、各町内の山車が巡行し始める。午後2時半頃から市役所前にいくつかの山車が集まるというので、そこで2時間ほど楽しんだ。途中、近くの市立美術館も覗いてみた。川越出身の小村雪岱の版画があるかと思ったが、常設での展示はなかった。所蔵はしていて、一昨年、雪岱展があったらしい。そして、また、蔵造りの町並のうつくしい通りに戻った。そこは、立錐の余地のないほどの人出になっていたけれど、山車がいくつも入ってきて、祭りの醍醐味を十分、味会うことができた。蔵造りだけでも、うれしいのに、加えて華やかな山車と囃子、ぼくは、2時間くらいかけて、ゆっくりと、ゆっくりと、前へ進んだ。まるで夢の中にいるようだった。山車が、狭い四つ角を曲がるときは祇園祭の辻回しみたいのがある。山車の下に入り、車輪を動かす。また、途中、三基の山車が出会う場面もあった。上が廻り舞台になっていて、人形も囃子の人も三者向き合うようになり、競い合うように、囃子が高まる。これが”曳っかわせ”という場面なのだろうか。祭りで一番の見どころだ。

だんじり祭りほど、荒っぽっくはない、祇園祭の山鉾ほど豪華ではない、祇園とだんじりを足して2で割ると川越祭り、そんな印象だった。夜のまつりはもっと華やからしい。来年は夕方に出かけるつもりだ。

・・・・・

時の鐘の前を通る菅原町山車(菅原道真の人形)

 
 蔵の通りの山車

 三者の向き合い








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