気ままに

大船での気ままな生活日誌

夏至の円覚寺 泰山木の花

2015-06-23 09:45:15 | Weblog

夏至の日。午後4時から鎌倉芸術館での鎌倉彫の展覧会を友人と観に行く予定にしていたので、その前にぽっかり空いた時間を円覚寺で過ごした。紫陽花の季節になると、いつもここは後回しになってしまう。でも、ここに紫陽花がないわけではない。もう遅いかなと思いつつ、境内を見回すと、まだまだ見頃のがいくつもあった。

方丈内を見学。ここで来月、4日間の夏期講座がある。今年はどれも聞いてみたい講演ばかり。立ち見もでるのではないか。立ち見は歌舞伎で慣れているのでOK(汗)

いつも、ぼくの特等席は縁側。涼しい風に吹かれながら、庭をみながら、講演を聞く。

方丈を出て、仏日庵に。庭の泰山木が大きな花をいくつも、咲かせていた。昭和8年に魯迅が寄贈したもの。

足元にも泰山木の花が!よくみると、芸術作品だった。夏椿の花は本物です。

もう少し、視野を広くすると、苔庭になっていて、林家木久蔵の作庭とのこと。そういえば、ここでよく落語会が開かれる。禅は落語にも通じるのだろう。

北条時宗、貞時、高時の棺が安置してある開基廟。22日は北条高時の御命日だった。

黄梅院では真民さんの詩

そういえば、方丈内でも真民さん直筆の、”念ずれば花ひらく”の書があった。ぼくの遊びは念じなくても、花ひらきます。遊びに出れば、向こうから花がやってきてくれます。

そのあと、定年後、鎌倉彫を趣味にしている友人と展覧会をみて、開店前から行列の、お肉屋さんが経営する居酒屋で一杯。そして、カラオケと、大船の、夏至の短い夜は更けていったのだった。

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六本木で大船鉾と40人の芸・舞妓はん

2015-06-22 13:26:12 | Weblog

六本木ヒルズアリーナに京都・祇園祭の大船鉾が来ているというので、最終日の日曜日に出掛けてきた。大船鉾はぼくの居住地、大船と同名なこともあり、親愛の情をもっている。その証に、去年の祇園祭は49年ぶりに後祭が復興し、何と150年振りに大船鉾が巡行したのだが、それを観に行っているのだ。

そのとき、山鉾巡行、後祭りのしんがりを務めた大船鉾。

その大船鉾が六本木にやってきた!!! 歌舞伎をみてから、急いで来たのに、もう、見物席はいっぱいで、中には入れない!

仕方なく、縄の外からみる。なんとか撮れた。

しばらくすると、大船鉾と隣接するステージで芸・舞妓はんの舞踊がはじまる。

何と、先斗町、宮川、上七軒など五つの花街から40人の芸・舞妓はんが大挙して来られたのだ。

芸舞妓はんの一覧。

着物を来て、グリーン車一両、貸し切りで来られたのこと。(今朝の朝日新聞より) 新幹線でおいでやす。

何故、40人か? このイベントが”京の夏の旅”40回記念の一環だから。市長さんの言葉。

会場の周囲には京都のお店の出店がずらり

細見美術館も

川床まで

舞妓はん

も一度、大船鉾。地元でも、こんな近くではなかなかみられないと、京都の人。

そして、解体がはじまる

東京で、実物の山鉾が来たのは、1955年、東京駅八重洲口に月鉾が来て以来、60年振りとのこと。また逢う日まで。

来月、後祭りに、また行かねば。

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六月大歌舞伎 天保遊俠録

2015-06-22 10:36:24 | Weblog

日曜日は(もう一つ是非、行きたいところがあったので)、歌舞伎座は、昼の部の一幕だけ、千円でみてきた。演目は、勝小吉と麟太郎(のちの海舟)父子の物語、”天保遊俠録”。小説では子母澤寛(1892-1968)の”父子鷹”が有名だが、これは真山青果(1878-1948)の作。はじめてみる演目であり、楽しみにしていた。

天保年間、旗本の勝小吉(橋之助)が柄にもなく、料亭で上役を接待しようと、宴席の準備をしている。若い頃から傍若無人の振る舞いで、今でも無役だが、可愛い息子で神童の誉れが高い、麟太郎の将来のために、何とか自分がお役についておこうと思ったのだ。

ところが、接待の準備におたおたしている父親の姿をみて、10歳ほど麟太郎は、”私は父上にそのようなことは臨んでおりませぬ”、”当世はそのようなご時勢ではございません、録の高いものがいばっているような世の中は終わります”、みたいなことを言って、父を戒める。子役の凜とした声に、観客も、あまりにしっかりものの麟太郎にクスクス。

以前、小吉と深い仲だった深川の芸者八重次(芝雀)も、ひともんちゃくあったが、妹分の芸者(児太郎)になだめられ、何とか宴席に着く。そして、上役の大久保上野介(友右衛門)と旗本どもがやってくる。お菓子が出されると、早速いちゃもん。小吉はぐっと我慢。お料理が出され、お酒も出る。このままうまく運ぶかと思いきや、床の間に飾る松をもってきた、庄之助(国生)を、旗本がケチをつけ、”化け物”呼ばわりする。その言葉に切れた、庄之助が旗本と喧嘩をはじめ、座がめちゃめちゃになる。はじめは、庄之助をなだめていた小吉だが、突然、啖呵を切る。”何を言ってやがんでえ、てめえら、録が高いだけの、ただのろくでなしでねえか、こんなのはもう、止めだ、止めだ、さっさと、けえりやがれ、おたんこなす(せりふは多少脚色;汗)。

これで、終わりと思いきや、勝家、本家の”姉さん”、実は阿茶の局(魁春)が登場。姉に免じて、お許しあれ、と旗本どもに頭を下げる。相変わらず、ふんぞり返る輩に、”まんざら私の弟が悪いわけでもなさそうですが・・・中の阿茶の局と申しますが、ゆるしなさい”と一言。将軍に直接仕える身分の方と知り、びっくり仰天、平身低頭の侍たち。

風呂を上がり、裃に着替えた麟太郎が現れる。じつは、将軍の望みもあり、今日、お城に上がることになっていたのだ。舞台が回り、満開の桜と緑の柳がうつくしい門外。ふたつの駕籠を見送る小吉と八重次。掌中の珠を失う悲しみと、一方、息子の出世を願う、複雑な気持ちでうろたる小吉。八重次がやさしい目で小吉をみつめる。観客もついほろりのラストシーン。

山あり谷あり、笑いあり、怒りあり、そして涙あり、われら庶民をとことん喜ばせてくれる、ステキな人情劇でした。

七月は玉三郎と海老蔵が出演。昼の部はすべて売り切れ。また、幕見席だね。

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三崎口、妙音寺の山百合と紫陽花

2015-06-21 08:48:25 | Weblog

このgooブログには、”このブログの人気記事”という覧があって、前日のアクセスの多かった記事のベストテンが表示されている。その上位の記事というのは、必ずしも最近の記事というわけではなく、随分前に書いたものであることもよくある。たとえば、今回のトップは”ジャカランダを訪ねて、鎌倉へ、横須賀へ”で、2013年6月28日記のものである。先日、報告したばかりのジャカランダ記事は圏外なのにである。そして、突然、2010年の”司馬遼太郎が好んだ画家、鴨居玲ら”が、ベストテン入りしてきた。たぶん東京ステーションギャラリーで”鴨居玲展”が開催されていることに関係があるのだろう。実は、ぼくは、この覧を結構、自分で楽しんでいる。その記事を開いて、当時のことを思い出し、にやにやしたり、ついでに、その前後の記事をみたりもする。

何故、こんなことを長々と書いているかというと、実は今回の記事のタイトルと、ほぼ同じタイトル”三崎口、妙音寺の山百合”がベストテン入りしているからなのである。ぼくがはじめて、妙音寺を訪れた、2013年6月28日の記事である。開いて、読んでみると、山百合の咲き具合、紫陽花の咲きっぷりがほぼ同じなのだ。結論を先に言ってしまうと、山百合はまだ早い、紫陽花は最盛期なのである。今年は、どの花も一週間ほど、前倒しの開花だから、日付もちょうど、そうなっている。ついでながら、昨年は7月17日(記事)に訪ねていて、最高の咲きっぷりをみている。山百合は自生地に依り、年に依り、開花状況が異なるから、適期に訪れるのが、なかなかむづかしい。

さて、衣笠の見事な山百合をみて、ここまで来たら、三崎口まで行って、山百合の開花状況を視察(笑)にいこうと決めた。衣笠駅のひとつ先の久里浜まで出て、京急に乗り換え、終点の三崎口。20分も歩くと、妙音寺。山百合はお山の上にある。前述のように、山百合はところどころに咲き始めている、ただ、紫陽花は見頃がつづいている、といったところだった。

では、巨大な大日如来さんや石の仏像さんと仲良く咲いている、紫陽花と山百合をご覧ください。

ようやく山百合さんが出現!

よくみれば山百合咲くなり崖ぷち

大日如来さまとツーショット

夏椿とツーショット

一日で、衣笠と三崎口で、こんなにたくさんの山百合をみられて大満足でした。

さて、今日の日曜日は、静かさから一転、人混みの銀座か六本木か、はたまた浅草か。

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衣笠山の山百合、見頃に

2015-06-21 06:06:35 | Weblog

おはようございます。今朝一番の記事は、梅雨の晴れ間の、昨日、ちょっと足を延ばして、出掛けた山百合散歩のことです。

横須賀の衣笠山の山百合が一斉に咲き始めたというので、出掛けたきた。最寄りの駅はJR横須賀線衣笠駅。菖蒲園は何度も行っているが、衣笠山は初めて。駅員さんに聞いたら、徒歩で30分近くかかるというし、バスもないので、タクシーで。衣笠山公園の入り口で降りる。

途中で出会った人に、山百合の自生地を訪ねると、あの紫陽花の小道を登れば、いっぱい咲いていますよ、と教えてくれる。登って行くと、すぐ山百合がみつかった。今年、初めてみる自生の山百合!これだけでもう大興奮!さらに、少し、進むと、あちらにもこちらにも、山百合が!それに、どの株も花をつけていて、まさに見頃!素晴らしい景色。

うっとり、眺めていると、この近くに住むというおじさんが話しかけてきた。ここまでなるのに10年かかりましたという。えっ、昔からの山百合の自生地だったのでは?と聞き返すと、昭和40年代の山野草ブームで、この山の、山百合やえびね等が取りつくされてしまったのだそうだ。そして、以前の山百合の山を取り戻そうと、10年ほど前から種を蒔き、ここまで殖やしたとのこと。ご苦労様でした。

紫陽花の小道を登る

最初にみつけた山百合。初見記念の山百合!

少し、歩みを進めると、あちこちに山百合が!立ち尽くしてしまう。


たくさんの花をつけて

途中で、象さんの親子のきずな!

紫陽花と山百合のきずな

オカトラノオも群生していて、山百合とのきずな。

きつつきとのきずな

忠犬タマ公とのきざな


雪崩で遭難した主人を二度も救い出した新潟県の”忠犬タマ公”。何故、横須賀にあるのか?海軍にゆかりのあった市内在住の新潟県出身の人たちが故郷で話題となった「タマ公」に感激。 そのうちの一人が川内村に住む飼い主、刈田さん宅を訪ねて「タマ公」の寝起きしていた所の土をもらって埋め、 碑を建てた、という。横須賀市長だった小泉又次郎氏(小泉元総理の祖父)の書。と、横の石碑に書かれていた。

山頂からは横浜のランドマークタワーをみることができた。

素晴らしい衣笠山公園の山百合だった。これから毎年、行かねば(汗)。そうそう、桜の名所でもあるとのこと。

さて、このあと、何処へ出掛けたでしょうか。ヒントは山百合です。つづけて書きますので、お楽しみに。

 

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海中の紫陽花水槽 えのすい

2015-06-20 08:32:27 | Weblog

おはようございます。お目覚めに海中の紫陽花はいかがですか。

えのすい(新江ノ島水族館)が紫陽花の季節にお送りする”海中の紫陽花水槽”です。どうぞごらんください。

海中の紫陽花水槽

ココポーマアカフジツボ ちょっと助太刀してもらえれば、もうりっぱな紫陽花。

オオエダキサンゴ 葉っぱをつけてもらえれば、これも、りっぱな紫陽花です。


水中紫陽花も

紫陽花水槽でなくても、あじさい園のような水槽があちこちに。

紫陽花に囲まれたクラゲ

イルカと江の島

観客層が若い!美術館と比べて・・

ほうぼう


さあ。今日は、いい天気だし、羽を伸ばして、ほうぼう、歩き回ろう。

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中国宮廷の女性たち/麗しき日々への想い/北京芸術博物館所蔵名品展

2015-06-19 19:10:48 | Weblog

 ブンカムラから5,6分も歩くと、松濤美術館。ここで、”中国宮廷の女性たち/麗しき日々への想い/北京芸術博物館所蔵名品展”が開催されている。ふらりと入ったが、いいものをみせてもらったという感じで出てきた。

北京藝術博物館は北京市内の古刹万寿寺内にある博物館で、1994年の開館だそうだ。収蔵品は8万件もあるそうだが、とくに清朝宮廷で用いられた服飾品、繍画や壁掛など観賞用の染織作品、さらに清朝宮廷の女性たちが用いた種々の腕輪や首飾など女性用宝飾品に優品が揃っているとのこと。それらが、ここ松濤に集合している。


はじめは、うつくしい刺繍がほどこされた垂れ幕、織物が並ぶ。そして、婦人用のポーチ、扇子袋、靴、女性用衣類、簪などがつづく。さらに、西大后が描いたという梅花図、牡丹図、松図などの書画が5点並ぶ。そして、明末から清時代の画家が描いた作品もそれにつづき、作者不詳だが、清時代に描かれた、
ちらしにも使用された”清代公主像”もこのコーナーに。もうひとつ目立つ人物像が”清贈一品夫人汪母王夫人像”

清代公主像

じっと、こちらをみている。年末展覧会美女ベストテン入りを狙う美女だ。

そして、清代末期の陶磁器の数々が展覧会をさらに華やかに。

粉彩荷花杯&粉彩開光海屋添籌図如意

粉彩過枝花卉紋碟&紅楼夢人物紋剔紅天球瓶

次回も面白そう。

鍋島松濤公園の水車がこっとんこっとん廻っていた。

鍋島家は、紀伊徳川家の下屋敷の払い下げを受け、明治9年に茶園を開いて「松濤」の銘で茶を売り出しました。茶園が廃止されてからは、湧水地を中心とする一画が児童遊園として公開され、昭和7年に東京市に寄贈された後、渋谷区に移管されました。
現在では、遊具や池の周りにベンチが配置され、桜が咲く時期には多くの人が花見に訪れます。(渋谷区・松濤公園)

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平賀敬・太郎二代展

2015-06-19 08:57:58 | Weblog

 ブンカムラミュージアムでボッティチェリ展をみて、帰ろうしたら、見覚えのある絵のポスターが目に入った。そのギャラリーで、彼の美術展が開催されていたのだ。画家の名前は平賀敬。平賀敬美術館が箱根湯本にあり、それを偶然、見つけて入ったことがあるのだ。2011年10月がはじめで、その後、何度か訪ねている。最初の訪問記はこちら。そこにも書いているが、彼の絵は、明るい色彩、ちょっぴりエロチックで、どことなくおかしい(ユーモア)、マンガ的、そんな画風である。モンパルナスで10年ほどいて、そのあとは大磯で活動した。

もう少し、そのときの駄文を附け加えておこう。ぼくと同じ、落語フアンでもあり、志ん生が大好きで、パリでもよくテープを聞いていたという。志ん生の吉原の廓噺しを題材とした絵もいくつかあるとのこと。それと子供のころ(戦後)娼婦に可愛がられたこともあり、彼女らに親近感をもち、彼の絵によく”出演”させている。一方、世の中、つまらねえ、とも思っていたそうで、坂口安吾のフアンでもあったから、彼の絵は、志ん生と安吾をかきまぜて、平賀のエレキテル(笑)でびびっと描き上げたというところだろうか。笑いと涙が共存するような、不思議な雰囲気をもつ絵である。

軽妙洒脱!現代の戯作者、「平賀派」の世界、と、このギャラリーは紹介している。”平賀派”とあるのは、彼の御子息も画家で、今回、二代展としているからである。平賀太郎の紹介はこのギャラリーの文章を引用しよう。

平賀太郎は、父が12年滞在し活躍したパリ一番の歓楽街ピガールの中、毎日のように入れ替わり立ち替わり敬を訪れる人々の渦中で育ちました。一癖も二癖もある父の友人らを好奇の目で見つめ、観察し続けるうちに猛スピードで今日まで至ったように思えると、太郎は言います。自身が暮らす街と人々を主題とし、そこでの出会いを独自に再構成された美しいモノトーンの世界へとおとし込む。一つの「街」そのものを相手にするかのようなその作風には、父と同じく豊かな物語性がたゆたいます。

はじめボールペン描きをしていたが、鉛筆が一番、真実を表せるということで、現在は鉛筆描きが多いそうだ。描写力がすごい。
楽しい展覧会だった。

平賀敬

平賀太郎

ブンカムラギャラリー

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ボッティチェリとルネサンス/フィレンツェの富と美

2015-06-19 08:21:58 | Weblog

おはようございます。関東では1日雨というところが多いようですね。でも、紫陽花見物には雨がよく似合う、と鎌倉は相変わらず、混み合うことでしょう。さて、今朝は、先日、明治神宮の花菖蒲を観に行った帰りに寄った渋谷の美術展のこと。できれば、ブンカムラ、ギャラリー、松濤美術館と三つ行っているので、一気に今日中に仕上げたいところ(汗)。まずは、ブンカムラ。

昨年の都美で開催されたウフィツィ美術館展で、ボッティチェリの作品がたしか5点以上は来ていて驚いたが、今、Bunkamuraミュージアムで開催されている”ボッティチェリとルネサンス展”では17点もきている。この半年の間に20以上のボッティチェリがみられるなんて、信じられない!サブタイトルに”フィレンツェの富と美”とあるように、サンドロ・ボッティチェリ(SandroBotticelli,1445年~1510年)らフィレンツェの画家たちの作品をサポートし続けた、金融業で富を得たメディチ家の盛衰にも目を向けている。

序章 富の源泉:フィオリーノ金貨
1237年にフィレンツエはトスカーナ侯国から独立し、52年にはフィオリーノ金貨を造る。近代の経済の礎を築いたという貨幣。これも展示されている。表面にはフィレンツエの花、百合が刻まれている。

第1章 ボッティチェリの時代のフィレンツェ
ボッティチェリの《ケルビムを伴う聖母子》の額縁に貨幣の鋳造や銀行業、商人の活動を監督した両替商組合の象徴である金貨の文様があしらわれている。この時代のフィレンツェでは芸術と金融、商業活動は密に関わっていた。ここでは絵画だけでなく、当時の経済活動の資料や商人の仕事道具が展示されている。

ボッティチェリ ”ケルビムを伴う聖母子”


第2章 旅と交易:拡大する世界
フィレンツェの銀行の支店が欧州各地に開設され、旅行も容易になり、交易は活発化し、フィレンツェにはヨーロッパ、中東からの商品も行き交いようになる。ここでは、航海図、旅の道具、商品を輸送する船旅の様子を伝える絵画などを紹介される。

第3章 富めるフィレンツェ
13世紀以降、ヨーロッパではたびたび奢侈禁止令が発せられ、金融、商業で富めるフィレンツェでも例外ではなかった。ここでは、禁止の対象となった壮麗な婚礼や葬儀の様子を表した作品、フラ・アンジェリコ 《聖母マリアの結婚》等が展示されている。

第4章 フィレンツェにおける愛と結婚
商人や銀行家の寝室は、結婚生活・出産・死が展開されるプライベートな空間だった。寝室の調度のうちカッソーネ(長持)と呼ばれる婚礼家具や宗教画、出産盆(出産祝いを載せる盆)には、夫婦の社会的役割を示す図像が選ばれ、フィレンツェ・ルネサンスの社会が依って立つ価値観や美徳が示される。

第5章 銀行家と芸術家
ルネサンス期のフィレンツェの名作の数々はメディチ家をはじめとする銀行家一族の注文によって制作された。メディチ家から絶大な信頼を得ていたボッティチェリは、彼らの要望を満たす作品を生み出す理想的な画家だった。

この章で、いよいよボッティチェリが大量に登場!

サンドロ・ボッティチェリ《受胎告知》 ウフィツィ美術館所蔵の至宝、横幅5メートルにも及ぶ大フレスコ画。


サンドロ・ボッティチェリ《聖母子と二人の天使》

サンドロ・ボッティチェリ ”ヴィーナス” 名作”ヴィーナスの誕生”から抜け出してきた!年末展覧会美女ベスト10入り濃厚(汗)。

サンドロ・ボッティチェリ 受胎告知(第2章)&キリストの降誕


第6章 メディチ家の凋落とボッティチェリの変容
メディチ銀行の衰退とともにフィレンツェは危機の時代を迎える。この頃、台頭した修道士サヴォナローラが行った「虚栄の焼却」では贅沢品や宗教上好ましくない芸術作品が燃やされる。ボッティチェリの晩年の作品はそうした時代の空気を反映している。

たくさんのボッティチェリをありがとう!

 

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報国寺 ハンゲショウとネジバナ

2015-06-18 18:33:24 | Weblog

竹の寺、報国寺にも、りっぱなネジバナ園があることを数年前、知ってから季節には、浄妙寺とセットで訪れることにしたいる。今日もそうだった。浄妙寺のネジバナが五分咲きくらいだったので、あまり期待はしていなかったが、やっぱり、もう一つだった。その代わり、竹林庭園内のハンゲショウ(半夏生、半化粧)が見頃になっていて十分、元をとった感じ。竹林はいつものように、さすが鎌倉随一の美しさを魅せてくれたし、苔庭も素晴らしかった。

6月18日 曇り 報国寺 ネジバナとハンゲショウ

ネジバナ園 石庭内の芝生

さて、どうでしょうか。まだ色づきがよくありませんね。1週間後でしょうか。

修学旅行生も知らんぷり

さて、拝観料を払って、竹林へ。まずは本堂横の庭園へ。ハンゲショウが見頃になっていました。

紫陽花を入れて撮る

竹林はいつも通りの素晴らしさ

紫陽花を入れて

苔庭はいつも見頃

生金魚はいつも食べごろ、生シラスよりおいしいと評判

近くの、旧華頂宮邸に行ってみた。ここでは紫陽花より薔薇。

紫陽花は隅っこに咲いていた。

鎌倉の三大洋館の一つです、あとの二つは長谷の鎌倉文学館と古我邸です、とガイドさんが中学生グループに話していた。そうそう、先日、鎌倉駅から歩いて5分の、古我邸を覗いてきました。現在は、高級レストランになっていました。写真だけでもつけておきましょう。

古我邸宅レストラン


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