ぼくの好きな散歩コースのひとつ、横浜山手。みなとみらい線で終点の元町・中華街で降り、長い長いエスカレーターでアメリカ山公園に出て、そこを出発点として、みなとの見える丘公園、そしていくつもの洋館をみながら山手大通りを歩き、イタリヤ山へ。そこから石川町駅に下りていくというコースである。そして、間に神奈川近代文学館を入れることも多い。今回もそこで文学展を楽しんできた。
銀の匙の作家・中勘助展である。ぼくにはほとんど知らない作家であったが、とても面白い展覧会だった。中勘助(1885-1965)の代表作が”銀の匙”で、実際、その小説タイトルのもとになった遺愛の銀の匙が展示されている。幼少の頃、身体が弱く、叔父さんだったかに、特製の薬をその匙で飲まされていたんだそうだ。幼少の頃からの自伝的小説なのだ。
一高、東大で漱石の講義を受け、漱石とは師弟関係にある。漱石は彼の実力を認め、自分の、朝日新聞の連載小説のあとは彼にするようにと社に推薦した。その頃の往復の手紙、筆名はどうするかとか、与謝野晶子が先になるかもしれない、彼女が妊娠したのでやっぱり君が先になるらしい、無名だから原稿料はあまり期待しないように、誤字が多いので注意するように、とかの内容の手紙が陳列されている。
漱石には師事したが、群れるのが大嫌いで、文壇にはそっぽを向き、せいぜい志賀直哉との多少のつきあいがあった程度。岩波茂雄とは知友で、たくさんの本を出版し、のちに和辻哲郎らの編集で、りっぱな中勘助全集が完成した。この功績で朝日賞を大仏次郎と同時受賞している。
義姉の末子が鏑木清方に師事したことがあり、”銀の匙”の改訂版の表紙絵や装幀に関わった。絵は神田祭の山車、諫鼓鶏(かんこどり)だった。中勘助は神田で生まれていて、小説の舞台も神田とその後の居住地、小石川だ。ついでながら、神奈川とのゆかりは、小田原と平塚。数年ほど住んでいる。
この展覧会の、もうひとつの見所が後半に待っている。中学の国語教育の教材に”銀の匙”を採用し、なんと、それだけを3年間、使い続けたという灘中の橋本武先生のことだ。このことはどこかで読んだりした覚えがある。遠藤周作や黒岩神奈川県知事も教え子であり、その教育を褒めた著述や対談がある。いわゆるスローリーディングの走りだ。その使い古した本や、ガリ版刷りのテキストや、生徒に対する勉強法のレジメなどが展示されている。ただ、お堅いだけではなく、宝塚の大フアンでもあったようだ。源氏物語も好きで、自分で現代語訳している。それらの資料もみることができる。2年ほど前、101歳で亡くなられた。
橋本先生を魅了させた、”銀の匙”を一度、読んでみたいものだ。
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港のみえる丘公園の”夏薔薇”が満開になっていた。
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