気ままに

大船での気ままな生活日誌

カルガモ日誌 2015(8)

2015-06-17 22:25:45 | Weblog

おばんです。今日、ちょっとひやりとしたことがあったので、カルガモ日誌(8)をお送りしたいと思います。

お昼前に駅へ向かう途中、砂押川のカルガモ親子に出会った。子鴨たちは水辺でお昼寝。気持ちよさそうに目を閉じてる。母鴨は水上で見守っている。いつもながらの、のどかな風景だな、と眺めていたが、はっとする。なんと6羽いるはずの子鴨が何度数えても、5羽しかいないのだ。周りの水上にもいない。これは一大事だ。5月6日、8羽の雛が巣立ち、いよいよ3羽目の受難か。でも、元気な一羽が早々と親離れした可能性もあるが・・・

先日、この川の本流となる柏尾川でも親子連れのカルガモを見つけたが、雛が二羽しかいなかった。そのとき、話しかけてきたおばさんが、亀に攻撃されているところを目撃したと言っていた。カラスにもつっつかれているのも見たそうだ。ぼくは、その少し前に青大将と思われる、結構、大きな蛇が川を渡っていたのを見たばかりだった。スピードが速く、カメラを取り出す、間もなく、向こう岸の茂みに隠れてしまった。蛇だって、もちろん天敵になるだろう。やっぱり、天敵にやられてしまったか・・・

2015.6.17 午前11時半

そして、ぼくは映画を見たあとの帰り道、午後5時頃、川を見下ろしながら歩いた。すると、午前中、居た場所に近い水上にカルガモの親子を見つけた。しっかり、子鴨の数を数える。1,2,3・・・・何と6羽居る。ほっ!大丈夫だった。よかった、よかった、6姉妹、無事だった。今日の映画は4姉妹だったけど。

2015年6月17日 午後5時

ひやりとした日だった。

川辺の大きなサボテンの花が微笑んでいた。

紫陽花も。

デイゴの花も。

 

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大関ヶ原展

2015-06-17 11:11:26 | Weblog

江戸東京博物館では”花燃ゆ展”が始まり、そのうち行こうかと思っているが、その前に片付けておかねばならないことがある。だいぶ昔、GW中に行った、”大関ヶ原展”のことである。記録だけでも残しておこうと書き始めている。そんなのばかりが多い(汗)。

当日もいつになく、賑わっていて、チケットを買うにも長い行列が出来ていた。会場も、同様、大混雑だった。”日本刀女子”の流れだろうか(笑)。そういえば、石田光成の愛刀(正宗)などの名刀も来ていた。合戦で使用した家康と徳川四天王の具足が勢ぞろいというのも目玉だった。

展示構成は以下の通り(公式ホームページの文章を要約)

プロローグ ~描かれた戦場~
慶長5年(1600年)9月15日、天下分け目の関ヶ原の戦いが始まる。数多くの屏風や絵巻物などの作品に描き残される。家康が、金扇馬印と旌旗に囲まれ、華々しく描かれている。

1.再乱の予感
慶長3年(1598年)8月18日、秀吉が亡くなる。これを境に、水面下にあった対立関係が表だってくる。徳川家康と幼き豊臣秀頼を前面に押し出し力をつける石田三成。この二人が、「関ヶ原」へ向かう。

2.合戦の前夜
慶長5年(1600年)6月16日、上杉に謀反の疑い有りと、徳川家康は軍勢を率い、会津に出陣。この動きに呼応して、石田三成は、大谷吉継等とともに挙兵。日本中に激震が走る。この対立はたちまち全国に飛火。全国的規模で関ヶ原の前哨戦が始まった。

3.決戦・関ヶ原
慶長5年(1600年)9月15日早朝、決戦の火ぶたが切られた。各所で激戦が繰り広げられる。一方、島津のように関ヶ原には参加はするが動かない勢力や寝返りを考えているものなど、戦線は終盤まで予断を許さない。突如、西軍の大勢力である小早川秀秋が動き、味方であるはずの大谷隊に斬り込む。これを境に西軍は大混乱に陥り、敗退した。 たった一日で勝負がついた。

4 戦後の世界~天下人への道のり
家康は寝返った小早川秀秋らに石田三成の佐和山城を攻めおとさせ、毛利輝元を大坂城から退去させる。10月1日、京都六条河原で三成は、合戦の首謀者として処刑される。 しかし、この時点でも、家康は豊臣家の大老という立場は変わらなかった。時代は徐々に徳川家へと流れて行く。慶長20年(1615年)5月8日、燃え盛る大阪城で秀頼とその母淀は自害する。大阪冬の陣・夏の陣が天下取り、最後の戦いとなった

5 徳川家康の素顔
徳川家康の人物像は、ゆかりの品々からもしのばれる。武勇を語る武器武具、知識を語る書籍、海外への視野をうかがわせる舶来品の数々。それらは今も、子息達への分与品、「駿府御分物」として、また、久能山東照宮等の御宝物として、受け継がれている。

エピローグ
大阪夏の陣で豊臣家が滅んだ直後の慶長20年(1615年)7月13日、年号が元和に改元された。武器をおさめ、戦乱が終わり平和になったとの区切りを示す改元であった。同月、家康は「武家諸法度」を制定・公布した。ここに、徳川家は名実ともに、武家の統領家となり、世界にも類を見ない、二百数十年にも及ぶ、安寧の歴史が刻まれていくことになる。元和2年(1616)4月17日、時代の移り変わりを見届けた徳川家康はこの世を去る。

関ヶ原合戦図屏風(関ヶ原町歴史民俗資料館蔵)

関ヶ原合戦図屏風(大阪歴史博物館蔵)

家康と徳川四天王の具足が勢ぞろい

家康の具足等

常設展では。広重の名所江戸百景展も。

どちらも、楽しい展覧会だった。

 

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えびの高原と秘湯 (南九州の旅#7)

2015-06-17 08:55:40 | Weblog

おはようございます。さて、次々と新しい遊びが入り、延びのびになっていた南九州の旅シリーズ、今日で決着をつけます(笑)。

南九州の旅、最終日のえびの高原の散策をおおいに期待していたが、我妻(晴れ女)の神通力も及ばず、”宮崎は今日も雨だった”になってしまった。それも、小雨ならともかく、本降りになってしまい、散策は中止となり、予定されていた山ガールさんの案内も、えびのエコミュージアムセンター内のみ。ビデオや写真をさびしく、眺めるにとどまった。

天気がよければ、目の前の韓国岳(からくにだけ)、その向こうに、高千穂の峰がそびえているんですよと山ガールさん。残念無念!というわけで、まずは、ミュージアムの山の写真から。天気がよければ、こんな雄大な景色が見えたノダ。韓国岳は韓国の人に人気ですと、山ガールさん(笑)。霧島山(高千穂の峰)には、おりょうさんを連れた龍馬が登山。お姉さんの乙女に手紙で詳しく知らせている。山上の逆鉾は、よく動くのでおりょうと二人で鼻をおさえて、エイヤと引き抜いてみたら、わずか4~5尺くらいでした、すぐ元通りに納めました、だって(爆)。そうそう、山頂は、眺めもよく、キリシマツツジ(ミヤマキリシマ)が一面に咲いて、実に化粧をしたようでした、とも書いている。


そのミヤマキリシマ、近くのつつじ山に1週間前まで咲いていたんですけど、と山ガールさん。でも、このミュージアムの近くでもいくつか咲いているのがありますよとも。そこで、家内と雨の中、探しに行った。ありました!えびの公園の入り口でミヤマキリシマを見た!最低限の仕事はした(汗)。


最盛期にはこんなにも!

その近くに、オオヤマレンゲが開花していた。

ここへ来るまでの車窓からも、あちこち見たコガクウツギ。

えびのエコミュージアムセンター

えびの高原をあとにして、向かうは秘境の温泉地、栗野岳温泉。バス一台がようやっと通れる杉木立の中の道を縫って、栗野岳の中腹の一軒宿へ。その名は南洲館。あの西郷隆盛が、維新後、鹿児島に戻り、ここで心身を癒されたという。 八幡地獄や泥湯がある。おいしい食事をいただいたあと、外にある泥湯に入る。まさに泥を混ぜたような熱い温泉。三日間の旅の疲れを、西郷どんに思いを馳せながら、癒したのだった。

泥湯の温泉場

ここから鹿児島空港も近い。飛行機に乗ると、あっという間に、墨絵のような富士山がみえてきた。

 日南のジャカランダをみて、鵜戸神社と霧島神社に御参りし、油津とおびの町歩きをして、秘湯に入ってと、楽しい南九州の旅であった。(完)

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